暗闇に入る経験
ヒエロニムス・ボス「Ascent of the Blessed」
臨死体験の内容として、暗いトンネルのような空間を通ったら、
明るい光(光の生命)が見えてきたという証言がしばしばある。ルネサンス期のネーデルラントの画家、ヒエロニムス・ボスが描いた「Ascent of the Blessed」という絵画には、
臨死体験時に見られるトンネルと
光の体験が描かれていると言われている。
『かいまみた死後の世界』の中で、臨死体験者が暗いトンネルのような空間を通過するという体験について、
臨死体験の比較的早い段階で、耳障りな音が聞こえ始めると同時に、暗い空間の中を猛烈な速度で引っ張られていく感じがしたと報告している人が非常に多いという事が紹介されている。また、この空間についての説明は、体験者によって、洞穴、井戸、溝、閉じ込められた場所、トンネル、通風筒、真空空間、虚空、下水道、谷間、円筒など様々な言葉で表現され、トンネルを見たことがない幼児の場合には「天国から滑り台で戻ってきた」といった表現になっているようであるが、そこに一定のパターンがあり、一つの現象を説明しようとしているという事は否定できない。
マイクル・セイボムが、肉体から離れて自分の肉体やその周囲を眺めるという
臨死体験に見られる要素を「自己視的要素」と述べ、この世のものならぬ世界を見るという要素を「超俗的要素」と述べていて、
『「あの世」からの帰還』の中で、暗い世界ないし空間を移行するという体験をした時点から超俗型臨死体験が始まったとする体験者がいたことや、自己視型臨死体験の最中にこのような暗闇の世界を体験したという例もあったという事が紹介されている。ケネス・リングも、
『いまわのきわに見る死の世界』において、彼らが集めた事例の4分の1より僅かに少ない事例でこういった特徴に巡りあっていると言い、コア経験の3番目の段階として、この世とその先にある世界との間の過渡的世界に入ることになると指摘している。しかし、ムーディが指摘したトンネルの概念に一致する体験は一部であったことなどから、それをより一般的に、形や大きさのない、漠然とした闇の中を通るという言い方で、
暗闇に入る経験と呼んでいる。そして、この空間は、普通、非常に暗く、安らかで、経験を述べている大部分の人によれば、大きさの分からない空間として描かれるという。また、この空間の中をものすごい速さで動いたように感じたという人もいるが、大部分の人は漂うように通ったと感じていると報告されている。
カール・ベッカーは、臨死体験者の多くが
光の生命に向かって、長いトンネルを通り、天国のような広場に出るという体験をするという事は広く認められていると述べた上で、このような体験の意味や起源、存在論的位置付けについては、哲学者や心理学者によって依然として広く討議されているという事を述べている。天文学者のカール・セイガンは、このようなトンネルのイメージは、人間が出生時にトンネルを通って光の世界に出るという体験をしている結果、それが脳に消し去ることのできない刻印として残り、死に直面している時に再現されると述べている。しかし、生まれたばかりの子どもは形態を意味がわかるほど識別できる能力を持っていないという研究結果もあり、光の世界を十分に知覚する能力がないとすれば、
臨死体験時に鮮明で詳細なイメージを見るという事は説明できないという。なお、生まれたばかりの子どもの知覚について、このような研究とは反対に
誕生を記憶する子どもの研究もあり、このような反論は必ずしも説得力をもつものではないが、スーザン・ブラックモアは、産道を通らずに帝王切開で生まれた人がそうでない人と同程度、
臨死体験時にトンネルのような空間を移行するという体験をしたと報告しており、いずれにしてもトンネルのイメージを全て出生体験に起因するとみなすことには無理があると言える。
また、脳に供給される酸素の濃度が低下すると、低酸素に陥り、死んでいく脳の働きによって、トンネルのようなイメージが生まれるという説明もあるが、酸素欠乏ではない状態の方が、
臨死体験が起こりやすい事を示した研究結果や構造化されたトンネルを通ったと報告する臨死体験者もおり、生理学的なアプローチでは、なぜそうなのかという事は説明できないように思える。
臨死体験者が通過するトンネルのような空間をどこか多次元のトンネルと主張する人もいる。ケネス・リングは心が普通の意識状態からホログラフィー的な、四次元の意識に移る精神現象と捉えているようであり、イツァク・ベントフの主張を援用し、トンネルや暗闇は、通常の意識から周波数領域を直接に感じる感覚へ移行する間に生じる体験であると指摘している。幼少の頃から医療記録に残る心肺停止状態での
臨死体験を30回以上した量子物理学者で化学者でもあるウィリアム・ブレイも臨死体験者の多くが見るトンネルは意識が有限の世界から無限の世界に帰る移行を示しているとし、ブレイは人は粒子と波動から成る生物として生きているが、意識自体は無限の世界に広がって存在しているという。また、斎藤忠資は、現代物理学で私たちの宇宙と他の宇宙を繋ぐ通路とされているワームホールと、
臨死体験に見られるトンネルのような暗い空間の共通点とアナロジーを考察している。このような考察についても、
臨死体験と現代物理学を結び付ける事には慎重であるべきと言えるが、アナロジーとして見ることで、見えてくる部分がある事は否定できないだろう。これらのことからも、臨死体験者がトンネルのような空間を通過するという現象は、通常とは異なる意識の領域との出会いであると言え、脳と心の関係性や私たちが生きている現実とは何かを考える上で、重要な手掛かりとなるのではないかと思える。
最終更新:2023年04月24日 00:18