原罪論と贖罪論

キリスト教では、「原罪」と、キリストによる「十字架の上の罪の贖い」が重要な教義だが、これはパウロにより提唱されたものである。

キリスト教では、すべての人は、アダム(一人の人)の犯した罪である「原罪」を受け継いでいるため、罪人だと考える。

ローマの信徒への手紙5:12
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。

しかしながら、神であり人であるイエス・キリストが十字架の上で、人に代わって処刑されたことで、その罪は赦されたと考える。

ローマの信徒への手紙5:8-9
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

このことから、人が死ぬようになったのはアダムのためであるから、キリストによって救われた我々は再び生きるようになる(復活するようになる)とパウロは考えた。

コリントの信徒への手紙一15:22
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

これと同様の思想を、ヨハネによる福音書の著者は持っていたこともわかる。

ヨハネによる福音書3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

イザヤ53章

原罪論の根底には、恐らくイザヤ53章の預言があると思われる。主の僕が見捨てられることを預言したものだが、キリストの磔刑を見た弟子たちは、イザヤのこの預言に重ね合わせたと考えられる。

ここには、主の僕について「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」と書かれており、これがパウロが提唱したイエスの贖罪に合致している。

イザヤ53:1-12
わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。
最終更新:2017年08月02日 12:14