ブッダの神

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ブッダの価値観はバラモン教が前提であり、多神教である。また、神々は天にいる存在だが、その神々ですら煩悩を抱えているとみなしており、煩悩なき者こそが至上であると考えている。

神に関するブッダの言葉


ダンマパダ30(2章:怠らないことの章)
マガヴァント(インドラ神)は、〔気づきを〕怠らないことによって、天〔の神々〕たちのなかの最勝〔の地位〕たるに至った。〔賢者たちは〕怠らないことを賞賛する。怠ることは、常に非難されてきた。

ダンマパダ44-45(4章:花の章)
誰が、この地を征圧するのだろう――しかして、夜魔(閻魔)の世〔界〕を――天〔界〕を含む、この〔世界〕を。誰が、見事に説示された法(真理)の句を〔摘み取るのだろう〕――巧みな智ある者が、〔真理の〕花を摘み取るであろうように。
学びある者が、〔この〕地を征圧するであろう――しかして、夜魔の世〔界〕を――天〔界〕を含む、この〔世界〕を。学びある者が、見事に説示された法(真理)の句を〔摘み取るであろう〕――巧みな智ある者が、〔真理の〕花を摘み取るであろうように。

ダンマパダ54-56(4章:花の章)
花の香りは、風に逆らって行くことがない。栴檀〔の香り〕は、あるいは、タガラ(伽羅)やマッリカー(ジャスミン)〔の香り〕は、〔風に逆らって行くことが〕ない。しかしながら、正しくある者たちの香りは、風に逆らって行く。正しい人は、全ての方角に香り行く。
栴檀、あるいは、また、タガラ、青蓮、しかして、ヴァッシキー(ジャスミン)――これらの香りある類“たぐい”のなかでは、戒の香りが、無上なるものである。
すなわち、この、タガラと栴檀〔の香り〕であるが、この香りは、僅かばかりのもの。しかしながら、〔まさに〕その、戒ある者たちの香りは、最上のものであり、天〔の神々〕たちにおいて香りただよう。

ダンマパダ91-94(7章:阿羅漢の章)
気づき(念)ある者たちは、〔家を〕出る。彼らは、家において喜ばない。白鳥たちが湖を捨棄して〔去り行く〕ように、彼らは、家々を捨棄する。
彼らに、蓄積“たくわえ”が存在せず、彼らが、食のことを遍知しているなら――彼らの、解脱の境涯が空“くう”にして、かつまた、相“そう”なきものであるなら――彼らの境遇(趣:死後に赴く所)は、虚空における鳥たちの〔足取り〕のように、捉えどころがない。
彼の、諸々の煩悩が完全に滅尽し、しかして、〔彼が〕食について依存なき者であるなら――彼の、解脱の境涯が空にして、かつまた、相なきものであるなら――彼の境処(境地)は、虚空における鳥たちの〔足跡〕のように、捉えどころがない。
馭者“ぎょしゃ”によって善く調御された馬たちのように、彼の、諸々の〔感官の〕機能(根)が、寂止〔の境地〕(奢摩他・止)に至ったなら、思量(慢)を捨棄した煩悩なき者を、そのような者である彼を、天〔の神々〕たちさえも羨む。

ダンマパダ100-105(8章:千の章)
たとえ、もし、千の言葉あるも、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの、義(意味)ある句のほうが、より勝“まさ”っている。
たとえ、もし、千の詩偈あるも、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの、詩偈の句のほうが、より勝っている。
しかして、彼が、百の詩偈を語るとして、義(意味)なき句の呪文集であるなら、それを聞いて〔心が〕静まる、一つの、詩偈の句のほうが、より勝っている。
彼が、戦場において、百万の人間たちに勝利するとして、しかしながら、一つの自己に勝利するなら、まさに、彼は、最上の戦勝者である。
まさに、自己に勝利することは、より勝っている。それが、もし、〔まさに〕この、他の人々〔に勝利すること〕であるとして、〔それよりも〕。自己が調御された人であるなら、常に自制された歩みある者であるなら――
そのような形態“ありかた”の人の勝利を、勝利ならざるものと為すのは、まさしく、天〔の神〕にあらず、ガンダッバ(音楽神)にあらず、梵〔天〕(ブラフマー神)を含む、悪魔にあらず(誰もできない)。

ダンマパダ126(9章:悪の章)
或る者たちは、〔母〕胎に生起する。
悪しき行為(悪業)ある者たちは、地獄に〔堕ちる〕。
善き境遇(善趣)の者たちは、天上に行く。
煩悩なき者たちは、完全なる涅槃に到達する。

ダンマパダ171-178(13章:世の章)
来たれ、見よ――様々な〔彩色を施した〕王車の如き、この世〔界〕を。そこに、愚者たちは沈むが、〔あるがままに〕識知している者たちに、執着〔の思い〕は存在しない。
しかして、彼が、かつて〔気づきを〕怠っていても、彼が、のちに怠らないなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。
彼の為した悪しき行為(悪業)が、善によって塞がれるなら、彼は、雲から解き放たれた月のように、この世を照らす。
暗愚と成ったのが、この世〔の人々〕である。ここに、数少ない者が、〔真実をあるがままに〕観察する――網から解き放たれた僅かな鳥が、天上に至るように。
白鳥たちは、太陽の道(大空)を行き、神通によって、〔聖賢たちは〕虚空を行く。慧者たちは、軍勢を有する悪魔に勝利して、〔この〕世から〔彼岸へと〕導かれる。
一なる法(真理)を超え行った、虚偽を説く人にとって、他世(来世)を否認する者にとって、為さずにいられる悪は存在しない。
まさに、吝嗇の者たちは、天の世〔界〕に行かない。まさに、愚者たちは、布施を賞賛しない。しかして、慧者は、布施を随喜しながら、まさしく、それによって、彼は、他所(来世)において、安楽の者と成る。
地における一なる王になることよりも、あるいは、天上に至ることよりも、一切世〔界〕の君主になることよりも、預流果(覚りの第一階梯)のほうが、優れている。

ダンマパダ179-181(14章:覚者の章)
彼の勝利は、失われることがない。誰であれ、世において、彼の勝利に行き着くことはない。彼を、覚者(ブッダ)を、終極なき境涯の者を、〔特定の〕境処なき者を、いかなる境処をもってして、〔あなたたちは〕導くというのだろう。
彼を誘い導くための執着と渇愛の網は、どこにも存在しない。彼を、覚者(ブッダ)を、終極なき境涯の者を、〔特定の〕境処なき者を、いかなる境処をもってして、〔あなたたちは〕導くというのだろう。
彼ら、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を追求する慧者たち、離欲と寂止に喜びある者たち――彼らを、正覚者たちを、気づき(念)ある者たちを、天〔の神々〕たちさえも羨む。

ダンマパダ197-200(15章:安楽の章)
まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きて行く――怨みある者たちのなかにいながら、怨みなき者たちとして。
怨みある人間たちのなかにいながら、怨みなき者として、〔世に〕住む。
まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きて行く――病いある者たちのなかにいながら、病いなき者たちとして。
病いある人間たちのなかにいながら、病いなき者として、〔世に〕住む。
まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きて行く――焦りある者たちのなかにいながら、焦りなき者たちとして。
焦りある人間たちのなかにいながら、焦りなき者として、〔世に〕住む。
まさに、〔わたしたちは〕極めて安楽に生きて行く――〔まさに〕その、わたしたちには、何ものも存在しない(無一物である)。
光の天〔の神々〕たちのように、喜びを食とする者たちとして、〔世に〕有る。

ダンマパダ224(17章:忿怒の章)
真理を語るように。怒らないように。乞われた者は、たとえ、少なくとも施すように。これらの三つの境位によって、天〔の神々〕たちの現前に至るであろう。

ダンマパダ227-230(17章:忿怒の章)
アトゥラ(人名)よ、これは、過去からのことである。これは、今日だけのことではない――
〔人々は〕沈黙して坐す者を非難し、多く語る者を非難する。〔それどころか〕節度をもって語る者でさえも非難する。世において、非難されずにいた者は、〔どこにも〕存在しない。
一方的に非難された人、あるいは、一方的に賞賛された〔人〕は、有ったこともなく、有るであろうこともなく、今現在も見い出されない。
〔しかしながら〕生活に瑕疵なく、思慮あり、知慧と戒によって〔心が〕定められた者(禅定者)を、もし、彼を、識者たちが、日々に随知して、賞賛するとして――
ジャンブー川の金貨(高品質の砂金で鋳造した金貨)のような彼を、誰が、非難できるというのだろう。天〔の神々〕たちもまた、彼を賞賛し、梵〔天〕(ブラフマー神)からさえも、〔彼は〕賞賛される。

ダンマパダ235-236(18章:垢の章)
今や、〔あなたは〕枯葉のようなものとして存している。しかして、夜魔(閻魔)の使者たちもまた、あなたを待っている。しかして、〔あなたは〕旅路の門に立っている。しかして、あなたには、〔旅の〕路銀さえも見い出されない。
〔まさに〕その〔あなた〕は、自己の洲(依り所)を作りなさい。すみやかに努めなさい。賢者と成りなさい。〔世俗の〕垢を取り払った〔あなた〕は、穢れなき者となり、天の聖なる境地へと近づき行くであろう。

ダンマパダ365-366(25章:比丘の章)
自らの利得(行乞で得た施物)を軽んじないように。他者たち〔の利得〕を羨む者として歩まないように。他者たち〔の利得〕を羨んでいる比丘は、〔心の〕統一(定:三昧の境地)に到達しない。
たとえ、もし、〔自らの〕利得が僅かであるとして、比丘は、自らの利得を軽んじることがない。休むことなく〔励み〕清浄の生き方ある彼を、まさに、天〔の神々〕たちは賞賛する。

ダンマパダ421(26章:婆羅門〔バラモン〕の章)
天〔の神々〕たちが、ガンダッバ(音楽神)や人間たちが、彼の赴く所を知らないなら、煩悩が滅尽した者であり、阿羅漢(人格完成者)であり、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

ダンマパダ424(26章:婆羅門〔バラモン〕の章)
彼が、過去(前世)の居住“いきざま”を知ったなら、さらには、〔死後に赴く〕天上と悪所(地獄)を〔両者ともに〕見るなら、しかして、生の滅尽を得た者であり、〔あるがままに〕証知して〔知慧が〕完成された牟尼であり、一切が完成された完成者を、わたしは、彼を「婆羅門」と説く。

梵天勧請

ブッダは菩提樹の下で悟りを開いた数週間後、自殺をしようと試みていたところに、梵天(ブラフマー神)より啓示を受けた。そのことに触れているのが、〔パーリ仏典経蔵相応部(サンユッタ・ニカーヤ)、6、2「恭敬」〕である。(漢訳では〔雑阿含経、44、11「尊重」〕)
この逸話を「梵天勧請」と呼び、これが書かれている相応を「梵天相応」と呼ぶ。

サンユッタ・ニカーヤ 6:2:1-8
わたしは、このように聞いた。
或るとき尊師はネーランジャラー河の岸辺に、アジャパーラという名のバニヤンの樹の根もとにおられた。さとりを開かれたばかりであったのである。そのとき尊師は、ひとり隠れて、静かな瞑想にふけっておられたが、心のうちにこのような考えが起った。「他人を尊敬することなく、長上に柔順でなく暮らすことは、やり切れないことである。わたしはいかなる(道の人)またはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したらよいのだろうか?」と。
そのとき尊師は次のように思った。「まだ完全に実践していない戒めの体系を完全に実践するために、わたしは他の(道の人)あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活したいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、(道の人)やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に戒めを達成し実践している人なるものを見ない。わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。
未だ完全に実践していない禅定の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンまたは(道の人)を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
まだ完全に実践していない智慧の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンまたは(道の人)を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
まだ完全に実践していない解脱の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンまたは(道の人)を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
まだ完全に体得していない<われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直観)>の体系を完全に体得するために、わたしは他のバラモンまたは(道の人)を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、(道の人)やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に<われは解脱したと確かめる自覚>を達成している人なるものを見ない。わたしはその人をこそ尊び敬いたよって生活したいのであるが。むしろ、わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだろう。」

このようにブッダが考えていたところに、インドの最高神にして創造神であるブラフマー神はブッダに語りかけた。

サンユッタ・ニカーヤ 6:2:9-12
そのとき世界の主・梵天は、尊師が心の中で考えておられることを知って、譬えば力のある男が、屈した腕を伸ばし、あるいは伸ばした腕を屈するように、梵天界のうちから姿を隠し、尊師の前に現われ出た。さて世界の主・梵天は、一方の肩に上着をかけて、尊師に向かって合掌し、尊師に向かって次のように言った。
「尊いお方さま!そのとおりでございます。過去にさとりを開き、敬われるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじて、たよっておられました。未来にさとりを開き、敬われるべき人々である尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。また現在さとりを開き、敬われるべき人(単数)である尊師も、真理を尊び、重んじたよるようにしてくださいませ。」
世界の主・梵天は、このように言った。このように説いたあとで、次いで次のように説いた。
「過去にさとりを開いた仏たち、また未来にさとりを開く仏たち、
また多くの人々の憂いを除く現在の仏、――正しい教えを重んずる
これらすべての人々は、過去に住したし、現在住し、また未来に住するであろう。
これが諸仏にとっての決まりである。
それ故に、この世においてためになることを達成しようと欲し、
偉大な境地を望む人は、仏の教えを憶念して、
正しい教えを尊重しなければならない。」