非キリスト教徒の死後

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ヨハネ福音書による非キリスト教徒の拒否の記述

イエスは、父なる神を知る唯一の方法はイエスであると言う。

ヨハネ14:1-7
(イエスが言った。)「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
「父のもと」とは天の国のことである。「父のもと」に行くためには「父を知る」必要があり、その手段がイエスであると言っているのである。キリスト教の宣教師らは、これを根拠に、キリスト教を知らずに死んだ者は地獄へ行ったと説明してきた。

ヨハネ福音書の内容が疑わしいという点はひとまず置いておくが、しかし、主やイエスの教えを知らなければ、本当に神を知らないということになるのか、そして、本当に地獄に行くことになるのか、ということについて検討していく。



イエスの発言

イエスは、一番偉いのはイエスに従う十二使徒たちではなく、子供であると語った。

マルコ9:33-37
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
マタイ18:1-5
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
ルカ9:46-48
弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

そして、たとえキリストに従わなくても、キリストに逆らわない限りはイエス・キリストを受け入れるのと同じとも語った。

マルコ9:38-41
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」
イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
ルカ9:49-50
そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」
イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」

それどころか、キリスト教徒だからと言って救われるというわけではないことを示した。

マタイ7:21-23
(イエスは言った。)「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

ルカ6:46-49
「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」

このことから、キリスト教の教えというのは、イエスを知らなければ地獄へ行く、という類のものではないし、イエスを信じれば天の国に行ける、というものでもない。神の御心に適った者だけが救われるのである。

子供は当然ながら、イエスのことを良く知らない。少なくともイエスのことについては十二使徒よりは知らないはずである。しかし、イエスは、神を受け入れるのはこうした子供のようになる人であって、そうした人たちこそが天の国に入ることができ、かつ最も偉いと言ったのである。ここには、クリスチャンでなければ天国に行けないというような考え方は見られない。



パウロの記述

神が何者であるかを知るためには福音を聞くことが最短の道であり、宣教は必要である。

ローマ10:14-17
ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

しかし、主に異邦人への宣教を行っていたパウロは次のように、たとえキリスト教文化(この場合はユダヤ教文化)に属しておらずとも、被造物から神を見出すことは可能だと言っている(このような、言葉を介さない啓示を一般啓示といい、言葉による直接的な啓示である特別啓示と区別されている)。

ローマ1:18-20
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。

そして、ユダヤ教文化の律法など知らずとも、神の御心に適った生き方は可能であると言っている。律法はあくまでもユダヤ人が神に適う生き方をするための法に過ぎず、神が人を裁く基準は律法そのものではないからである。

ローマ2:9-14
すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。
律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

このように、キリスト教の福音を直接知らずとも、神を敬い、その御心に適うような良い生き方をする限りにおいて、神の前に義とされると結論付けた。その意味で、天の国への道は開かれていると言える。