使徒パウロ

パウロ(希: Παῦλος - 65年?)は、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人。はじめはイエスの信徒を迫害していたが、回心してキリスト教徒となり、キリスト教発展の基礎を作った。ユダヤ名でサウロとも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人。

「サウロ」はユダヤ名(ヘブライ語)であり、ギリシア語名では「パウロス」となる(現代ギリシャ語ではパヴロス)。彼は「使徒として召された」(ローマ1:1)と述べており、日本正教会では教会スラヴ語を反映してパウェルと呼ばれる。正教会ではパウロを首座使徒との呼称を以て崇敬する。

聖人であり、その記念日はペトロとともに6月29日(ユリウス暦を使用する正教会では7月12日に相当)である。
正教会やカトリック教会はパウロを使徒と呼んで崇敬するが、イエス死後に信仰の道に入ってきたためイエスの直弟子ではなく、「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない。

生涯

パウロの職業はテント職人で生まれつきのローマ市民権保持者でもあった。

使徒18:2-3
パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。

使徒22:25-27
パウロを鞭で打つため、その両手を広げて縛ると、パウロはそばに立っていた百人隊長に言った。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか。」これを聞いた百人隊長は、千人隊長のところへ行って報告した。「どうなさいますか。あの男はローマ帝国の市民です。」千人隊長はパウロのところへ来て言った。「あなたはローマ帝国の市民なのか。わたしに言いなさい。」パウロは、「そうです」と言った。

ベニヤミン族のユダヤ人でもともとファリサイ派に属し、エルサレムにて高名なラビであるガマリエル1世(ファリサイ派の著名な学者ヒレルの孫)のもとで学んだ。

パウロはそこでキリスト教徒たちと出会う。熱心なユダヤ教徒の立場から、初めはキリスト教徒を迫害する側についていた。

使徒言行録8:1
サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。

使徒言行録22:17-21
「さて、わたし(パウロ)はエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。
主は言われました。
『急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである。』
わたしは申しました。
『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。
また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』
すると、主は言われました。
『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」

しかし、サウロの回心以後は、キリスト教徒になった。

パウロの伝道の旅については『使徒言行録』に書かれている。

そして、使徒教父文書では、パウロの最期について次のように書かれている。
Ⅰクレメンス5:1-6
けれども、昔の例(旧約聖書の殉職者たち)から離れて、私たちの時代に最も近い時に生きた闘士たちについて考えましょう。私たちの世代に生きた高貴な人々の例を見ましょう。嫉妬によって、最も偉大で正しい教会の支柱が迫害され、死に至るまで戦いました。あの善良な使徒たちを目の前に思い浮かべましょう。
ペテロがいました。彼も嫉妬によって、一度ならず何度も苦役に耐え、自分の証を負って、任命された栄光の場所に行きました。
嫉妬と争いのゆえに、パウロは身をもって、耐え忍んで賞を獲得することを示しました。それから、彼は七度縛られ、国外追放され、石で打たれ、東でも西でも宣べ伝え、信仰の報酬である高貴な栄誉を勝ち取りました。世界中に義を教え、西の果てまでたどり着きました。パウロが支配者たちの前で自分の証を負ったとき、彼は世から分離し、聖なる場所に行きました。そこで彼は忍耐の法則を発見したのです。
このように、パウロはローマで殉教したと考えられる。


パウロの風貌

画家によりさまざまであるが、『パウロ行伝』の「パウロとテクラ行伝」に、「パウロは背が低く、がにまたで、頭ははげていた」とあることから、頭の禿げた男を描く画家が少なくない。

参考

最終更新:2020年09月29日 17:15