ペトロの説教

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聖霊降臨を受け、人々が「酒をに酔っているに違いない」などとさまざまな噂をしていたときに、ペトロが始めた演説である。ペトロは、聖霊降臨の様子を、ヨエルの預言のことだと説明した。 使徒2:14-21 >すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 > 『神は言われる。終わりの時に、 > わたしの霊をすべての人に注ぐ。 > すると、あなたたちの息子と娘は預言し、 > 若者は幻を見、老人は夢を見る。 > わたしの僕やはしためにも、 > そのときには、わたしの霊を注ぐ。 > すると、彼らは預言する。 > 上では、天に不思議な業を、 > 下では、地に徴を示そう。 > 血と火と立ちこめる煙が、それだ。 > 主の偉大な輝かしい日が来る前に、 > 太陽は暗くなり、 > 月は血のように赤くなる。 > 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 そしてペトロは、イエスを神に遣わされたメシア(キリスト)であると説明する。それを説明するために、ダビデの詩を引用している。 使徒2:22-36 >イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 >ダビデは、イエスについてこう言っています。 > 『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。 > 主がわたしの右におられるので、 > わたしは決して動揺しない。 > だから、わたしの心は楽しみ、 > 舌は喜びたたえる。 > 体も希望のうちに生きるであろう。 > あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、 > あなたの聖なる者を > 朽ち果てるままにしておかれない。 > あなたは、命に至る道をわたしに示し、 > 御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 >兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、 > 『彼は陰府に捨てておかれず、 > その体は朽ち果てることがない』 >と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 >ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。 > 『主は、わたしの主にお告げになった。 > 「わたしの右の座に着け。 > わたしがあなたの敵を > あなたの足台とするときまで。」』 >だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 **ヨエルの預言 ヨエル書の3章にある「神の霊の降臨」に関する預言である。 ヨエル書3:1-5 >その後 >わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。 >あなたたちの息子や娘は預言し >老人は夢を見、若者は幻を見る。 >その日、わたしは >奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。 >天と地に、しるしを示す。 >それは、血と火と煙の柱である。 >主の日、大いなる恐るべき日が来る前に >太陽は闇に、月は血に変わる。 >しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。 >主が言われたように >シオンの山、エルサレムには逃れ場があり >主が呼ばれる残りの者はそこにいる。 「その後」とは、終末の日、断食ときよめ、シオンへの恵みの後のことである。 **ダビデの預言 これは詩編にあるダビデの詩による。 詩編16編はダビデが主を称える詩だが、ペトロはこれを、ダビデが預言者としてイエスの視点から書いた詩だと説明している。 詩編16:8-11 >わたしは絶えず主に相対しています。 >主は右にいまし >わたしは揺らぐことがありません。 >わたしの心は喜び、魂は躍ります。 >からだは安心して憩います。 >あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく >あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず >命の道を教えてくださいます。 >わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い >右の御手から永遠の喜びをいただきます。 次の詩は、が主を信じる者の命について触れている。使徒言行録の本文では詳しく説明されていないが、ペトロは「わたし」と「あなたの慈しみに生きる者」がイエスを指していると考えている。 詩編16:8-11 >わたしは絶えず主に相対しています。 >主は右にいまし >わたしは揺らぐことがありません。 >わたしの心は喜び、魂は躍ります。 >からだは安心して憩います。 >あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく >あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず >命の道を教えてくださいます。 >わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い >右の御手から永遠の喜びをいただきます。 最後の詩はダビデが「主」と「わが主」について触れた詩である。ペトロは、「わが主」とはイエスを表していると考えている。 詩編110:1 >わが主に賜った主の御言葉。 >「わたしの右の座に就くがよい。 >わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」
聖霊降臨を受け、人々が「酒をに酔っているに違いない」などとさまざまな噂をしていたときに、ペトロが始めた演説である。ペトロは、聖霊降臨の様子を、ヨエルの預言のことだと説明した。 使徒2:14-21 >すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。 > 『神は言われる。終わりの時に、 > わたしの霊をすべての人に注ぐ。 > すると、あなたたちの息子と娘は預言し、 > 若者は幻を見、老人は夢を見る。 > わたしの僕やはしためにも、 > そのときには、わたしの霊を注ぐ。 > すると、彼らは預言する。 > 上では、天に不思議な業を、 > 下では、地に徴を示そう。 > 血と火と立ちこめる煙が、それだ。 > 主の偉大な輝かしい日が来る前に、 > 太陽は暗くなり、 > 月は血のように赤くなる。 > 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』 そしてペトロは、イエスを神に遣わされたメシア(キリスト)であると説明する。それを説明するために、ダビデの詩を引用している。 使徒2:22-36 >イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。 >ダビデは、イエスについてこう言っています。 > 『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。 > 主がわたしの右におられるので、 > わたしは決して動揺しない。 > だから、わたしの心は楽しみ、 > 舌は喜びたたえる。 > 体も希望のうちに生きるであろう。 > あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、 > あなたの聖なる者を > 朽ち果てるままにしておかれない。 > あなたは、命に至る道をわたしに示し、 > 御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 >兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、 > 『彼は陰府に捨てておかれず、 > その体は朽ち果てることがない』 >と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 >ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。 > 『主は、わたしの主にお告げになった。 > 「わたしの右の座に着け。 > わたしがあなたの敵を > あなたの足台とするときまで。」』 >だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 **ヨエルの預言 ヨエル書の3章にある「神の霊の降臨」に関する預言である。 ヨエル書3:1-5 >その後 >わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。 >あなたたちの息子や娘は預言し >老人は夢を見、若者は幻を見る。 >その日、わたしは >奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。 >天と地に、しるしを示す。 >それは、血と火と煙の柱である。 >主の日、大いなる恐るべき日が来る前に >太陽は闇に、月は血に変わる。 >しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。 >主が言われたように >シオンの山、エルサレムには逃れ場があり >主が呼ばれる残りの者はそこにいる。 「その後」とは、終末の日、断食ときよめ、シオンへの恵みの後のことである。 **ダビデの預言 これは詩編にあるダビデの詩による。 詩編16編はダビデが主を称える詩だが、ペトロはこれを、ダビデが預言者としてイエスの視点から書いた詩だと説明している。つまり、ペトロは「わたし」と「あなたの慈しみに生きる者」がイエスを指していると考えている。と考えている。また、『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』という部分も同じ個所を意味している。 詩編16:8-11 >わたしは絶えず主に相対しています。 >主は右にいまし >わたしは揺らぐことがありません。 >わたしの心は喜び、魂は躍ります。 >からだは安心して憩います。 >あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく >あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず >命の道を教えてくださいます。 >わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い >右の御手から永遠の喜びをいただきます。 最後の詩はダビデが「主」と「わが主」について触れた詩である。ペトロは、「わが主」とはイエスを表していると考えている。 詩編110:1 >わが主に賜った主の御言葉。 >「わたしの右の座に就くがよい。 >わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」

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