ガラテヤの信徒への手紙

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ガラテヤの信徒への手紙 - (2017/10/13 (金) 16:46:49) の1つ前との変更点

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[[パウロ書簡]]の一書。真筆性は極めて高いとされる。 著者パウロは小アジアの中部、ガラテヤという地域のキリスト教徒の共同体にあててこの手紙を書いている。本書は異邦人のキリスト教徒がユダヤ教の律法をどう考えればいいかという問題を扱っており、この問題は初代教会では重要な問題であった。『ローマの信徒への手紙』とならんでパウロの神学思想がもっとも明快に示された書簡であり、カトリック教会のみならず宗教改革後のプロテスタント教会へも大きな影響を与えた。 『使徒言行録』16:6(?)および『ガラテヤの信徒への手紙』(以下『ガラテヤ書』)1:8、4:13、4:19によればガラテヤの共同体はパウロ自身が創設したものである。 信徒たちはかつて異教徒であったものがほとんどであった。この共同体はパウロが離れた後で、「異なる福音」を伝えるものたち(教師)が現れ、信徒の間に混乱をひきおこしていたことがうかがえる。パウロはこのような教えに耳を貸さないようガラテヤの共同体のメンバーたちに強く求めている。 **成立時期 『ガラテヤ書』の成立時期とあて先については二つの有力な説がある。 第一は&bold(){北ガラテヤ説}で、この書簡が『使徒書』18:23に書かれたパウロの第二回ガラテヤ訪問の直後に書かれたというものである。『ガラテヤ書』2:1-10に書かれたパウロのエルサレム訪問(使徒書15章の記事と対応)から考えれば成立は使徒会議の直後ということになるだろう。 使徒18:23 >パウロはしばらくここ(カイサリア)で過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。 さらに『ガラテヤ書』と『[[ローマの信徒への手紙]]』の共通点を考慮すると、両書は同時期(おそらく紀元57年か58年の冬)、パウロのコリントス滞在中(『使徒書』20:2-3)にかかれたものということになる。どちらも同じ思想を中心としながら、『ガラテヤ書』は当地の共同体の要請にこたえる形で急いで書かれたもので、『ローマ書』はもっと計画的に体系的に書かれたとみることができる。 使徒20:1-3 >この騒動(銀細工師デメトリオがパウロが彼らの職を妨害していると訴えたことによる騒動)が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三か月を過ごした。 一方の&bold(){南ガラテヤ説}はパウロがエルサレムの使徒会議の直前あるいは直後、おそらくはエルサレムに向かう途上で書いたのではないかと考える。パウロはエルサレム訪問後に戻ったタルソスにおいて、もしくは南ガラテヤを尋ねた第一回宣教旅行の間に自分が創設した共同体に向けて手紙をかいていたとしている。 **著者 冒頭にパウロであると明記されている。(ガラテヤ1:2) >人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 高等批評でも、パウロの真筆性は高いとされている。 **構成 -パウロの使徒としての正統性(第1章) -律法を重視する人々によって傷つけられている福音の精神(第2章から第4章) -ガラテヤの信徒へイエスを中心とした信仰を説く(第3章) -そこまで扱った問題のまとめと祝福(第4章) -キリスト者の自由について(第5-6章) **イエスの直弟子との関わり パウロが改心した3年後、イエスの直弟子である使徒ペテロ(ケファ)と、イエスの弟であるヤコブに会った時のことが書かれている。(ガテラヤ1:11-20) >兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。 >あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。 >しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。 >それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。 >わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。 パウロはダマスコに行く途上で復活のイエスに会った後、そのままアラビアに行き、そこで3年を過ごし、それからダマスコに戻った。そしてエルサレムへと行き、ペテロとヤコブに会い、それからシリアやキリキヤの地方に行った。使徒言行録によれば、パウロは生まれ育った町であるタルソにいて、そこで7年間を過ごした。 その頃、パウロは、ユダヤからやってきた者たちが、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われることが無い旨を話したのを聞いた。(使徒言行録15:1-2) >ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。 そのことについてパウロは次のように書いている。(ガラテヤ2:1-5) >その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。 ここでパウロは、割礼は必要でなく、信じさえすれば救われる、という自身の考えが誤りであることを危惧し「自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないか」と言っている。そして、割礼を受けてしまうことを「奴隷」と表現し、割礼を受けさせるために「偽の兄弟」が忍び込んでいたにもかかわらず、譲歩することなく、割礼を受ける必要はないという「自由」を守ったことを語っている。 このことについて、当時のキリスト教団の主要幹部であったヤコブ、ペトロ(ケファ)、ヨハネの三者は、パウロと同じ見解を示した。そして、パウロには割礼を受けていない異邦人への宣教の役割が与えられていることも認めたという。パウロは彼らを「おもだった人たち」と呼んでいる。(ガラテヤ2:6-10) >(割礼を受けることは)おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。 >それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。 >また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。 そしてパウロは、続く文章で、ペトロ(ケファ)が割礼を受けているユダヤ人を特別扱いした事実を、強い不満とともに述べている。(ガラテア2:11-14) >さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 >しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」
[[パウロ書簡]]の一書。真筆性は極めて高いとされる。 著者パウロは小アジアの中部、ガラテヤという地域のキリスト教徒の共同体にあててこの手紙を書いている。本書は異邦人のキリスト教徒がユダヤ教の律法をどう考えればいいかという問題を扱っており、この問題は初代教会では重要な問題であった。『ローマの信徒への手紙』とならんでパウロの神学思想がもっとも明快に示された書簡であり、カトリック教会のみならず宗教改革後のプロテスタント教会へも大きな影響を与えた。 『使徒言行録』16:6(?)および『ガラテヤの信徒への手紙』(以下『ガラテヤ書』)1:8、4:13、4:19によればガラテヤの共同体はパウロ自身が創設したものである。 信徒たちはかつて異教徒であったものがほとんどであった。この共同体はパウロが離れた後で、「異なる福音」を伝えるものたち(教師)が現れ、信徒の間に混乱をひきおこしていたことがうかがえる。パウロはこのような教えに耳を貸さないようガラテヤの共同体のメンバーたちに強く求めている。 **成立時期 『ガラテヤ書』の成立時期とあて先については二つの有力な説がある。 第一は&bold(){北ガラテヤ説}で、この書簡が『使徒書』18:23に書かれたパウロの第二回ガラテヤ訪問の直後に書かれたというものである。『ガラテヤ書』2:1-10に書かれたパウロのエルサレム訪問(使徒書15章の記事と対応)から考えれば成立は使徒会議の直後ということになるだろう。 使徒18:23 >パウロはしばらくここ(カイサリア)で過ごした後、また旅に出て、ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた。 さらに『ガラテヤ書』と『[[ローマの信徒への手紙]]』の共通点を考慮すると、両書は同時期(おそらく紀元57年か58年の冬)、パウロのコリントス滞在中(『使徒書』20:2-3)にかかれたものということになる。どちらも同じ思想を中心としながら、『ガラテヤ書』は当地の共同体の要請にこたえる形で急いで書かれたもので、『ローマ書』はもっと計画的に体系的に書かれたとみることができる。 使徒20:1-3 >この騒動(銀細工師デメトリオがパウロが彼らの職を妨害していると訴えたことによる騒動)が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三か月を過ごした。 一方の&bold(){南ガラテヤ説}はパウロがエルサレムの使徒会議の直前あるいは直後、おそらくはエルサレムに向かう途上で書いたのではないかと考える。パウロはエルサレム訪問後に戻ったタルソスにおいて、もしくは南ガラテヤを尋ねた第一回宣教旅行の間に自分が創設した共同体に向けて手紙をかいていたとしている。 **著者 冒頭にパウロであると明記されている。(ガラテヤ1:2) >人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 高等批評でも、パウロの真筆性は高いとされている。 **構成 -パウロの使徒としての正統性(第1章) -律法を重視する人々によって傷つけられている福音の精神(第2章から第4章) -ガラテヤの信徒へイエスを中心とした信仰を説く(第3章) -そこまで扱った問題のまとめと祝福(第4章) -キリスト者の自由について(第5-6章) **イエスの直弟子との関わり パウロが[[回心>サウロの回心]]した3年後、イエスの直弟子である使徒ペテロ(ケファ)と、イエスの弟であるヤコブに会った時のことが書かれている。(ガテラヤ1:11-20) >兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。 >あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。 >しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。 >それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。 >わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。 パウロはダマスコに行く途上で復活のイエスに会った後、そのままアラビアに行き、そこで3年を過ごし、それからダマスコに戻った。そしてエルサレムへと行き、ペテロとヤコブに会い、それからシリアやキリキヤの地方に行った。使徒言行録によれば、パウロは生まれ育った町であるタルソにいて、そこで7年間を過ごした。 その頃、パウロは、ユダヤからやってきた者たちが、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われることが無い旨を話したのを聞いた。(使徒言行録15:1-2) >ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。 そのことについてパウロは次のように書いている。(ガラテヤ2:1-5) >その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際、テトスも連れて行きました。エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした。わたしは、自分が異邦人に宣べ伝えている福音について、人々に、とりわけ、おもだった人たちには個人的に話して、自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました。しかし、わたしと同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした。潜り込んで来た偽の兄弟たちがいたのに、強制されなかったのです。彼らは、わたしたちを奴隷にしようとして、わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由を付けねらい、こっそり入り込んで来たのでした。福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした。 ここでパウロは、割礼は必要でなく、信じさえすれば救われる、という自身の考えが誤りであることを危惧し「自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないか」と言っている。そして、割礼を受けてしまうことを「奴隷」と表現し、割礼を受けさせるために「偽の兄弟」が忍び込んでいたにもかかわらず、譲歩することなく、割礼を受ける必要はないという「自由」を守ったことを語っている。 このことについて、当時のキリスト教団の主要幹部であったヤコブ、ペトロ(ケファ)、ヨハネの三者は、パウロと同じ見解を示した。そして、パウロには割礼を受けていない異邦人への宣教の役割が与えられていることも認めたという。パウロは彼らを「おもだった人たち」と呼んでいる。(ガラテヤ2:6-10) >(割礼を受けることは)おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした。 >それどころか、彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていることを知りました。割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた方は、異邦人に対する使徒としての任務のためにわたしにも働きかけられたのです。 >また、彼らはわたしに与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。 そしてパウロは、続く文章で、ペトロ(ケファ)が割礼を受けているユダヤ人を特別扱いした事実を、強い不満とともに述べている。(ガラテア2:11-14) >さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 >しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」

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