キリスト教と自然法

自然法とは

まず、法は以下のような構造をとっていると現代では考えられている。

  • 自然法(natural law)
  • 実定法(positive law)(=人定法)
    • 成文法
    • 不文法
      • 慣習法(成文ではないが慣習となっている法)
      • 判例法(慣習もないが判例となっている法)
      • 条理法(慣習も判例もない場合に裁判官が定める)

キリスト教文化において、自然とは「神が創造したものの全て」を表す。例えば、農業は人為的に始まったものだが、これもキリスト教文化においては「自然(nature)」に含まれる。
神はこの世の法(法則、秩序)を定めた。したがってこれらは「自然法(natural law)」と呼ばれる。
キリスト教では、人間を創造したのは神である。神は人間そのものを創造しただけでなく、人間一人ひとりに対し生きていくための権利も与えた。例えば、生存権、自由権、幸福追求権、財産権である。この権利は神により与えられたものだから「自然権(natural right)」と呼ばれる。
聖書には直接的には書かれていないが、例えば次の言葉は、神から万人に無条件で与えられた生存権を示したものであり、自然権を示したものとも解釈される。

マタイ5:43-45
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたし(イエス)は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 」

日本においては「自然」とは単に人為的でないものを意味することから、直訳はされず、明治時代には「天より賦与された人の権利」という意味で「天賦人権」と訳された。

近代における自然法・自然権

近代において、人間は生まれながらにして自由で平等であり、その生命・自由・財産などを守るために、国家や法律の条文以前から存在する法があると考えられている。これを「自然法」と呼ぶ。

神により与えられた「自然権」は、国家や法律(人定法)によって侵すことのできない不可侵の権利と考えられている。
「自然権」は神による「自然法」に規定されていることから、「自然権」を奪うことができるのは神だけである。

このことは、キリスト教国家であるアメリカの独立宣言(1776年)でも自明のこととして示されている。

アメリカ独立宣言より
われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。

したがって、以下のことが言える。
成文法で自然権を記載している場合も多々あるが、これは自然法を確認する意味であえて記載しているのであり、仮に自然権についての成文法がなくても、自然権は認められなければならない。
逆にたとえ国家が個人の「自然権」を制限する法律を作ったとしても、そのような法律が「自然法」に反すれば無効であるとされる。

なお、自然権と政府の関係についてはキリスト教と倫理学も参照。

自然権の成立の歴史

ヘラクレイトス(法=法則=物理的な法則+倫理的な法則)

最初期の自然法論に数え入れられるのは、古代ギリシャの宇宙論である。例えば、ヘラクレイトスの宇宙論によれば、人間は、天体が宇宙の法則によって運動しているように、宇宙の法則に従って生きるべきである。
このような考え方の下では、物理的な法則と倫理的な法則とが、同一の概念に属している。「天体がある法則に従って運動している」という事実と、「人間はある法則に従って生きるべきだ」という規範との区別には、何ら注意が払われていない。

アリストテレス(法=自然法+制定法)

ギリシャ時代、人間の生活を規律するのは書かれない自然法則(自然法)であり、有効地域や時間的な制約を受ける実定法(制定法)の根本原理は、自然法則(自然法)の原理と同一であると考えていた。

アリストテレスは法を自然法と制定法とに分類した。自然法は人為によらず、地域的限定もされず、自然的正義によって確定するものであり、制定法は実定されることにより初めて一定の内容を持つことになるものであるとして、前者の自然法を普遍的なものと考えたが、変化できないものとは考えなかった。

アウグスティヌス(法=永久法+時限法、永久法=神定法∋自然法、時限法=人定法)

アウグスティヌスは、自然法論の枠組みの中に、ギリシャおよびローマの哲学者たちが知らなかった神定法という概念を導入した。
アウグスティヌス本人は明確には法体系を整理していないが、概ね次のように考えていた。

  • 永久法(神定法)
    • 自然法(人間の心の中に書き込まれた法)
  • 一時的な法(人定法)

まず、法の時間的な継続性という観点から見れば、法は、永遠不変の永久法と、有限可変の一時的な法とに区別される。永久法とは、神の理性あるいは神の意思であり、自然な秩序に従うことを命じ、それを乱すことを禁じるものである。この永久法のうち、人間の心の中に書き込まれたものが、自然法である。

次に、法の制定者という観点から見れば、法は、神定法と人定法とに区別される。一時的な法は、永久法に則らねばならないが、永久法違反の行為を全て現世において罰する必要はない。これは、一時的な法によって見逃された行為の有責性が、神の処罰によって担保されているからである。

これらの区別は、観点が異なるだけで、永久法と神定法、一時的な法と人定法とは一致する。

トマス・アクィナス(永久法=神定法+自然法、自然法∋人定法)

トマス・アクィナスの自然法論では、全宇宙を支配する不変の永久法から、人間の一時的な便宜のために制定される人定法までの階層構造が以下のように示されている。
  • 永久法
    • あらゆる法
    • 理性による自然法(人間が分有する永久法の一部)
      • 一般的な自然法(明文化されていない)
      • 人定法(自然法を実現するための実定法)
    • 啓示による神定法(補助的)
      • 旧法(lex vetus)
      • 新法(lex nova)

まず、永久法とは、この宇宙を支配する神の理念である。そして、永久法のうち、理性的被造物たる人間が分有しているものが、自然法である。さらに、自然法のうち、人間が何らかの効用のために特殊的に規定するものが、人定法である。

最後に、神定法とは、人間が永久法により強く与れるように、神から補助的に与えられた法である。すなわち、人間の能力には限界があるために、人々は永久法から与った自然法にもとづいて適切に人定法を制定するということができず、また、様々な意見の対立が生じるので、それを補うために神から与えられたものが、神定法である。ここで、神定法として念頭に置かれているのは、旧約聖書と新約聖書において命じられている事柄であり、前者は旧法(lex vetus)、後者は新法(lex nova)と呼ばれる。

トマス・アクィナスは、自然法の根底にある「正義」を、「自然的正義」と「法律的正義」とに区分した。自然法は実定法の「意味」であり、その道徳的基礎たる規範であるとした。したがって「実定法は自然法を実現しようとするもの」と考えた。

つまり、永久法は、神のうちにある最高の理念であり、あらゆる法の源泉である。このような永久法の一部である自然法は、あらゆる人定法の源泉であり、人定法は自然法に反してはならないとした。

トマス・アクィナス『神学大全』第2部の1第97問題第3項
自然法ならびに神法は神的意志から発出するものであるから、人間の意志から発出するところの慣習によっては改変されえないものであり、ただ神的権威によってのみ改変されることが可能である。したがって、いかなる慣習といえども神法や自然法に反して法たるの力を獲得することはできない。

トマス・アクィナス『神学大全』第2部の1第95問題第2項
ここからして、人間によって制定された法はすべて、それが自然法から導出されているかぎりにおいて法の本質ratio legisに与るといえる。これにたいして、なんらかの点で自然法からはずれているならば、もはやそれは法ではなく、法の歪曲coruptio legisになるであろう。

グロティウス

国際法の父と呼ばれるグロティウスは、各市民国家間の平時および戦時の合理的かつ非実定的な法を探究することに主眼があった。このことは、彼の主著の『戦争と平和の法』という表題にそのまま現れている。そこでは、以下のような法の重層構造が見られる。

  • 自然法(正しい理性の命令)
  • 実定法(意思に起源を有する意思法、制定法)
    • 神定法(神の意思によって成立する)
      • 普遍的な神定法
      • ある民族に固有の神定法(特にヘブライ法)
    • 人定法(人の意思によって成立する)
      • 万民法(万民の合意によって成立する)
      • 市民法(各市民国家にのみ妥当する)

ここで重要なのは、各法の優先順位である。自然法、万民法、市民法が全く別のことを定めている場合には、市民は、原則として市民法に従うことを強いられる。つまり、各市民国家内部において強制力を有するのは、市民法である。
一方で、自然法は道徳的な指図として、市民共同体内部においてもなお妥当するが、それは強制不可能な規範に過ぎない。
また、万民法と自然法との関係においても、自然法が劣後する。

つまり、自然法は普遍性を持つが、強制力を持つ市民法がまず尊重されるべきであり、これに矛盾しない範囲で模範としての自然法が存在するとした。

19世紀から20世紀前半までの自然法の否定

19世紀から20世紀前半までの法理論は、専ら伝統的な自然法論の否定という形で進行した。この背景には、歴史主義および実証主義という2つの哲学的背景が見出される。
特にドイツの法学界では、歴史主義に裏打ちされたパンデクテン法学と、実証主義を徹底したケルゼンの純粋法学が席巻し、自然法を強く否定した。

この時代を反映した作品として、例えば、スタンダールの小説「赤と黒」(1830年)では、主人公ジュリアン・ソレルは断頭台にかけられる前に「自然法などというものは絶対にない」と独白する場面がある。

グスタフ・ラートブルフ

グスタフ・ラートブルフ(Gustav Radbruch)はドイツの法哲学者、刑法学者、刑事政策家。
法実証主義者であったラートブルフが自然法への回帰を図ったのは、ナチス・ドイツの敗北という深刻な政治的状況下においてであった。そこで問題になったのは戦中に合法であった非人道的行為に対する遡及的に処罰可能性である。
行為時に合法であった行為を事後的に違法とし処罰することは、刑法上の罪刑法定主義に違反する。このため、行為時に一見すると合法的であった行為、すなわち当時の制定法に鑑みれば合法的であった行為から、合法性を剥奪する必要が生じた。そこで用いられたのが、該当行為に合法性を与える制定法そのものを自然法によって覆すという手法である。

ラートブルフによれば、自然法の内容とは、正義の理念である。この理念を最初から追求しないような制定法は、無効とされねばならない。法的安定性も確かに法理念の一部であるが、著しい不正においては正義に劣後する。そして、正義の具体的な内容は、デモクラシーの維持と人間の尊厳の尊重にある。

日本国憲法の記載

日本はキリスト教国ではなく、自然法の文化的土台がない。このため、憲法により自然法の定める自然権(天賦人権論)とその社会的な経緯が明記されている。

日本国憲法 前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国憲法 第11条(基本的人権の享有)
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

日本国憲法 第97条
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

ここで国民に基本的人権を与えている主体は、キリスト教文化において自然権を保証する「神」であると考えるべきである。

参考

最終更新:2020年10月06日 08:11