コリントの信徒への手紙二

「コリントの信徒への手紙二」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

コリントの信徒への手紙二 - (2017/08/02 (水) 11:34:21) の1つ前との変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

[[パウロ書簡]]の一書。真筆性は極めて高いとされる。 『コリントの信徒への手紙一』を記した後、パウロは小アジアの都市エフェソスを離れてマケドニア州へ向かうことにした。エフェソスでの宣教活動は成功を収め、それがためにパウロは反対者の活動によってエフェソスにいることが難しくもなっていたのである。エフェソスから陸路トロアスへ到着したパウロはそこから海路、マケドニア州へ入るつもりであった。しかし第一の書簡を運んでコリントへ行っていたテトスとトロアスで合流しようというもくろみはうまく行かなかったので不安にかられた。しかしマケドニアのフィリピでテトスと再会することが出来、二人は喜び合った。パウロはテトスからコリントの共同体の状況について聞くことができた。その時に書いたものと思われる。(なお、[[使徒言行録]]にはテトスは出てこない。ルカはテトスを知らなかった可能性がある。)コリントの共同体がこのあと、どうなったのかはわからないが、『[[使徒言行録]]』20:2によればパウロはこのあと、コリントを訪れて三ヶ月訪問し、同地で『[[ローマの信徒への手紙]]』を執筆している。(使徒20:1-3) 使徒20:1-3 >この騒動(銀細工師デメトリオがパウロが彼らの職を妨害していると訴えたことによる騒動)が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三か月を過ごした。 研究者たちはこの書簡がフィリピかテサロニケで紀元58年の初頭にかかれたものと考えている。この手紙をコリントへ届けたのはおそらくテトスであったろう。第一の手紙との違いは、この手紙はコリントの共同体のメンバーのみならず、アカイア州の全域の共同体に宛てられた書簡であるということである。 11章にはパウロの人生における困難の数々がリストアップされ、第12章では「第三天まであげられた」という神秘体験について、自分に与えられた「とげ」について述べられている。この書簡では他のどれよりもパウロが自分自身について多く語っている。 **著者 冒頭にパウロであると明記されている。(コリント二1:1) >神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。 高等批評でも真筆性は高いとされている。 **構成 -パウロの内面的困難、コリントの信徒たちへの思い(1-7章) -慈善活動のすすめ、特にエルサレムの共同体支援の願い(8-9章) -パウロに対する批判への反論、コリントの信徒への配慮、結びのあいさつ。(10-13章) なお、この書簡には、パウロの文体の雰囲気が突然変わったり、話のつながりの悪いところが散見される。そのために、この書簡は複数の書簡を編集したものではないかという仮説が立てられ、現在ではボルンカムらによる5つの書簡の複合体であるとする説が多くの研究者によって支持されている。それによると、以下のように分割される。 -書簡A:第2章14節〜第7章4節 -書簡B:第10章1節〜第13章13節 -書簡C:第1章1節〜第2章13節と第7章5節〜16節 -書簡D:第8章 -書簡E:第9章 **パウロの受けた啓示 パウロは自身が14年前に受けた啓示を、「一人の人」と謙遜して表現している。14年前とは西暦40年前後であり、パウロが故郷の村に戻っていたときのことである。「一つのとげ」とは、パウロの持病であるてんかんのことだと思われる。 Ⅱコリント12:1-9 >わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 >彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。 >それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 **異なったイエスの宣教 コリントⅡによれば、コリントの信徒の元へは「異なったイエスの述べ伝え」があったという。 コリントⅡ11:1-4 >わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。 >ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。 >なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。
[[パウロ書簡]]の一書。真筆性は極めて高いとされる。 『コリントの信徒への手紙一』を記した後、パウロは小アジアの都市エフェソスを離れてマケドニア州へ向かうことにした。エフェソスでの宣教活動は成功を収め、それがためにパウロは反対者の活動によってエフェソスにいることが難しくもなっていたのである。エフェソスから陸路トロアスへ到着したパウロはそこから海路、マケドニア州へ入るつもりであった。しかし第一の書簡を運んでコリントへ行っていたテトスとトロアスで合流しようというもくろみはうまく行かなかったので不安にかられた。しかしマケドニアのフィリピでテトスと再会することが出来、二人は喜び合った。パウロはテトスからコリントの共同体の状況について聞くことができた。その時に書いたものと思われる。(なお、[[使徒言行録]]にはテトスは出てこない。ルカはテトスを知らなかった可能性がある。)コリントの共同体がこのあと、どうなったのかはわからないが、『[[使徒言行録]]』20:2によればパウロはこのあと、コリントを訪れて三ヶ月訪問し、同地で『[[ローマの信徒への手紙]]』を執筆している。(使徒20:1-3) 使徒20:1-3 >この騒動(銀細工師デメトリオがパウロが彼らの職を妨害していると訴えたことによる騒動)が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三か月を過ごした。 研究者たちはこの書簡がフィリピかテサロニケで紀元58年の初頭にかかれたものと考えている。この手紙をコリントへ届けたのはおそらくテトスであったろう。第一の手紙との違いは、この手紙はコリントの共同体のメンバーのみならず、アカイア州の全域の共同体に宛てられた書簡であるということである。 11章にはパウロの人生における困難の数々がリストアップされ、第12章では「第三天まであげられた」という神秘体験について、自分に与えられた「とげ」について述べられている。この書簡では他のどれよりもパウロが自分自身について多く語っている。 **著者 冒頭にパウロであると明記されている。(コリント二1:1) >神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。 高等批評でも真筆性は高いとされている。 **構成 -パウロの内面的困難、コリントの信徒たちへの思い(1-7章) -慈善活動のすすめ、特にエルサレムの共同体支援の願い(8-9章) -パウロに対する批判への反論、コリントの信徒への配慮、結びのあいさつ。(10-13章) なお、この書簡には、パウロの文体の雰囲気が突然変わったり、話のつながりの悪いところが散見される。そのために、この書簡は複数の書簡を編集したものではないかという仮説が立てられ、現在ではボルンカムらによる5つの書簡の複合体であるとする説が多くの研究者によって支持されている。それによると、以下のように分割される。 -書簡A:第2章14節〜第7章4節 -書簡B:第10章1節〜第13章13節 -書簡C:第1章1節〜第2章13節と第7章5節〜16節 -書簡D:第8章 -書簡E:第9章 **パウロの受けた啓示 パウロは自身が14年前に受けた啓示を、「一人の人」と謙遜して表現している。14年前とは西暦40年前後であり、パウロが故郷の村に戻っていたときのことである。「一つのとげ」とは、パウロの持病であるてんかんのことだと思われる。 Ⅱコリント12:1-9 >わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 >彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。 >それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 **異なったイエスの宣教 コリントⅡによれば、コリントの信徒の元へは「異なったイエスの述べ伝え」があったという。 コリントⅡ11:1-4 >わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています。あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。 >ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔とからそれてしまうのではないかと心配しています。 >なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。 荒井献氏は次のように指摘している。 『われわれはコリント人への手紙から、パウロがコリント教会を去った後にパレスチナからこの教会に「ことなる福音」をもたらした複数の人物によって起こされたコリント教会の状況を推定する事ができる。彼らは巡回霊能者として自らの被扶養権を主張し、イエスの言葉の秘教性とその解釈を一義的に主張した。これは福音の自由のために被扶養権を放棄し、十字架の愚かさに逆説的救済を見いだそうととしたパウロの使徒としての役割に疑問が呈される。コリント教会における富裕知識人たちは、彼らの霊肉二次元的な人間理解を受容し、死人の復活を否認するに至ったため、貧者達の間に霊的熱狂主義をひき起こした。すなわち彼らは、「神の国」が霊においてすでに実現していると熱狂的に信じ、霊的な富と支配を誇って、世俗的なものを二次的とみなし、極端な禁欲主義に陥いった。パウロは書簡によりこの様な事態を批判し、彼固有の立場からイエスの言葉を引用し、イエスにおける啓示の秘教性と逆説性を強調している』 http://www.mars.dti.ne.jp/~fenot/jesus/cr_pauro.html

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: