概説
人は死んでも生まれ変わり、存在を繰り返すという考えの起源は古く、インドのヴェーダ聖典、ウパニシャド哲学、ヒンドゥー教、仏教などで見られ、生まれ変わり、輪廻転生が存在するという信念をもっている人々は世界でも少なくないと言われている。しかし、一言に生まれ変わりと言っても時代や地域によって、そのヴァリエーションは豊富であり、それらを俯瞰して論じることは困難であると言えるが、竹倉史人は、生まれ変わりに対し、「再生型」、「輪廻型」、「リインカネーション型」という3つの類型を設定している。再生型は歴史的にも古層にある再生観念であり、生活習俗に近いものである。輪廻型は、古代インドで発明された転生思想で「カルマの法則」と結びつき、戒律の遵守、瞑想やヨーガの実践などにより輪廻からの解脱が目指される。そして、リインカネーション型は、19世紀中葉のフランスを席巻した心霊主義の渦中で生み出され、「霊魂の進歩」が強調され、現代のスピリチュアリティ文化にも深い影響を及ぼしている。
大門正幸は、生まれ変わりという概念の基本は、「生き物には心・意識・魂などと呼ばれる肉体とは独立した部分があり、その部分は肉体が滅んだ後も消滅せず、また新たな肉体に宿る」と述べ、「再生」や「転生」と呼ばれるとも述べている。そして、大門は世界中に見られる様々な生まれ変わりの概念の分析から以下のような付加概念が挙げられるとしており、理論的には様々なパターンの生まれ変わりが考えられる。
付加概念1:生まれ変わる主体が同一性を持つかどうか
付加概念2:種族を超えて生まれ変わるかどうか
付加概念3:生まれ変わりに外的要因(例えば神的存在や因果応報)を想定するかどうか
付加概念4:生まれ変わりを「生まれ変わる主体の成長の機会」と捉えるかどうか
付加概念5:生まれ変わりに「終わり」はあるかどうか
再生型事例・生まれ変わり型事例
生まれ変わりという概念が、歴史的な宗教信仰の一形態、民話や伝承などの民俗文化に留まらず、生まれ変わりに対する科学的なアプローチによる研究がある。以下では、実際に子どもが語った前世の記憶の内容が、特定の人物の生涯や過去に実際に起こった出来事、客観的事実と極めて高い確率で一致することを突き止めている研究について触れる。
「再生型事例」「生まれ変わり型事例」と呼ばれる生まれ変わりの学術研究は、ヴァージニア大学の知覚研究所によるものが有名で、ヴァージニア大学の知覚研究所では、50年を超える研究を通して、2600以上の生まれ変わり事例を集めている。その歴史は、1950年代後半まで遡り、1957年に39歳という異例の若さでヴァージニア大学の主任教授に就任し、学問的地位を確立していた
イアン・スティーヴンソンは、1950年代後半から科学知識では説明のつかない超常現象にも関心を寄せ、子どもが語った前世の記憶の内容を丹念に追跡調査する中で、幾つかの事例において事実とかなり高い確率で照合する事を突き止め、信頼性に足るとして、世界的にも権威のある医学雑誌(Journal of Nervous and Mental Disease)に発表した。
1951年7月インドのウッタル・プラデーシュ州カナウジの街に生まれたラヴィ・シャンカーは母・姉の証言によると、2、3歳のころに自分は前世では、チパッティ地区の床屋ジェゲェスワール・プラサドの息子だったと言い始めた。彼は喉を切られ、殺されて土の中に埋められといい、首の周りについている母斑は前世で喉を切られるときについた傷跡なのだと語ったという。この話は、プラサドの一人息子であったムンナの生涯と符合しており、「喉を切られて殺された」などの言葉は、ムンナが首を切離されて発見されていることからも正確だと分かったそうである。
また、他の事例としてアラスカのトリンギト族のヴィクター・ヴィンセントという人物の事例が挙げられる。
1946年にアラスカ州のアンゴーンで死んだヴィクター・ヴィンセントは姪に死ぬ1年ほど前に、姪の息子として生まれ変わり、その息子はヴィンセントと同じあざを持っているだろうと伝えたようである。ヴィンセントの死後、約18箇月後にあたる1947年12月15日に姪はコルリスという男子を産み、「生まれ変わり予告」通り、全く同じあざを全く同じ場所にもっていた。息子は話ができるようになると「ぼくはカーコディだよ」と言ったといい、「カーコディ」とはヴィンセントが持っていた部族名のようである。そして、コルリスは生前のヴィンセントが漁に行った時の話やヴィンセントが存命中のエピソードを正確に話したようである。
以上の事例は生まれ変わり事例とされる典型的なパターンであり、そのような事例には、
予言・予告夢、
先天性刻印、前世記憶の想起、
前世の行動・嗜好といった要素が含まれる。また、一部の事例では、前世の人格の葬儀や、他界にいたという
中間生記憶(これは、退行催眠で想起するものとも似通っている)、
誕生時記憶などの
幕間記憶を想起する子どももおり、そのような子どもは前世の人格について後に正確だったと確認された発言を多くしている事が分かっている。しかし、個々の生まれ変わり事例は、必ずしもすべての要素を含む訳ではなく、
イアン・スティーヴンソンは、客観的な検討が可能な
先天性刻印の要素に注目している。子どもたちが前世について語り始めるのは、2歳から5歳頃であり、5歳から8歳頃になると、通常、語るのをやめてしまうと言われる。前世の記憶は、感情の高まりと共に自発的に語られることも多く、事故に遭ったり、殺されたり、戦死したりなど、悲劇的出来事によって人生に突然終止符が打たれてしまった人物の記憶を残しているケースが多い。
生まれ変わり事例の様々な解釈
詐欺的行為・作話説
通常の解釈として作話、詐欺行為といったものがあるが、生まれ変わりの圧倒的多数の事例で、そのような話を捏造する動機がないという事が挙げられている。子ども自身も他人に前世の事を話すことで嘲笑やいじめの対象になり、家族関係にも溝が生じるため、自ら口を閉ざすケースがある事や、前世についての作り話をしたところで、それほどの名声や金銭が得られるわけではない事は、
サトワント・パスリチャ『生まれ変わりの研究 前世を記憶するインドの人々』から窺える。そして、2600以上の事例において関係者全員が芝居を打っていると考えるのは不自然であろう。
具体的には、現在貧しい環境に置かれている子どもが、裕福な過去生を送ったと主張し、出された食事を粗末だとして拒否し、昔は召使がやったと言って家の手伝いを拒絶しても、何の得にもならないと言え、そのような批判がインドの実情に即さないものである事が分かる。この他、ビルマ女性が前世が日本兵だと主張しているケースでも、前世がビルマで不人気であった日本人だと主張したところで家族にも村にも益がない事は明らかであろう。
さらに、スティーヴンソンの著作や論文を読むと徹底した調査が明らかになり、多くの情報提供者と面接していることが分かる。そのため、詐欺行為が成立するには共謀が必要になるが、大きな利得があるわけではなく、逆に悪評が立つかもしれないにもかかわらず、詐欺行為をする理由はないと言えると思われる。
空想・偶然説
子どもの空想や偶然の一致といった解釈がある。子どもが前世の話を作り上げ、前世の人格の名前を正確に言い当てたという事例の裏に正確に言い当てていない膨大な数の人たちがいるのではないかという反論がある。しかし、レバノンのスザンネ・ガーネムの事例では前世の人格に関係している人物や固有名詞を25も正確に語っているため、偶然言い当てたとする確率はゼロに近いと言える。また、ケヴィンの事例のように極めて稀な先天的欠損や母斑が、前世の人物の傷跡などと一致する場合には、偶然説に無理が出てくる。
自己欺瞞説
「前世がある」と子供が自分自身に強く言い聞かせることで、自分自身を騙しているのではないかという説である。しかし、そうした事例では「前世」についての証言の誤りも容易にわかる事が多く、前世を語る子どもたちが被暗示性が高いという事実もない。
潜在意識・子どもの記憶錯誤説
子どもがテレビや新聞などの情報や両親や近隣の人々の会話などを通して、前世の人格についての情報を知ったという解釈もある。しかし、スティーブンソンが調べたケースでは、「前世の家族」と「今世の家族」の間に交流があることを確かめられたケースは稀であり、ほとんどの場合、そうした家族間を結ぶ情報ルートは見つかっていない。また、調査した地域の多くは、ラジオ、テレビなどのマスコミが存在せず情報を得る手段がない。同一家族ではなく何百キロメートルも離れたところに住んでいた前世の人格についての正確な情報を語るという事例や家族が周りには伏せていた秘密の事柄に関する情報を知っていたという事例も多い。しかも仮に子どもがそれらの情報を得たとしても、過去生の場所や土地の見分けが可能になるとは考え難い上、それらの情報から前世が見ず知らずの他人だったと思い込む理由を説明する事も困難である。
情報提供者の記憶錯誤説
両親やその近隣者が、子供たちの証言を誤って記憶し、それを研究者に伝えたのではないかとする説である。特に生まれ変わり信仰を持つ文化圏では、生まれ変わりを証明したいという動機が人々にあるため、ある種の「誇張」が行われやすいとする説である。橘隆志も生まれ変わり事例のサンプルは
臨死体験と比べてもサンプルが少なく地域に偏りがあり客観的な調査が困難である可能性を述べている。
ジム・タッカーは情報提供者の記憶錯誤という可能性は生まれ変わり事例を説明する通常の概念の中では最も脈がありそうだとしているが、ビシェン・チャンド・カプールというインドの少年の事例では、両親や近隣者により子供の前世が特定される前に、既に第三者による調査で前世が突き止められている。また、子供の証言は両親によって「誇張」されることは少なく、逆に「過小評価」される傾向があるとも言われる。
なお、インドなどアジアの特定の文化圏における生まれ変わり信仰が、証言に影響を及ぼすといった考えもあるが、
イアン・スティーヴンソン『前世を記憶する子どもたち〈2〉』の中では、ヨーロッパの事例が紹介され、
ジム・タッカーはアメリカにも同様の証言があることを指摘している。
遺伝的記憶説
遺伝子を通じて、記憶が子孫に受け継がれるのではないか、と言う仮説である。 しかし、タッカーは前世の記憶は、現在の人格と血縁でつながっていない場合が多いと指摘している。また、直系の関係であっても、死から再生までの間隔が短い上、子どもを産んだ後の記憶が内包されている場合もある事から、この説は否定される。
超常的な解釈
通常の解釈の他に、生まれ変わりという概念ではなく他の超常的な解釈として、テレパシーや透視などの超感覚的知覚を通して前世の人格に関する情報を得たとする説もある。しかし、これらの解釈でも、子どもが日常における他の点で超能力を発揮することがないことや前世で他人だったと強く主張していること、
先天性刻印などの現象を説明できない。
また、前世の記憶ではなく、霊的な何かが子どもたちに宿り記憶を語ったという憑依という説もあるが、前世の死因に関係した恐怖症などは記憶を話し始めるより前からあることが多い事や、5~8歳までの間に子どもが前世の記憶を失ってしまうという理由をうまく説明できない。
生まれ変わり説
以上のような検討を経て、ステイーヴンソンやタッカーは、記憶以外にも様々な特徴を備えている事例が多く、前世の人物が特定できた場合には、そうした特徴は全て、その人物の持っていたものと同じか極めてよく似ているという事から、生まれ変わり説が最も妥当な解釈として残ると結論付けている。
生まれ変わり事例の懐疑論者の反論
人口の問題
生まれ変わりはあり得ないと主張する人の中には、世界人口増加との矛盾を指摘している人もいる。ポール・エドワーズによれば、アーサー・H・ウェスティングは、それぞれの時代にどれだけの数の人間が生きていたかを可能な限りの情報をまとめていると言い、1981年は44億、1945年は23億、1850年は10億、1650年は5億、キリストの時代は2億、紀元前8000年は約500万だったという。そして、1981年の44億という人口は、それまで生きたすべての人間の9%に相当し、人類史の86%を占める旧石器時代全体に生きていた人間の総数を上回り、このような事実は人間の魂は人間の肉体にのみ生まれ変わると言う生まれ変わり説と相容れないと指摘している。一方、このような反論を切り崩せる論法はたくさんあると主張するジム・タッカーは、現代の人々の一部に前世があるとしても、大多数の人たちにはなかったという可能性がある事や新たに創り出される人はいないと考えて良い理由もないと述べている。また、デヴィッド・ビジャイは地球上にこれまで1050億人の人間が生きていたという推計を借用しており、21世紀後半に人口が過去最大の100億にまで達することが予測されるが、過去の人間の総数は全員が生まれ変われるくらい大きいと言う。
アルツハイマー病
アルツハイマー病患者は生きているうちから脳にひどい損傷を受け、その心の大部分は消えてしまっていると言われている。この事から、患者の死後、脳は損傷を受けるにとどまらず完全に破壊されるとき、心もまた失われると考えるのは論理的であると言う。しかし、
ジム・タッカーは、記憶や人格を表出するうえで健全な脳が必要であっても、脳が記憶や人格を生み出していることにはならないと述べている。
ウィリアム・ジェームズは、意識は脳によって生み出されているのではなく、脳は既に存在しているより大きな意識体から意識を透過、伝送し、個としての日常的な意識を形成する器官であるとする
透過説(transmission-theory)を主張している。すなわち、脳が損傷を受けた事により人の精神機能に変化が起こったからといって、精神や意識が脳から生まれているという証明にはならないと言える。この事を持ち出して、タッカーは、脳が崩壊に向かったり完全に停止したりすると、脳と結びついていた意識の流れは消え去るが、その意識を与えている存在圏(意識の源)は、元の状態を保ち、生まれ変わりと結びつくかもしれないと指摘している。
ちなみに、これは生まれ変わりとは別の話になるが、ヴィクトール・フランクル研究所所長のアレクサンダー・ヴァテイアーニは知的能力を永久に失ったと思われていた患者が死の直前に、意識の清澄さや自意識、記憶、明晰な思考力を一時的に取り戻すという
終末期明晰なる事象について研究している。そして、病気のために心を失った患者が死を前にして以前の自己を取り戻すことがあることを報告しているが、このように、アルツハイマー病などが不可逆であることと矛盾する報告もまたエドワーズの考える心の脳機能への依存に対する反論となり得るかもしれない。
ところで、
ジム・タッカーは生まれ変わりを否定しようとして持ち出す論法として、ひたすらその考えをばかげていることにするというものがあると述べているが、ポール・エドワーズの反論もまた生まれ変わり事例の本質的な部分に対し反論がなされているわけではなく、「論破されるとしか思えない」などといった意見が限界であるという印象で、その著作には人間性に不快感が感じられるような文章が散見される。タッカーは嘲笑は道理に基づく検討ができないため、その代用として使われる手段に過ぎないと述べているが、現時点で、生まれ変わり事例については懐疑論者の反論を考えても、スティーヴンソンやタッカーの結論の通り、「生まれ変わり説」が妥当な解釈として残ると考えられる。
臨死体験者が考える生まれ変わり
臨死体験者の中には、この世界とは異なる存在領域から見ると、生まれ変わりという現象は存在しないということを指摘している人が少なくない。例えば、アニータ・ムアジャーニは、次のように述べている。
これは、一つの生涯が終わり、次の生涯が始まるという従来の輪廻転生の概念が、臨死体験で私の経験したこととは異なっていたという理由によるものです。私たちが身体や思考というフィルターを用いないかぎり、時間は直線的なものではないとはっきりわかりました。もはやこの世の感覚に縛られなくなると、あらゆる瞬間が同時に存在するのです。輪廻転生の概念は一つの解釈にすぎず、私たちの知性が、すべては同時に存在していることを理解するための、一つの方法なのです。
また、
飯田史彦もアニータ・ムアジャーニと同様の指摘をしている。
直線的に進む時間から解放されるということは、光の世界では、「過去」も「未来」も存在しない、ということです。したがって、精神宇宙の真理というレベルで語るならば、「生まれ変わり」という現象など、存在しないんですよ。そんなわけで、もしも、「生まれ変わりは宇宙の真理なんですよね?」と問われたら、いつも私は、「少なくとも、この物質宇宙では、生まれ変わりという現象として説明されていますね
さらに、
臨死体験時にワンネスの体験をしたという高木善之は、光の世界では全ての生命が1つに溶け合い、1つの生命には無数の過去や無数の前世が含まれているという事を体験したと言え、この事を雨粒やガラス工場で融かされたガラスから作られたビー玉や溶鉱炉で融かされた鉄から作られた1本の釘にも無数の過去があることを持ち出して指摘している。
一方、フィリス・アトウォーターは、臨死体験者の多くは当然の事として転生をあるがままに受け入れているといい、彼らは、たった一度の人生では完璧な自己を作り上げられないから万物の唯一の源へ帰ることが出来ず、学習と成長に対する意欲によって転生を繰り返して魂が発達するという。
生まれ変わりの哲学的解釈
(以下、管理者の見解)
イアン・スティーヴンソンや
笠原敏雄は、誰が見ても完璧な生まれ変わり事例はこれまで1例も見つかっていないと指摘している。しかし、前世とされる人格の記憶をもち、行動的側面や身体的特徴が類似していたという事例は複数あるのであり、何をもって完璧とみなすかは結局、各人の感覚にも依存するもので、尺度もまちまちであると言える。なお、天文学者で似非科学の批判者としても有名であったカール・セイガンは、
イアン・スティーヴンソンの生まれ変わり研究について、正しいと考えているわけではないが、真実である可能性があると指摘している。
また、生まれ変わり事例では厳密には何が生まれ変わるのかという事や、誰もが生まれ変わるのかという疑問もある。さらに、なぜ一部の人間にだけ前世の記憶が残り、他の圧倒的多数の人間にはそれらしき記憶が残らないのかについても現段階では疑問があり、
イアン・スティーヴンソンや
ジム・タッカーらが明らかにした生まれ変わり事例の存在は、生まれ変わりという解釈で理解する事が妥当だという事例が存在することを示してくれるとしても、前世をもっていること(生まれ変わる事自体)が珍しいのか、前世の記憶が引き継がれる事が珍しいのかを教えてくれるわけではない。それ故、そのような生まれ変わり事例をそれ以外の人にも当てはめて一般化する事はできない。しかし、脳を超えて意識(記憶)が引き継がれる過程が存在しているケースがある事は確かであると考えられ、個としての死後生存という方向性から考えるなら、その過程にスティーヴンソンが指摘している
「心搬体(psychophore)」のようなものが関係しているという可能性もあるかもしれないし、更に根本的に世界観を見直して考えるなら、タッカーが指摘しているように物質的なものは心的なものから派生するというモデルによって説明され得るのかもしれない。今日では、生まれ変わりの事例がどのような仕組みで発生するのか(今の自分とは異なる人物の情報がどのように入手されるか)について、魂または意識が個を保ち連綿と生まれ変わるといった
死後生存仮説と、個人がどこかに蓄えられた全ての記憶から特定の人物の記憶を下ろしてくるといった
クラウド仮説という2つの方向性から考えられると言われる。ハンガリーの哲学者であり、Aフィールドという宇宙の記憶である豊かな情報場の存在を主張する
アーヴィン・ラズロや田坂広志は、後者の立場であると言え、魂の生まれ変わりを想定せず、前世を記憶する子どもの意識にのぼる想念、イメージ、印象の源は真空のAフィールドに保存されているものだという。そして、これら2つの仮説は、それぞれ、個としての自分の
死後存続や死後生存といった超心理学的立場と、個体を離れた個性とは違う意識(より大きな意識)といった
トランスパーソナル心理学的立場と結びついていると言えるのではないだろうか。ただ、いずれにしても物理法則によって説明できる宇宙とは異なった領域(もしくはそれを超えた働き)を念頭に置く必要が出てくる事は確かであろう。
なお、唯物論・機械論的な世界観が正しいとすれば、前世の記憶をもっている人に前世を象徴するような母斑や先天的欠損があろうと、身体を形成する物理的な作用などの因果関係の鎖に基づいた説明に一本化され、全ては単なる偶然として片付けられるだろう。しかし、哲学者のマルクス・ガブリエルが物質的なものの全体としての宇宙を存在する唯一の対象領域とみなす事に反論し、自然法則によって説明できる宇宙もまた数ある「対象領域」の1つ(存在論的な限定領域)に過ぎないと結論付けているが、世界を1つの記述レベルで説明する事の不可能性は、
臨死体験や生まれ変わり事例など、しばしば超自然的だと言われる意識状態や現象を前に顕著になると考えられる。
それゆえ、
物理的記述に一元化された因果関係が世界を理解する唯一の厳密に正しい方法であるという考えから離れることで、生まれ変わり事例などをより自然な仕方で理解しうる新たな地平が開かれてくるように思える。
また、臨死体験者が語る生まれ変わりについて重要な点は、この世界とは異なる存在領域から見ると、生まれ変わりという現象は存在しないということで、飽くまで、この世界において
イアン・スティーヴンソンや
ジム・タッカーが生まれ変わりとして解釈する事が妥当だと言う事例が存在する事を否定しているわけではないという事である。それ故、このような生まれ変わり事例は、この世界において、意識の脳を超えた側面や人間の心が肉体に及ぼす影響にはどのようなものがあるか、人間の心とはいかなるものであるのかなどを理解する上で、重要なヒントを提供してくれる可能性があると言える。
遍在転生観との関連
(以下、管理者の見解)
自我体験、独我論的体験、意識の超難問の体験を心理学の立場から調査研究し、梵我一如思想を背景にした
「遍在転生観」を提唱した心理学者の渡辺恒夫は、全ての個人がそれぞれ所有しているように見える自己・自我というものは、実は唯一存在するだけであると考え、私は全ての人間だったし、全ての人間に転生するであろうといった主張をしている。この遍在転生観は、臨死体験者の証言を援用するなら、私たちの知性が、時間と空間や主観と客観の分離に基づいて、すべては1つであることを理解するための1つの方法という事になるのであろう。なお、渡辺の遍在転生観について、
心の哲学まとめWikiというサイトの管理者であり、一元論的立場から他我問題の解消を試みるエレア・メビウスの見解は以下のようなものである。
自我が唯一であるというのは、他我の存在を否定するものではない。他我も自我であるというのが、遍在転生観の核心なのである。広い世界に多数の人々が存在し、それぞれが〈私〉であるというのは考え難いかもしれないが、空間的広がりのない、たとえば数学的な意味での唯一の「点」の世界に多数の人々(として認識されるなにか)が存在し、そこに唯一の〈私〉がおり、その唯一の〈私〉が様々な視点から、様々な認識をしているとイメージすれば考え易いかもしれない。
他者もおそらく〈私〉であろう。ただ〈この私〉とは見ているものが違うということだ。この場合、「同時に別のものを見ている」ということを意味しない。「同時に」という言葉が意味を持つのは時間が実在していると仮定した場合だけだ。
メビウスのこのような見解は、臨死体験者が語る「全一性」とも極めて親話的であるように思える。ちなみに、渡辺恒夫は科学的方法と二元論の組み合わせは既に破産しているとし、死後の世界について直接探求するのではなく、まず「私とは何か」を探求すべきという立場であるが、寧ろそのような渡辺の形而上学的仮説である遍在転生観を臨死体験者が語る実際の体験が裏付けているようにも思える。メビウスも(渡辺恒夫と同様に)心の哲学における実体二元論は信じていないが、前世というものがあるとしたら、現在の私との紐帯となるのは永井均が言う〈私〉であろうと述べており、このような見解は、この世界に於いて、何が生まれ変わるのかという問題を考えるにあたり、哲学的ヒントを提供してくれる可能性がある事は否定できないであろう。
最終更新:2025年03月06日 02:06