ベツレヘムの星

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ベツレヘムの星は、東方の三博士をイエスに導いたことで知られるものである。クリスマスツリーの頂上にある星はこれをかたどったものである。

イエスが生まれた時、東方の三博士は占星術を元にイエスの生誕を予想したことが書かれている。(マタイ2:1-2)
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者(マギ)たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

東方の三博士だけでなく、ヘロデ王もまた占星術の学者に確認させている。(マタイ2:7)
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

ただし、次の記述が天文学的に理解不能である。(マタイ2:9)
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
これは文字通りには解釈できないので、東方からみて西方に見える位置に輝いていた、という意味だと解釈される。

これは現在ベツレヘムの星と呼ばれている。なお、この時代に占星術が発達していたのはバビロンであったことから、この東方の三博士らはバビロンからやってきたと考えられている。

ケプラーによる、3星会合による新星誕生説

ケプラーによる新星発見



17世紀初頭の天文学者ヨハネス・ケプラーは、1604年10月9日にへびつかい座に見つけられた超新星SN1604とベツレヘムの星は同じ現象だと考えた。ちょうどそのころ、へびつかい座で木星、土星、火星の3星会合が見られた。ケプラー本人は同年10月17日にこの新星(nova)の存在に気付いた。(図は右から順に、1604年9月16日(破線の三角)、10月2日(実線の三角)、10月17日の火星、木星、土星の位置である)このことから、イエスの時代にも惑星の会合があり、それが原因で超新星が現れたと考えた。


なお、本論からは外れるが、ケプラーはこの現象の前年のクリスマス、1603年12月25日に、木星、土星、水星の3星会合を見ており、その後、水星の代わりに火星が加わり、3惑星の会合が見られ、そこに超新星を彼は見つけた。彼は水星がメッセンジャー(伝令者)であるという占星術の考え方から、木星、土星、水星の3星会合を彼は、超新星および(彼はその原因だと考えた)木星、土星、火星の3星会合を予兆したものだと考えたようである。

ベツレヘムの星と会合との関係


そこでケプラーは、イエスの誕生年月日を同様にして求めようとした。具体的には、イエスが生まれたと考えられている時期の会合を調べたのである。


そして1614年、ケプラーは、紀元前7年に起きた、木星と土星の3連会合、すなわち両惑星が合体して見えるほどの接近を3回繰り返したのがベツレヘムの星の正体であると結論付けている。当時、木星と土星は接近しつつ留と逆行を繰り返し、3回も大接近した。


すると紀元前7年に木星と土星が、続けて3回接近(5月27日、10月5日、12月1日に合)し、紀元前6年にはさらに火星が接近したことを突き止めた。ケプラーはその時超新星が出現したはずで、それがベツレヘムの星だと考えたのである。
しかしながら、この説には大きな問題がある。

まず、現在の天文学では、惑星の会合と超新星には何の関係もないことがわかっている。
そして、木星の公転周期は約12年、土星の公転周期は約30年であり、その会合周期は約20年となるから、20年に一度は会合が起きることになる。火星の公転周期は1.88年なので、木星と土星の会合が起こる際には、火星も加わって三重合となる場合がほとんどである。したがって火星・木星・土星の三重合はそれほど珍しい現象ではない。

これを裏付けるかのように、バビロンで発見された当時の粘土板BM35429には、簡潔に次のことが記されているにとどまっている。
第7の月、前月の第30日に続く第1日のに、木星と土星がうお座にあり、金星がさそり座にあり、火星がいて座にあった。第2日が春分であった。
第11の月、…木星と土星と火星がうお座にあり、金星がいて座にあった。第13日に、金星がやぎ座にあった。
バビロンではまったく神聖視されていなかったことがわかるし、新星が出現したと言うような記録もない。
なお、歴史上、肉眼で観測された超新星は、SN185、SN393、SN1006、SN1054、SN1181、SN1572、SN1604、SN1987A の8天体のみである。

その他の候補

ケプラーの仮説の他にもいくつかの候補がある。

紀元前12年のハレー彗星説

紀元前12年に現れたハレー彗星がベツレヘムの星とするものである。しかし、当時彗星は災いの象徴だった。しかも年代に大きくずれがあり、これをベツレヘムの星と同定するのは難しいものがある。

紀元前5年の星

前漢書には次のような記載がある。(前漢書、志、天文志156)
(哀帝建平)二年二月,彗星出牽牛七十餘日
哀帝の建平二年二月に、七十日余りの間、牽牛に彗星が現れた。
哀帝紀の治世は紀元前6年から前1年であることから、この出来事は紀元前5年のことである。この年の第二の月とは、ユリウス暦で3月10日から4月7日を意味する。牽牛は現在では彦星アルタイルを意味するが、当時は牽牛は牛宿と同義であり、すなわち やぎ座を意味した。このことから、次のように解釈できる。
  • 紀元前5年の3月10日から4月7日に間に、やぎ座に彗星が現れた。
しかし、彗星ならば七十日間も見えていれば動かないはずである。

これを相補するかのように、高麗の三国史記にも次のような記載がある。(新羅本紀、卷第一、新羅本紀第一、赫居世 居西干)
(赫居世王)五十四年 春二月己酉 星孛于河鼓
赫居世王の治世の五十四年目の第二の月の己酉(の日)、星孛が河鼓に現れた。
河鼓とは中国の星座で、アルタイルを含むわし座の南領域を意味する。(※中国では後漢のころまでわし座のα,β,γ3星を大鼓の形に見て河鼓(天の川のほとりの大鼓の意)と呼んでいた。)星孛とは、非常に明るい星か、尾のない彗星である。赫居世王の治世の五十四年目は紀元前4年に相当する。このとき、「己酉」の日は第二の月には存在しないが、「乙酉」の日の誤りであれば、3月31日となる。よって次のように解釈できる。
  • 紀元前4年の3月31日に、わし座の南に明るい星が現れた。

この二つの出来事は非常に近い位置で起こっており、同じ天体の可能性がある。

特殊なホロスコープ


なお、イエスの誕生年月日の候補となりうる紀元前6年4月17日のホロスコープを確認すると、すべての惑星(この場合、太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星)が会合していることがわかる。太陽をまたいでいるため目視では理解しにくいが、占星術師ならば理解できたはずである。