ブッダの生涯

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ブッダの生涯はいくつかの仏典にまとめられている。ここではそれらを元にブッダの生涯を記述する。

釈迦の名前

本名はサンスクリット語でガウタマ・シッダールタ(パーリ語:ゴータマ・シッダッタ)である。
ガウタマと信奉者たちはマガダ語を用いていたと考えられるが、マガダ語のみの文献は現存しない。パーリ語は中部以西の俗語と考えられ、パーリは聖典を意味する。おそらく仏滅直後の最初の結集(教団の集合会議)にはマガダ語が用いられ、それ以後に仏弟子の西方への布教によってパーリ語に移され、また別にサンスクリット語に変えられたとみなされる。
この記事では基本的にサンスクリット語に基づいた記述を行う。

生涯

シッダールタの生涯は次のようにまとめられる。

誕生から青年期

ヒマラヤ山脈の麓、現在のネパール王国の領土内に位置するルンビニーで生まれた。
父はシャーキャ族(漢訳:釈迦族)の国王シュッドーダナ(パーリ語:スッドーダナ、漢訳:浄飯王)、母はマーヤー(漢訳:摩耶夫人)である。
幼くして実母を無くしたシッダールタだったが、釈迦族の王子として、カピラヴァストゥ(パーリ語:カピラヴァットゥ、カピラ城)で不自由のない生活を送っていた。16歳にしてヤショーダラー(パーリ語:ヤソーダラー)という名の娘と結婚し、一子ラーフラをもうけた。しかしこの時期から物思いに耽ることが多かったとされており、老・病・死について考えていたことがパーリ語聖典の増支部(アングッタラ・ニカーヤ)に独白として収められている。

アングッタラ・ニカーヤ(増支部)、3、38(中村元訳)
わたくしはこのように裕福で、このようにきわめて優しく柔軟であったけれども、次のような思いが起こった、--愚かな凡夫ぼんぶは、自分が老いてゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた老いてゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、青年時における青年の意気(若さの驕り)はまったく消え失せてしまった。
愚かな凡夫は自分が病むものであって、また病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた病むものであって、病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ては、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、健康時における健康の意気(健康の驕り)はまったく消え失せてしまった。
愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。じつはわれもまた死ぬものであって、、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。私がこのように考察したとき、生存時における生存の意気(生きているという驕り)はまったく消え失せてしまった。

この逸話は別の仏典では「四門出遊」として描かれている。あるときシッダールタ王子は城の東門から外へ出たとき老人を見て衝撃を受けた。次に南門から外へ出て病人を見て衝撃を受け、さらに西門から外へ出て死人を見て衝撃を受けた。そして最後に北門から外へ出て出家者に出会って感銘を受け、そして自らも出家された、というものである。

出家

シッダールタはカピラヴァストゥでの世俗的な快楽の生活を捨てて、29歳で一人出家した。シッダールタは、まず当時名声の高かった二人の仙人のもとを訪れた。しかしいずれの教えにも満足できず、ウルヴィルヴァー(パーリ語:ウルヴェーラー)すなわちブッダガヤーの地で、6年から7年の間、激しい苦行をした。しかし、そのような苦行は、なんの役にも立たないもの、なんの利益もないものであるとして、シッダールタは苦行をやめた。

悟り

その後、近くの村に住むスジャーターという名の少女からミルクがゆを供養された。ミルクがゆよって元気を得たお釈迦さまは、アシュヴァッタ樹の下に坐って瞑想をし、さとりを開いた。アシュヴァッタ樹(無花果樹)はシッダールタがその下でさとり(bodhi ボーディ、菩提)を開いたことから菩提樹(Bodhi-tree, Bo-tree)とも呼ばれます。シッダールタが35歳か36歳の時のことである。

さとり(bodhi)という名詞は、文字どおりには「目覚め、目覚めること」を意味し、さらに「知ること」を意味する。さとり(bodhi)を開いた人のことを、ブッダ(buddha)と言うが、この単語はbodhiと同じ動詞語根(budh,目覚める)から派生した過去分詞形であり、文字どおりには「目覚めた、目覚めた人」を意味する。

教化

菩提樹の下でさとりを開いたシッダールタは、その後7日間、足を組んだままの姿勢で「解脱 の安楽」を味わった。
しかし、その後シッダールタは自分のさとった縁起の理法を世間の人々に説くのをためらった。沈黙へ誘惑がシッダールタの心に起こったとき、創造神ブラフマー(梵天)がシッダールタに法を説くように三度にわたって願い求めた。これを「梵天勧請」と呼ぶ。この懇請によってシッダールタは人々のために法を説くことを決意した。

シッダールタは、ブッダガヤーから直線距離で約200キロメートル離れており、古来宗教上の聖地と見なされていたヴァーナーラシー(ベナレス)へ向かった。それは、ヴァーナーラシーの郊外にある ムリガダーヤ(パーリ語:ムリガダーヴァ、漢訳:鹿野苑、現サールナート)に、5人の苦行時代の旧友がおり、シッダールタがかつて苦行をともにし、そしてシッダールタが苦行を捨てたのをとがめた5人の旧友に、法を説こうとしたためである。ムリガダーヤに着いたとき、その5人の修行者たちがいた。彼らに対して、シッダールタは「中道」のあり方などを説いた。この最初の説法を、初めて法の車輪が回ったということで、「初転法輪」という。5人の修行者たちはその説法に感銘し、シッダールタの弟子になった。

伝道

その後、シッダールタは弟子たちとともにあちこちを歩き回りながら、あらゆる人々に法を説いた。そのために教団は急速に大きくなっていった。経典にはしばしばシッダールタが1250人の弟子たちとともにいたと記している。

インドには雨季があるため、この三ヶ月から四ヶ月間、シッダールタは弟子たちとともに一ヶ所に集まって、しばし定住生活を行った。これを「雨安居」といい、この期間は弟子たちは各自が掘っ建て小屋を建てて雨露をしのぎ、勉学に勤しんだ。各地に安居の場所が寄進され、設けられた。その最も有名なものが、西のシュラーヴァスティー(漢訳:舎衛城、舎衛国)に設けられたジェータヴァナ・ヴィハーラ(漢訳:祇園精舎)であり、東のラージャグリハ(漢訳:王舎城)に設けられたヴェーヌヴァナ・ヴィハーラ(漢訳:竹林精舎)であった。

こうして80歳になるまで伝道を続けた。

入滅

80歳になったシッダールタは、ラージャグリハ(漢訳:王舎城)のグリドラクータ(パーリ語:ギッジャクータ、漢訳:霊鷲山)から生まれ故郷のカピラヴァストゥに向かう旅行を決意した。旅のみちづれは、ほとんどアーナンダ(漢訳:阿難)一人だけであった。

シッダールタらは旅先の各地でさまざまな人々に法を説きながら故郷に向かっていた。シッダールタらはガンジス河を渡ってヴァイシャーリー(パーリ語:ヴェーサーリー)を過ぎ、マッラ国のパーパー(パーリ語:パーヴァー)に着いた。パーパーではチュンダという金属細工師(鍛冶工)に食物の供養を受け、法を説いた。しかし、シッダールタはそのとき、その食物を食べたのが原因で、激しい下痢におそわれた。このように病に苦しみながらも、シッダールタは鍛冶工チュンダのことを思いやって、チュンダへのことばをアーナンダに託した。

クシーナガルに着いたシッダールタは、二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、北に頭を向けて横になった。それから、シッダールタの死期が近いことを知り、スバドラ(パーリ語:スバッダ)という行者が会いに来た。アーナンダは拒絶したが、シッダールタはスバッダに法を説いた。感銘を受けたスバドラは出家し、シッダールタの最後の直弟子となった。

その日、シッダールタはアーナンダと修行者たちに法を説いた後、次のように言って死んだ。

マハー・パリニッバーナ・スッタンタ(大般涅槃経)
さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。おこたることなく修行を完成しなさい』

シッダールタの遺体は荼毘(パーリ語:ジャーペーティ、火葬)に付され、遺骨はマガダ国王や釈迦族などの8つの部族に分与され、それぞれストゥーパに納められ、供養された。遺骨は後にアショーカ王がさらに分配し、八万四千のストゥーパが建てられたとされる。


仏典

最後の一年

釈尊の最後の旅からはじまって、入滅に至る経過、荼毘(だび)と起塔について叙述する経典。
  • パーリ仏典、経典長部『大般涅槃経』(マハー・パリニッバーナ・スッタンタ)
  • 漢訳『長阿含経』(大正蔵1)第2経「遊行経」
  • 漢訳『仏般泥洹経』 (大正蔵5)
  • 漢訳『般泥洹経』(大正蔵6)
  • 漢訳『大般涅槃経』(大正蔵7)

全体的な伝記

  • パーリ仏典『マハーパリニッバーナ・スッタ(大般涅槃経)』〔経蔵長部、第16経〕
  • パーリ仏典『ウダーナ(自説経)』〔経蔵小部、第3経〕
  • サンスクリット経典『マハーヴァストゥ』〔大衆部のサンスクリット文献〕:『ダンマパダ』の「千」と「比丘」の章を引用する。
  • サンスクリット経典『ブッダチャリタ』:仏教僧侶である馬鳴の著作とされる仏教叙事詩。 釈迦の生涯に題材を採った、28編の韻文から成るサンスクリットの美文体文学。サンスクリット原典は、前半の14編のみ現存し、後半は散逸。
  • サンスクリット経典『ラリタ・ヴィスタラ』:釈迦の降生から初転法輪に至るまで前半生を記したもの。
  • 漢訳『普曜経(方等本起経)』(大正蔵186):『ラリタ・ヴィスタラ』を漢訳したもので、釈尊の誕生から誕生地カピラバストゥに帰るまでの事績を説く。
  • 漢訳『方広大荘厳経』(大正蔵187):『ラリタ・ヴィスタラ』を漢訳したもので、釈迦の降生からカピラヴァストゥに帰るまで前半生を記したもの。
  • 漢訳『過去現在因果経』(大正蔵189):釈迦の前世とその生涯の大部分を説く。
  • 漢訳『仏本行集経』(大正蔵190):漢訳仏伝のなかで最も詳しいもので、釈尊だけでなく、迦葉、舎利弗、目連、羅ご羅など多くの弟子たちの伝記、言行も加えられている。
  • 漢訳『仏所行讃』(大正蔵192):古代インドの仏教詩人アシュバゴーシャ(馬鳴<めみょう>)のサンスクリット叙事詩『ブッダチャリタ』を漢訳したもの。
  • 梁・僧祐『釈迦譜』(大正蔵2040):漢訳仏典からの引用のみによって構成された仏伝である。

大乗仏典

大乗仏教では特に般若波羅蜜(智度)が、空の思想や菩薩の在り方とともに重要な用語として位置づけられ教説されたこと、如来蔵説が唱えられたことなどがある。
これは、衆生皆菩薩・一切衆生悉有仏性・生死即涅槃・煩悩即菩提などの如来蔵思想や、釈迦が前世において生きとし生けるものすべて(一切衆生)の苦しみを救おうと難行(菩薩行)を続けて来たというジャータカ伝説に基づいて、自分たちもこの釈尊の精神(菩提心)にならって六波羅蜜の概念の理解を通じ善根を積んで行くことにより、遠い未来において自分たちにもブッダとして道を成じる生が訪れる(三劫成仏)という修行仮説や死生観(地獄や空色を含む大千世界観)へと発展していった。そうした教義を明確に打ち出した経典として『華厳経』、『法華経』、『浄土三部経』、『涅槃経』などがある。
これらの経典は、釈迦の死後500年以上経ってから書きはじめられたものであり、釈迦が生前語っていたという形式によって書かれているが、実際に釈迦が語った言葉であるとは考えられていない。(キリスト教での外典に近い存在である)