地球平面説神話

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実は、聖書には地球が平面であるとは書かれていない。しかしながら、平面なのではないかと疑わせるような記述があったことから、一部の古代のキリスト教徒は地球は平面だと考えていた。

イザヤ書24:1(口語訳)
見よ、主はこの地をむなしくし、これを荒れすたれさせ、これをくつがえして、その民を散らされる
これは大救患時代に関する記述であり、主が地をくつがえす、と書かれている。地球平面説を想定するならば、主が平面の地をひっくり返すことで人々が散り散りになる、というように解釈することができる。

更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
これはイエスが荒野の誘惑の修行を受けている際の記述である。地球平面説を想定するならば、平面の地をはるか上空より眺めればすべての国が見渡せる、というように解釈することができる。

また、天地創造として書かれている項目も、地球平面説を根底において書かれているのではないかと推察もされている。

地球球体説の始まり

地球球体説を示す最古の史料は古代ギリシアの文献に遡るが、大地が球体であることがどのようにして発見されたのかの説明はそこにはない。それは、東地中海沿岸の、特にナイル川デルタとクリミアの間の「ギリシア人の移住の際の劇的な変化、周極する星々の測定しうる高度と位置の変化に対する説明を提案する旅行家の提案」であると考えられる。
ディオゲネス・ラエルティオスによると、「ピュタゴラスは大地が丸いと言った最初のギリシア人であった。しかしテオフラストスはこれをパルメニデスに帰し、エレアのゼノンはヘシオドスに帰した。」

初期のギリシア哲学者達は地球球体説を唱えたが、いくらか曖昧なやり方でそれに言及した。彼らの中でも特にピュタゴラス(紀元前6世紀)が球体説の創始者とされるが、これは、あらゆる発見を古代の賢者の数人に帰そうとする古代ギリシア人の慣習による可能性がある。ある程度の地球球体説は紀元前5世紀のパルメニデスやエンペドクレスにも知られており、高い信頼性をもって球体説をピュタゴラスに帰することはできないが、それにもかかわらず、球体説は紀元前5世紀にピュタゴラス派によって明文化された。紀元前5世紀以降、声望あるギリシア人著述家で大地が球形以外の形だと考える者はいなくなった。

キュレネのエラトステネス(紀元前276年-紀元前194年)は紀元前240年頃に地球の周長を概算した。シエネでは夏至の日に太陽が真上にくるのに対してアレクサンドリアでは夏至でも影ができることを彼は聞いた。三角法によって導出するために様々な角度の影を用いて、彼は周長を250000スタディオンだと概算した。1スタディオンの長さは精確には知られていないが、エラトステネスの出した値は5-15%程度しか実際とずれていないという。エラトステネスは大雑把な概算と大雑把な数値を用いたが、スタディオンの長さによって、彼の概算結果は実際の子午線の長さ40,008キロメートル (24,860 mi)とは2-20%程の差がある。エラトステネスは、太陽までの距離が非常に大きく太陽光は基本的に平行だという仮定に基づいて、地球の周長を計算できたにすぎないことに注意。

初期のキリスト教会

初期教会の時代には、いくつかの例外を除いて、ほとんどのキリスト教徒が球体説を支持しており、ほんの2、3の例を挙げればアウグスティヌス、ヒエロニムス、アンブロシウスがそうである。
球体説に反対する意見としては、『神聖教理』第3巻においてラクタンティウスは「頭より高い場所を歩く」対蹠人が存在しうるという考えを嘲笑している。彼は数種類の主張を挙げたうえで天地球体説の支持者に帰してこう書いている:
しかしこうした信じられない御伽噺を擁護している人々から推測するなら、なぜ万物が天の低い位置に落ちていかないのかについて、彼らはそれが物の本性であり、重いものは中空にとどまり、車輪の輻のように中空に向かって集まっていくと答えるだろう; しかし霧や煙、炎のように軽いものは中空にとどまらず天へ向かって散っていくだろう。彼らが一たび誤ったことを述べたときに彼らの愚かさをずっと我慢し続け彼らのたわごとから自己を守っている人に対して、私は何と言って称賛すればいいのか当惑してしまう。
地球球体節に賛成していても、対蹠人に関する考えには異論もあった。ヒッポのアウグスティヌス(354年–430年)は対蹠人が存在すると考えることに対してより慎重なやり方で反対している:
他方、「対蹠人」が存在する、などとうわさされている。すなわち、地の正反対の部分にあって、そこでは、わたしたちのもとでは太陽が沈むときに、太陽が昇るのであろうが、わたしたちの足取りとは逆向きに足跡を踏む人々が存在するというのである。このことが信じられるべきいかなる根拠もないのである。これは、何らかの史実的な知識によってそれを学んだと主張するものではなく、いわば推理をこねまわして憶測するものであって、それによれば、この地は天の丸天井の内側に掛っていて、この世界の最も低く中心になっているところが同一の場所なのである。このことから、この地の正反対の側―下になっている部分―にも人びとが住んでいないことはありえないと想像しているわけである。たとえこの世界が球状で円い形をしていると想定されるとしても、あるいは、何らかの理由でそれが証明されるとしても、反対の側の地が水の集積によって覆われていないという結論にはならないし、さらに、たとえ地が水に覆われていないとしても、そのことから直ちに人間がいると結論づけねばならぬわけではないということに気付いていないのである。
これらの人々がアダムを祖先とするなら彼らはいつかの時点で地球の反対側へ旅をしていなければいけないであろう;
アウグスティヌスは続けてこう述べる:
いくらかの人びとが広大な大洋を横切り、あちら側へ航海して到達することができて、かくしてそこにおいても人類があの最初の一人の人間から立てられるに至ったと語るのは、あまりにも馬鹿げたことである。
伝統的にアウグスティヌスの著作の研究者たちは上に引用したテクストや『創世記逐語註解』における有名な科学的証明から、アウグスティヌスを彼の同時代人と地球球体説を共有するものと理解している。

地球平面説に賛同した意見は以下のようなものである。
タルソスのディオドロス(394年死)は聖書に基づいて地球平面説を主張した; しかし、ディオドロスの意見はコンスタンティノープルのフォティオスによるそれに対する反論によってのみ知られる。ガバラ司教セウェリアヌス(408年死)は地球は平面であり、太陽は夜にはその下を通るのではなく「壁によってさえぎられているかのように北方を旅する」と書いている。エジプトの修道士コスマス・インディコプレウステース(547年)は『キリスト教地誌』において全世界を聖櫃に準え、神学的見地から大地は平たく四つの大洋によって囲われた平行四辺形だと主張した。
『教理説教集』においてヨハネス・クリュソストモス(344年–408年)は聖書読解に基づいて明らかに蒼穹のもとに集められた大地が水面に浮かんでいるという説を支持しており、アレクサンドリアのアタナシオス(293年頃 – 373年)も『異端論駁論』において同じ意見を述べている。


世界の形状の問題に関する起源から古代までの議論に関するLeone Montagniniのエッセイに、教父たちが平行する哲学的・神学的観念全体への異なるアプローチを共有していたことが示されている。彼らのうちでプラトン的観念により親しんでいたオリゲネスのような者は平和的に地球球体説を受容できた。次に、バシレイオス、アンブロシウス、アウグスティヌス、ヨハネス・ピロポノスのような人々は地球球体説や放射重力説を受け入れたが批判的なやり方で受け入れた。彼らは特に放射重力に関する自然学的推論に多数の疑問を投げかけ、アリストテレスやストア主義者たちによる自然学的推論を受け入れるのに躊躇した。しかし、「地球平面主義」的なアプローチがシリア地方の教父全員に多かれ少なかれ共有されていた。彼らは旧約聖書の字義どおりの意味に従う傾向が他より強かったのである。ディオドロス、ガバラのセウェリアヌス、コスマス・インディコプレウステース、クリュソストモスらがまさにこの伝統に属していた。
少なくとも一人のキリスト教著述家、つまりカイサリアのバシレイオス(329年–379年)がこの問題は神学とは関係がないと考えていた。

初期中世

初期中世のキリスト教著述家たちはプトレマイオスやアリストテレスの著作には曖昧な印象しか持っておらず、プリニウスにより強く依拠していたが、地球平面説へ向かう気持ちをほとんど持っていなかった。

ローマ文明の終わりとともに西欧は中世に入り、大陸部の知的生産に大きな困難を抱えた。古典古代の(ギリシア語で書かれた)学問的論文のほとんどが利用不可能になり、単純化された概論や抜粋集のみが残された。しかし、初期中世の多くの教科書は地球球体説を支持していた。例えば: 初期中世に作られたマクロビウスの写本には世界地図が含まれるが、そのなかには対蹠地、球体説を前提としているプトレマイオスの気候区分図、惑星の秩序の中で地球(globus terrae、つまり「地の球」と名付けられている)が中心に位置すること、などが記載されている。


そうした中世の図表を含む他の例は『スキピオの夢』の中世の写本に見いだされる。カロリング朝期には学者たちは対蹠点に関するマクロビウスの主張に関して議論していた。彼らのうち、アイルランドの修道士であるボッビオのドゥンガルは、自分たちの住んでいる可住地帯と南側にある可住地帯との間の熱帯酷暑地帯はマクロビウスが信じていたよりも狭いと主張した。

古代末期から中世初期までのヨーロッパ人の世界の形状についての考えは初期のキリスト教徒の学者達の著作に最もよく表されている:

  • ボエティウス(480年頃 – 524年)、広く翻訳された『哲学の慰め』の他に、自分に影響を与えたマクロビウスの球形の宇宙の中心に地球が存在するというモデルを繰り返す神学論文『三位一体論』を著した。
  • セビリアのイシドルス(560年 – 636年)は広く読まれた百科事典『語源』中で地球は「車輪に似ている」という言葉の上ではアナクシマンドロスに似たものなどの多様な意見や彼が作成した地図を提供している。これは地球平面説に言及したものと広く解釈されている。イシドルスの『自然について』にみられる図には隣接した円として表される五つの地帯が描かれている。彼が北極圏と南極圏を互いに隣接するとみなしていたと結論付ける研究者もいる。彼は対蹠人の可能性に関して、それは地球の反対側に人が生きていることを意味するものとして認めず伝説上のものとして扱い、彼らが存在するいかなる証拠も存在しないと書いた。イシドルスのTO図は球状の地球のごく一部を表しているとみなされており、中世を通じて著述家たちに用いられ続けた。例えば9世紀の司教ラバヌス・マウルスは北半球の可住地帯(アリストテレスの北方気候帯)を車輪と対照させている。同時に、イシドルスの著作は球体説をも提供しており、例えば『自然について』第28章で太陽は地球の周囲を回っており、地球の一方が夜の時にはもう一方を照らしていると述べられている。『自然について』フランス語訳を参照。彼の別の著作『語源』では、天球の中心に地球が存在し空は地球上のどの位置からも等距離であるという説が肯定されている。その上他の研究者もこれらの点を主張している。「この著作は13世紀まで比類のない存在であり、あらゆる知の極致であるとみなされた。ヨーロッパの中世文化の欠かせない部分となったのである。活版印刷が発明されるとすぐに何度も印刷された。」 しかし、「スコラ学者 - 後期中世の哲学者、神学者、あるいは科学者 - たちはアラブの翻訳者・注釈者に助けられたが、初期中世(500年-1050年)のころから地球平面説の遺産に打ち勝つうえではほとんど助けを要しなかった。初期中世の著述家たちはしばしばプトレマイオスとアリストテレスの両者に曖昧で不正確な印象しか持っておらずプリニウスにより依拠したが、(一人の例外を除いて)彼らは平面説を前提としたくなる気持ちをほとんど持っていなかった。」

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  • 修道士ベーダ・ヴェネラビリス(672年頃 – 735年)はコンプトゥスを扱った影響力の高い論考『時間の計算』のなかで地球は球形である(「盾のように円形なのでも車輪のように広がっているのでもなく、ボールに似ている」)と述べ、季節による日照時間の違いを「地球が球形だからであって、聖典および一般の文献で『世界のオーブ』と呼ばれているもののためではない。実はそれは宇宙全体の中心に位置する球のようなものなのである(『時間の計算』, 32)。」 『時間の計算』の多数現存する写本はカロリング朝期に全聖職者がコンプトゥスを学ぶという必要に応じて作成されたものだが、全員ではなくとも多くの聖職者が地球球体説に触れたことを示している。エンシャンのアルフリクスはベーダを古英語に訳し、「さて地球が球形であることと太陽の軌道が全島で日照時間が同じであることを妨げているのである」と述べた。

  • ザルツブルクのウェルギリウス(700年頃 – 784年)は、8世紀中頃に聖ボニファティウスが十分不愉快だと考えて教皇ザカリアスに訴え出た地理的・宇宙論的思想について議論している。この出来事の唯一現存する記録はザカリアスの返答に含まれ、748年のものである。ザカリアスはこう書いている:
「ウェルギリウスが神と自身の魂に背いて言い散らしている邪悪で罪深い教えはどうかといえば、―もし別の世界やあるいは別の太陽や月、地球の表面に住む別の人間がいると彼が公言するならば、汝は教会会議を開き、彼の聖職位を剥奪し、教会より追放するべきである。」
地球球体説はボニファティウスとザカリアスが不愉快だとみなしたウェルギリウスの教えの中に含まれるとみる権威者もいる。それはありそうもなく、ザカリアスの応答の言葉づかいはせいぜい対蹠人の存在への反対を示すに過ぎないと考える者もいる。どちらにせよ、ウェルギリウスに対してそれ以上の反応が起きたかどうかは記録に残っていない。その後彼はザルツブルク司教となり13世紀には列聖された。

文字ではなく視覚的に中世人が地球球体説を信じていたことを示せるものは諸王国や神聖ローマ帝国のレガリアにおけるオーブ(宝珠)の使用である。これは古代末期のキリスト教徒ローマ皇帝テオドシウス2世(423年)から中世まで証明されている; 「ライヒスアプフェル」がハインリヒ6世の戴冠式に用いられた。しかしオーブという言葉は円を意味し、西方では古代から1492年のマルティン・ベハイムまで地球を表すのに球が使われた記録がない。さらにオーブは世界全体、宇宙を表すために使われた。

中世の地球球体説に関する近年の研究では「8世紀以降、言及に値する宇宙論者で地球が球体であることに疑問を挟む者はいなくなった。」 ただし、これらの知識人の著作は大衆の意見に大きな影響を持たなかったかもしれず、一般大衆が世界の形状をどう考えていたか、そもそも彼らがそういう疑問を持つことがあったかは不明である。

マルティン・ベハイムの地球儀

1475年、時の教皇シクストゥス4世は球状の地球儀を着想した。学者の天地学者であったマルティン・ベハイム(Martin Behaim)は1491年〜93年の間、その教皇シクストゥス4世が着想した地球像を元に、画家の協力を得て地球儀を作成した。これは現在知られている最古の地球儀である。

盛期~後期中世

11世紀までにヨーロッパはイスラーム天文学を学んだ。1070年頃から12世紀ルネサンスが始まり、ヨーロッパにおいて強い哲学的・科学的起源のもとに知的再活性化が進んだ。それに伴い、自然哲学への関心も増大した。

ヘルマヌス・コントラクトゥス(1013年–1054年)はエラトステネスの方法に則って地球の周長を計測した初期のキリスト教徒の学者である。最も重要で広く学ばれている中世の神学者トマス・アクィナス(1225年–1274年)は地球が球状だと考えていた; そして彼は自分の読者が地球が球形であると知っていることを当然の前提としていた。概して中世の大学における講義は地球球体説を支持する根拠を提出した。また、13世紀に最も影響力のあった天文学の教科書で西欧の全ての大学の学生が読むことを要求された『地球球体論』には世界が球形であると書かれている。トマス・アクィナスは著書『神学大全』において>天文学者と自然学者は、たとえば地球は丸いというような同一の結論を論証するが、天文学者が、数学的な方法、すなわち質料からの抽象という方法を使うのに対して、自然学者は、質料をめぐって考察される方法を使う
と書いている。
地球の形状の問題はラテン語で書かれた学問的著作でのみ論じられたわけではなかった; より広い読者に向けて書かれた口語・地方語による文献でもこの問題は扱われた。1250年頃のノルウェーの文献『Konungs Skuggsjá』では地球は球形であり、ノルウェーの日中には地球の裏側では夜であると明らかに述べられている。本書の著者は対蹠人の存在も論じており、(存在するとすれば)彼らは空の北側の真ん中に太陽を見て、北半球とは逆の季節を体験するだろうと述べている。
しかし12~13世紀のフランス語で書かれた口語の著作では地球は「リンゴのように丸い」ではなくむしろ「テーブルのように円い」と書かれていることをTattersallが示している。「叙事詩や非『歴史的』ロマンス(つまりあまり教養のない人物による著作)から[...]引用した例の実質全てにおいて用いられている言葉の実際の形式は球よりも円を強く提示している。」
ポルトガルのアフリカ・アジア探検、コロンブスのアメリカへの航行(1492年)、そしてフェルディナンド・マゼランの地球一周(1519年–21年)が地球球体説の最終的で実践的な証明を与えた。