病と死の理由

新型コロナウイルスCOVID-19の感染拡大により、執筆現在(2020/4/29)までに世界中で何十万人もの死者が出てきています。そこで今回のまとめを書こうと考えました。

なぜ死や病、災いがあるのか


医学や科学技術の進歩により、現代に生きる私たちは、様々な病気の原因を知っている。中でも、感染症の原因が微生物であることは、17世紀に光学顕微鏡の発明により細菌が発見されることによって明らかになったし、ウイルスの存在も20世紀に電子顕微鏡が発明されると明らかになった。

あるいは災害においても、例えば地震や津波のメカニズムが地質学的に解明されてきており、大地のプレートテクトニクスにより定期的に引き起こされる現象であることが明らかとなった。

しかしながら、ここでいうのはそのような話ではなく、なぜそもそも「病が存在するのか」、もっと簡単に言えば病により人は死ぬのだから「そもそもなぜ人は死ぬのか」いう話である。

もともと人間は死ぬことのない存在として創られていた。しかしながら、アダムは知恵の果実を食べるという罪を犯してしまった。パウロはこれが、人が病に苦しむ原因になったと書いている。

創世記2:16-17
主なる神は人(アダム)に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

創世記3:13
主なる神は女(エバ)に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

創世記3:17-19
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女(エバ)の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。
お前のゆえに、
土は呪われるものとなった。
お前は、
生涯食べ物を得ようと苦しむ。
お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。
お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。
お前がそこから取られた土に。
塵にすぎないお前は塵に返る。」

ローマ5:12-14
このようなわけで、一人の人(アダム)によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方(イエス・キリスト)を前もって表す者だったのです。

このように、死や病が存在するのは、最初の人間(アダム)が罪を犯したから、つまり原罪のためというように一般的に考えられている。

病気になるのは罪を犯したからではない


しかし、それは単に「なぜ死や病が存在するか」の説明でしかなく、「病気になった人は罪を犯したからだ」という因果関係にはならないことに注意したい。

そもそも、人は誰しも理不尽な不幸を体験しうるものである。

コヘレト9:11-12
太陽の下、再びわたしは見た。
足の速い者が競走に、
強い者が戦いに
必ずしも勝つとは言えない。
知恵があるといってパンにありつくのでも
聡明だからといって富を得るのでも
知識があるといって好意をもたれるのでもない。
時と機会はだれにも臨むが
人間がその時を知らないだけだ。
魚が運悪く網にかかったり
鳥が罠にかかったりするように
人間も突然不運に見舞われ、
罠にかかる。

理不尽な理由で病や死は起こる


聖書には、善人が病気になる場面が描かれている。たとえばヨブ記では、それまで善人として生きてきたはずのヨブに対して、ヨブの信仰心を試すという理不尽な理由のために、主はサタンの行為を許可した。

ヨブ記1:8-12
主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」
サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。

そして、ヨブの使用人(牧童、羊飼い)や子供達が亡くなった。さらにヨブ自身が皮膚病(らい病)になることも主がサタンに許可している。

ヨブ記1:13-19
ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。
ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」
彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」

ヨブ記2:1-7
またある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て、主の前に進み出た。(中略)
主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」
サタンは答えた。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
主はサタンに言われた。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」
サタンは主の前から出て行った。サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。

このように、人が病気を患う理由、さらには亡くなる理由は、単に本人の善悪の問題で片づけられず、極めて理不尽であることがわかる。

さらにイエスは、罪を犯したから病気になる、というわけではなく、「神の業が現れるため」だとはっきりと述べている。

ヨハネ9:1-3
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

この次の場面で、この盲人は神の奇跡により盲目が治癒するが、現実のほとんどの例ではそのようにはならないだろう。

このように、病気の存在そのものは人の原罪が原因であるが、罪のない個人が病気になることはありえ、それは善業を積んだからといって避けられるようなものではないのである。

ヨブ記の中で、主はヨブに対して次のように述べている。

ヨブ38:3-4
わたしはお前に尋ねる、
わたしに答えてみよ。
わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。
知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。

人に神の計画を知ることなど不可能であり、人間の考えの及ぶ因果律ではとても説明のできない理由で、人は病になり、時に亡くなるのである。

神義論の発展

こうした「なぜ神は完全であるのに、この世に悪(死や病、災い、悪事など)があるのか」という議論は古代より議論されてきた。現代では神義論として、発展的な内容が議論されている。
最終更新:2020年04月29日 23:19