エデンの園の比定

エデンの園とは、旧約聖書創世記の第2-3章に登場するアダムとエバの逸話に現れる伝説上の楽園である。

タブリーズ説

エジプト考古学者のデイヴィッド・ロール氏(David Rohl)は、シュメールの叙事詩『エンメアカー(Enmerkar)とエラタの王』に出てくるエラタ王国がエデンであるとしている。この叙事詩では、シュメール人の王エンメアカーは遠く北に棲むミステリアスな支配者に使節を派遣しており、その使節の目的地が黄金と貴石で溢れているエラタ王国である。
エラタに向かう長い旅で、使節は7つの門を通過する。古代の「門」という言葉は山地を通り抜けるための「峠」や「峡谷」を意味する。この数字が「7」であることが、古代ユダヤ人の伝統の「天国への7段階」と関係がある可能性がある。欧米では今日でも「楽園にいる」という意味で「7つ目の天国にいる」と言う場合がある。

シュメールの叙事詩『エンメアカーとエラタの王』より
敵のせいで王の言葉には熱が籠っていた。星の夜は星と、太陽の昼は太陽の神とともに使節は旅をして天国を目指した。
スーザからアンシャン山脈までの登り道は塵(ちり)が舞う砂利道が続いていた。5つ目の門、6つ目の門、7つ目の門と、使節は通り過ぎていった。エラタに近くなったところで彼は眼を上げた。記念すべきエラタへの道を辿る彼の足は塵にまみれていた。小石の山を見上げると大きな蛇が平地をうろついているようだった。彼はそれに逆らわなかった。

この叙事詩ではエラタ王国の場所は明らかではないが、紀元前8世紀の強国アッシリア王サーゴン2世がエラタ王国に遠征する軍事行動の様子を記録したタブレットがパリのルーブル博物館にある。シュメール人の王エンメアカーの使節と同じように、王サーゴンの軍隊も7つの山を越えている。しかも、エンメアカー王の使節の旅と異なり、サーゴン王の記録には軍隊がどこに行ったかが正確に記録されている。

サーゴン王のタブレットより
我サーゴンはアッシリアの王で、カーフンを発ち、偉大なグラーテを横切り、あらゆる種類の木々で覆われた高い山を進軍し、そこでは日の光も差し込むことは無く、7つの山を偉大な困難を超越して踏破し、灌漑水路として使われているラッパー川とエラタ川を渡り、ミニオン地方のスリカシュの方向に、私は丘を下った。サーゴン

これによると、サーゴンは古代のスリカシュを目指していた。スリカシュはミニオン平原のサケッシュというカーディッシュの町の下にあった。サーゴンは7つの峠を越えて北に向けて進み、エラタ川を渡り、ウラトの平地またはエディンに到着した。ここは聖書でいうアララトAraratである。
エンメアカーの使節も北に向けて7つの山を越え、エラタにある平地またはエディンで旅は終わっているから、同じ場所と考えられる。

これによりエデンの場所を特定すると、現在のトルコとイランの国境付近、ヴァン(Van)湖とオルーミーイェ(Urmia)湖の付近である。さらに、エデンの東側にあるとされるエデンの園の場所を比定すると、現在のイラン北西部の都市タブリーズになる。

ここにはアラス川があるが、古代においては別の名前が付いている。7世紀、イスラムがペルシャに侵攻した時、アラビアの地理学者は、その川をガイホンと呼んでいる。さらに、ここにはクシュダーグ(Kusheh Dagh)と呼ばれている山がある。これらは聖書におけるギホン川とクシュ山に比定可能である。
さらにこの地の南東の隅にケザ・ウイゾンUizon川が存在する。イランの文字Uはセミティック語だとPになる性質から、古代のイランの川の名前Uizonは聖書の作者によってセミティックでPishonピションと変換されうることがわかる。

さらに、創世記には「エデンの東のノド(Nod)の土地」という記述があるが、タブリーズ東の地域にも似た名前が見つかる。上ノクティUpper Nochdiと下ノクティLower Nochdiである。ノクティは「ノックトに所属する」ことを意味する言葉である。

上記は一つの学説に過ぎないが、間接証拠の数は過去の学説よりも優れていると思われる。

他の学説

ディルムン説

紀元前3000年代-紀元前2000年代にメソポタミア-インダス間交易の要衝として繁栄した古代都市ディルムンがモデルとする説がある。ディルムンの位置についても諸説があり不明だが、バーレーンのバーレーン要塞はその首都の跡地であるとする説がある。

肥沃な土地(Gu-Edin)説

紀元前26世紀(紀元前2600年-2500年頃)、メソポタミアにおいてラガシュとウンマが「グ・エディン(平野の首の意)」もしくは「グ・エディン・ナ(平野の境界の意)」という肥沃な土地(Gu-Edin)をめぐって戦争を繰り返しており(エアンナトゥム、エンメテナなど参照)、このどちらかがモデルであるとする説もある。

ペルシャ湾海底説

環境考古学や宇宙考古学(衛星考古学)などの視点から、7万年前〜1万2000年前の最終氷期には海面はもっと低かったため、現在は海の底となっているペルシャ湾に比定する説も有る。


参考

最終更新:2020年09月26日 16:45
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