概説
お迎え体験(psychopomp)または
お迎え現象は、終末期患者が自らの死に臨み、すでに亡くなった家族や知人を見る体験である。また、死が近づいた人が既に亡くなった人の事を急に話し始めたり、直ぐ側に誰かが居るかのように御喋りを始めたりする事があるとも言われる。なお、
臨死体験は、臨死からの蘇生を前提としているが、お迎え体験はコミュニケーション可能な意識下での経験であり死そのものを前提としている(死のプロセス)という点で異なり、河原正典は、お迎え体験では
臨死体験で報告される御花畑や
光との出会い、
トンネル現象などは少なかったという。この点については、イギリスの医学者ピーター・フェンンウィックも臨終期視像の場合、トンネル体験を述べた人はいないが、その代わりにもう一つの超越的な領域に出入りできることを述べているという。また、デイヴィッド・ケスラーもお迎え体験に類するデスベッド・ヴィジョン(後述)と
臨死体験とを峻別している。
歴史的には、死の直前の意味深い夢やヴィジョン(ここでは一部
臨死体験も含む)は、アメリカインディアンを初め世界中の先住民の宗教や聖なる伝統文化の中にも存在し、聖書やプラトンの『国家』、14世紀の神秘家ノリッジのジュリアンによる『神の愛の啓示』、ルネッサンスの絵画やシェークスピアの『リア王』、19世紀のアメリカやイギリスの詩、トーマス・スターンズ・エリオットの詩、ダライ・ラマの詩の瞑想でも取り上げられているという。
日本に於いては、平安時代の往生伝にも書かれ、民俗学者の柳田國男や児童文学作家の松谷みよ子の『現代民話考』などがその事例を紹介している。19世紀の物理学者のウィリアム・フレッシャー・バレットは、1918年出版の著書『On the Threshold of the Unseen(霊会への入り口)』の中で、死に瀕した人間がこの世を後にする前に亡くなった家族や友人に会うらしいといった事を指摘している。バレットは、元々、こうした体験を幻覚として見ていたが、引き続き報告される中で、幻覚を超えるものと考え始めたという。
精神医学的にはこうした体験は終末期に多々見られる譫妄による幻覚、幻視、あるいは夢として解釈されるが、患者本人やその遺族の精神的苦悩の緩和にとって意義深い役割を担いうる事から、学術的研究の対象ともなっている。岡部健や河合正典も、譫妄の一種であると言った解釈では、お迎え体験がもたらす家族間の豊かな関係性が切り捨てられる可能性があると言い、譫妄診断からは距離を置く必要があるとしている。また、アメリカのホスピスに勤務するクリストファー・カーも終末期の夢やヴィジョンは譫妄とは全く異なると考えている。カーによれば、患者にほぼ共通した反応として、終末期体験は「ふつうの夢とは全く別のもの」という事で、「いつもの夢は忘れるけれど、それとは違う体験」「現実以上にリアル」「実際に体験したのと同じ」であるという。調査では終末期体験の45パーセントが入眠中、16パーセントが覚醒中、39パーセント以上が両方に跨って起こったというが、どのような時でも終末期体験の現実感については100パーセントリアルであったと答えている。それ故、覚醒時と同様、またはそれ以上に鮮明で忘れがたい体験をする終末期の患者と意識の混濁を結び付ける事は全く的外れという事になる。
カーリス・オシスとエルレンドゥール・ハラルドソンの調査
カーリス・オシスとエルレンドゥール・ハラルドソンは、1959年末、臨床に従事しているアメリカ合衆国の医師と看護師各5000名を無作為に抽出し、死期の迫った患者の幻覚的行動や感情状態について調査票を郵送し回答を求めた。その結果、640名の医師や看護師が回答を寄せ、臨終時の患者の観察報告は35540例に上り、人物の幻覚(霊姿)を見た患者が131名、幻(ヴィジョン)を見た患者が884名、気分の高揚を体験した患者が753名に上った。そして、大半の患者は霊姿の使命を自分をあの世に連れ去る(別の存在界に移行するのを援助する)事だと見ている。また、患者のほぼ半数が霊姿を見ることによって、気持ちが落ち着いていたといい、あの世との遭遇特有の人知を超える平安に通じている。さらに、末期患者は健常者と比べて生者ではなく死者や宗教的人物といった死後の世界に関連したものを圧倒的に多く見ている事も明らかになっている。
死を目前にした患者が最も高率で目撃したのが霊姿であったという。そして、臨終時の幻の約半数は5分以内に終わり、6分から15分持続した幻覚が17パーセント、1時間以上持続したものが同じく17パーセントしかなかったという。また、現れる人物として、すでに亡くなっていた人、まだ生きている人、キリストやヤムラージといった神話的人物の3パターンがあったという事が報告されている。西洋では、幻(ヴィジョン)の中で、擬人化された死の姿はなかったというが、インドでは宗教的人物の幻覚を見た患者が圧倒的に多くヤムドゥート(インド民話によればヤマ(閻魔)の使者)が現れることがあり、ヤムドゥートはいつも穏やかに振舞うとは限らないという。しかし、インドとアメリカ合衆国のお迎え体験を比較した場合、相違点より共通点の方が多かったとも言い、宗教の教えに基づく条件付けとは矛盾するものも一部にはあったという。
近年の研究では、フェンウィックは、大昔の記録や中世の絵などでは臨終者を迎えに来て道を示すのは殆ど全て宗教的存在であるが、フェンウィックが集めた現代の事例では、宗教的存在は僅か2パーセントで、70パーセントが死んだ親族や友人、残り28パーセントが不明だったらしく、迎えに来るのは圧倒的に親族が多かったというし、言語学者のリサ・スマートの報告では天使や聖人の他、動物や幼い子どもたち、景色、黒い服を着た男性を見たと言う話や、音楽、ベル、チャイムを聴いたという話もある。このように、死を目前にした人が目撃する可能性があるものについては、様々な報告があると言え、今後、さらに究明されねばならない課題の一つである。
医学的要因
投薬、高熱、脳の機能異常といった医学的条件は臨終時の幻(ヴィジョン)には、比較的影響を及ぼさないことが分かっており、またそのような要因が見られた場合には、幻はあまり見られなくなった。このような事からも医学的要因は霊姿の体験の原因にはなりえないのであると結論付けられている。また、フェンウィックによれば、薬物による幻覚は不快なもので患者の心の慰めになるものではないというし、薬物による幻覚と(母親が隣のベッドに座っていて心を慰められるような)臨終期視像を同時に体験したという患者によれば全く別物なのだという。
心理的要因
アメリカ合衆国でもインドでも、患者が迎えに来た霊姿に対し、宗教的感情ないし、あらゆる人知を超える平安で反応したといい、このような反応は病脳仮説とは殆ど合致せず、むしろあの世の存在を仮定すれば患者の反応の意味が分かるという。また、霊姿の思惑と患者の思惑とが相当食い違っている例もあり、オシスとハラルドソンは患者とは別個の実在として霊姿が存在する可能性があるとする仮説を支持している。
このような事から、オシスとハラルドソンは医学的心理的学的原因によって説明しがたい事や、宗教その他の文化的要因によってもこの体験は説明しきれないといい、当初は批判的であった死後生存仮説を受け入れるようになったという。
デスベッド・ヴィジョン
デスベッド・ヴィジョンは、臨死意識(near-death awareness)、臨死現象(deathbed phenomena)、死の知覚体験(death-related sensory experiences)などの呼び方でも知られ、大抵、死の数日前、あるいは直前に亡くなった人が死者として現れることをいう体験を指し、お迎え体験と同様の体験であると言える。デイヴィッド・ケスラーは、死にゆく人が最期の数日、数時間に体験するものとして、デスベッド・ヴィジョンの他、トリップ(旅)、クラウディッド・ルーム(込み合った部屋)といった体験を紹介している。また、このような体験は幽霊を体験するようなものではなく、何者かや何かが患者を家に導いてくれるかのような神聖な感覚だったという報告もあり、オシスとハラルドソンが指摘している人知を超える平安にも通じている。また、フェンウィックは終末期体験の中でも最も一般的に報告されるのが臨終期視像であるとしており、通常は死んだ親族が死のプロセスを手助けする事もあるといい、死に対する霊的な準備を手助けするとも言われる。一方で、イギリスの一般開業医であるデヴィ・リースは最も一般的な現象は死んだパートナーの存在を感じるという者であるといい、227人の未亡人と66人の寡婦を対象とした調査の結果を以下の通りまとめている。
|
男性 |
女性 |
総計 |
存在を感じる |
43.9パーセント |
37.9パーセント |
39.2パーセント |
死者を見る |
16.7パーセント |
13.2パーセント |
14.0パーセント |
死者の声を聞く |
10.6パーセント |
14.1パーセント |
13.3パーセント |
死者と話す |
19.7パーセント |
9.3パーセント |
11.6パーセント |
死者に触れられる |
1.5パーセント |
3.1パーセント |
2.7パーセント |
死にゆく人の旅
デイヴィッド・ケスラーは、デスベッド・ヴィジョンに続き、2番目の臨終時体験として「旅」支度を挙げている。ケスラーは、マークという患者の息を引きとる数時間前の妻との以下ようなやりとりを挙げている。
息を引きとる数時間前、マークは突然目を見開くと妻に訊ねた。
「準備は整っているかい?」
どうしたらいいかわからずに妻は、「マーク、みんなここにいるわよ」と答えた。
「僕の鞄の荷造りはできているかな?」
「なんの鞄のこと?」
「旅行用の鞄だよ。そろそろ出かける時間だからね」
ケスラーによれば、「旅」支度は、人によって色々な形をとることができるがこのような現象は珍しいものでも、新しいものでもなく、多くの人は迫りくる死を実際の旅として捉えているという。死に関する準備教育を行っているマーサ・ジョー・アトキンスによれば、死に近づくにつれて人々が使う比喩は発展していくのだといい、最初は例えば「地図がないの…」と言い出すが、それが「私のスーツケース、誰が持ってるの? スーツケースが必要なのよ」に変化し、「荷造りはできたわ。出発準備完了」と言うこともあり、旅にまつわるものや食事や食卓の準備に関わるものも多かったという。また、フェンウィックは、このような体験では、自分は死ぬという表現を用いず、「迎えられている」「連れて行かれる」あるいは「旅立つ」という表現を用いると言い、終わりではなく継続を示唆する楽観的なメッセージであるという。
込み合った部屋
ケスラーは3番目の臨終時現象として、クラウディッド・ルーム(込み合った部屋)を挙げている。ケスラーは死を目前にした患者が部屋で沢山の人を見たという事例としてアリスという患者の体験を紹介している。
部屋に入ると七十九歳のアリスがうとうとしていた。じゃまをしたくなかったので、ベッドのそばの椅子に腰かけた。数分後に、部屋を出ようと腰をあげると、低い声がこうささやくのが聞こえた。「この人たちはいったいだれ?」
「僕だけだよ、アリス」わたしは言った。「夢でも見ていたのかい?」
「夢なんか見てないわ。ただみんなを眺めていたの」
「誰を見ていたんだい?」
返事をするかわりにアリスはベッドで横になったまま僕に近寄り、訊ねる。「どうしてこんなにたくさんの人がいるの?」
また、科学の教授をしていたミスター・ヒルという人物も夜中に目が覚めたら、人が大勢いたといい、そこにいた人は皆亡くなっていたと気が付いたという。ケスラーは、大勢の人を見るというのも、死にゆく人にとっても看取る人にとっても目新しいものではないという。
お迎え体験と類似した体験
お迎え共有体験
死を迎えつつある患者本人ではなく、残された家族が患者とともにお迎えを体験するというものであり、
レイモンド・ムーディが言う
臨死共有体験にも重なる部分がある。しかし、河原正典は、患者本人にお迎えがあったかは分からないといった事や、夢で見たという記述などからお迎え体験とのリアリティとの間にある種の距離感を生んでしまうと述べている。
臨死体験と臨終期視像には、違いもあるが、フェンウィックも両者が全く無関係な関係現象だと考えるのは合理的ではなく、一つの連続した事象の一部、あるいは同じ現象の異なる側面と考えるのが正しいと指摘しているのである。そして、超越的な領域が存在し、そこにアクセスするという
臨死共有体験に、臨死体験と臨終期視像の接点を見出すことができるかもしれないと思うのである。
終末期体験
お迎え体験に準ずる事象として、フェンウィックによって唱えられた終末期体験と呼ばれる現象がある。具体的には、お迎えのような臨終期視像の他、死の直前における一時的な寛解と覚醒を指す中治りや、患者が自分の手を見つめる手鏡現象などが挙げられる。このような、終末期体験の割合は、お迎え体験のあった患者の場合、明らかに上昇が見られ、お迎え体験と強い相関で結ばれている事が分かっている。
鈴木秀子は、中国の人々はこのような現象を「回光返照」と呼んでいると指摘しており、死の迫っている人々に訪れる「すっかり元気になったような時間」に自然との一致、自分自身との和解、他者との仲直りといった人生最後の仕事をするようだと述べている。
死の悟り
患者がなくなる前後の印象深い出来事として、自らの死期を語るという体験がある。その数量的な把握は困難だが、お迎え体験と同時期に起こる事もあるという。
日本における調査
オシスとハラルドソンの研究は死後生存をテーマとした超心理学的立場からのものであったが、近年の新潮流はホスピス・ケアを前提に患者や家族をいかにケアするかという課題に導かれたものであるという。。
爽秋会岡部医院を開設した岡部健は、治療効果の望めない患者の「自宅に帰りたい」という希望に応じて在宅緩和ケアに切り替えたところ、患者の元に既に亡くなった人や動物などが訪れるという現象に遭遇し、その体験が限られた人だけでなく死にゆく多くの人々に訪れる体験であると気づかされたという。そして、岡部はお迎え体験をした患者は穏やかな最期を迎えている事から、単なる幻覚・幻視として排除するのではなく、意味のある実体験として位置付けている。岡部は、脳転移のため視力を失っていた女性の面前に祖父がリアリティをもって登場したという事例から単なる幻覚として片付けられないものとしてお迎えを意識したようである。なお、河原正典は、お迎え体験は死が必ずしも忌み嫌うべきものではなく、寧ろ穏やかさを伴ったものであると示唆したという意味で意義深い役割をもっていると捉えているが、あの世を証明するものとは捉えていない。この点については、クリストファー・カーも同様であり、患者の終末期体験を理解できても、その後何が起こるかコメントする事は私には出来ないとし、死はそれ自体が神秘であり、死後へのただの入り口に格下げする事を避けたいと述べている。
岡部医院は2003年1月1日から2007年1月31日まで、在宅で看取りを行った遺族を対象に682票の調査票を郵送し、回収された366票のアンケートによると、42.3パーセントに当たる155名がお迎え体験の有無について「そういうことがあった」と回答している。また、お迎え体験を体験した場所としては、自宅が87.1パーセントと最も多く、時期に関しては、亡くなる数日前が43.9パーセント、亡くなる数箇月前が29.0パーセントと亡くなる直前の3.9パーセントより多かった。この事から、意識が死の直前より多少でも明瞭な時期にお迎え体験をしたという傾向が明白に現れているという。この事は、過半数の患者が霊姿を見て24時間以内に死亡していると指摘しているオシスとハラルドソンの研究結果とは異なっているが、お迎え現象は亡くなる直前以外でも見られる事が窺える。
そして、お迎え体験があった時の故人の様子として、どちらかといえばネガティヴな印象を持たなかったという実態が浮かび上がっている。しかし、中にはネガティヴな影響を与えているケースも見られ、お迎えを拒絶したという事例もあったという。お迎え体験で個人が遭遇したものとして、既に亡くなっている父母、祖父母、夫・妻、兄弟姉妹、友人、親戚が圧倒的に多く、他には仏、ペット、光、神などに遭遇している人も少なからずいたという。
(以下、管理者の見解)
オシスとハラルドソンは、人間の幻覚は全て一様ではないと言い、霊姿的幻覚と全面的幻覚に分類しており、臨終時の霊姿も首尾一貫して患者が入る死後の世界に関する情報を伝えるという点で真性の幻覚という
ESP体験に似ている事を指摘している。このような霊姿的幻覚の意味に焦点を当てるなら、今生きているパートナーや恋人、子どもや孫ではなく遥か昔に死んだ家族が登場していることなど、オシスとハラルドソン、そしてフェンウィックも指摘している通り、医学的要因、心理的要因や生物学的要因といった側面だけからは説明しがたい部分が残ると考えられる。そして、
超心理学的研究もホスピス・ケアの普及を前提としている研究もお迎え現象が病的な幻覚であるとする見方に抗しているという点では一致していると言える。
また、クリストファー・カーは、終末期体験は生前に起こる事であり、死後それが起こす波紋についての議論は他者に委ねたいとしており、お迎え体験が
死後生存の観点から直接的な証拠にはならないにしても、時として「現実よりも現実感がある」という指摘は、
臨死体験にも通じるものがあると考えられる。カーが終末期の夢が人生を変容させる導きであり、大いなる愛の広がりであり、終末期体験とは思い出す事、感じる事、味わい、呼吸し、微笑むことだと指摘しているように、少なくとも体験者にとって意味に満ち、信仰の種類や属する宗教やその有無に関わらず、同様な神秘的な
霊的変容体験(Spiritually Transformative Experience)をしている事は否定する事の出来ない事実であろう。そして、その他の超越的神秘体験との関係から考えると、フェンウィックも指摘しているように、宇宙が高度に相互連絡しており、その中核にあるのは相と光であるという事を示しているといえるかもしれない。
最終更新:2025年04月01日 13:10