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**口伝律法の否定
イエスは、口伝律法に基づく戒律を守るファリサイ派を戒めた。
マルコ7:1-13
>ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
>そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
>イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
> 『この民は口先ではわたしを敬うが、
> その心はわたしから遠く離れている。
> 人間の戒めを教えとしておしえ、
> むなしくわたしをあがめている。』
>あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
>更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
マタイ15:1-9
>そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
>そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
>偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
> 『この民は口先ではわたしを敬うが、
> その心はわたしから遠く離れている。
> 人間の戒めを教えとして教え、
> むなしくわたしをあがめている。』」
**食物規定の放棄
そして、旧約における食物規定を放棄した。
マルコ7:14-23
>それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体にに入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。〔聞く耳のある者は聞きなさい。〕」
>イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
>更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
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マタイ福音書の記述では、盲人のたとえによってファリサイ派を表している。
マタイ15:10-20
>それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
>そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
>するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
>しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
パウロ書簡にも似た説教がある。
Ⅰコリント10:25-26
>市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。
以下では、食べ物それ自体は清いものであって、汚れたものはないが、しかし汚れたものだと考える人には汚れたものとなるので、意見が分かれた場合には押し付けてはならない、という内容に拡張されている。
ローマ14:14-23
>それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。
>ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。
>食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
またパウロ書簡でも、道徳的に正しくない事柄についての記載がある。
Ⅰコリント6:9-11
>正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。
ガテラヤ5:16-23
>わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
>肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
Ⅰテニサロケ4:3-6
>実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。
**モーセの律法
ここではモーセの十戒、契約の書、申命記法の、父母を敬う規定が引用されている。
モーセの十戒(出エジプト記20:12)
>あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
契約の書(出エジプト記21:17)
>自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。
申命記法(申命記5:16)
>あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。
**イザヤの預言「しいたげられるアリエル」
アリエルとは女性の名前であり、エルサレムを擬人化したものである。
イザヤ29章では、初めに外敵により攻撃されるエルサレムが預言される。イザヤの時代から近視的に見れば、これはアッシリアのことである。しかし最終的に、そのアッシリアが夢幻のごとく消え去ることもまた預言される。しかしながら、これらは、異教の神を祭ることで「祭りの数を増し」た民に対する、神の意志によるものである。
イザヤ29:1-8
>ああ、アリエルよ、アリエルよ
>ダビデが陣を張った都よ。
>年毎に、祭りの数を増し、巡り来らせよ。
>そのとき、わたしはアリエルを苦しめる。
>アリエルには嘆きと、ため息が臨み
>祭壇の炉(アリエル)のようになる。
>わたしはお前を囲んで陣を張り
>砦を築き、城壁を建てる。
>お前は倒されて地の下から語り
>お前の言葉は塵の下から鈍く響く。
>亡霊のようなお前の声は地の下から聞こえ
>お前の言葉は塵の下からかすかに響く。
>群がる外敵は砂塵のようになり
>群がる暴虐の者らは
>吹き去られるもみ殻のようになる。
>そのことは突然、瞬く間に起こる。
>万軍の主によってお前は顧みられる。
>雷鳴、地震、大音響と共に
>つむじ風、嵐、焼き尽くす炎のうちに。
>アリエルを群がって攻撃する国はすべて
>夢か夜の幻のようになる。
>彼女を攻撃し、取り囲み
>苦しめる者はすべて。
>「飢えた者が夢を見た。
>見よ、彼は食べていた。
>だが目覚めてみると、彼は空腹のままであった。
>渇いた者が夢を見た。
>見よ、彼は飲んでいた。
>だが、目覚めてみると、疲れ果てて渇いたままだ。」
>シオンの山に群がって戦いを挑んだ国は
>すべてこのようになる。
アッシリアの時は神はエルサレムを救ったが、新バビロニアの時はエルサレムを見捨てた。
この様な事態が起こった理由は、民が自ら目をふさいだためである。イスラエル人らは、形の上で神を崇敬していても、実際には神に従わなかったのである。その一例が、新約聖書の時代のファリサイ派の人々であり、神の教えを護っているようなふりをして、実際は何の根拠もない口伝律法に従っていただけなのである。
イザヤ書29:9-14
>ためらえ、立ちすくめ。
>目をふさげ、そして見えなくなれ。
>酔っているが、ぶどう酒のゆえではない。
>よろめいているが、濃い酒のゆえではない。
>主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ
>お前たちの目である預言者の目を閉ざし
>頭である先見者を覆われた。
>それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。字の読める人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、その人は「封じられているから読めない」と答える。字の読めない人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、「わたしは字が読めない」と答える。
>主は言われた。
>「この民は、口でわたしに近づき
>唇でわたしを敬うが
>心はわたしから遠く離れている。
>彼らがわたしを畏れ敬うとしても
>それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
>それゆえ、見よ、わたしは再び
>驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。
>賢者の知恵は滅び
>聡明な者の分別は隠される。」
そしてこの後には、神による救いが書かれる。
**口伝律法の否定
イエスは、口伝律法に基づく戒律を守るファリサイ派を戒めた。
マルコ7:1-13
>ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
>そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
>イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
> 『この民は口先ではわたしを敬うが、
> その心はわたしから遠く離れている。
> 人間の戒めを教えとしておしえ、
> むなしくわたしをあがめている。』
>あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
>更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
マタイ15:1-9
>そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」
>そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。
>偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。
> 『この民は口先ではわたしを敬うが、
> その心はわたしから遠く離れている。
> 人間の戒めを教えとして教え、
> むなしくわたしをあがめている。』」
**食物規定の放棄
そして、旧約における食物規定を放棄した。
マルコ7:14-23
>それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体にに入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。〔聞く耳のある者は聞きなさい。〕」
>イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
>更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
#image(https://img.atwikiimg.com/www65.atwiki.jp/trinity_kristo/attach/445/161/Teachings_of_Jesus_8_of_40.gif)
マタイ福音書の記述では、盲人のたとえによってファリサイ派を表している。
マタイ15:10-20
>それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」
>そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」
>するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
>しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」
パウロ書簡にも似た説教がある。
Ⅰコリント10:25-26
>市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。
以下では、食べ物それ自体は清いものであって、汚れたものはないが、しかし汚れたものだと考える人には汚れたものとなるので、意見が分かれた場合には押し付けてはならない、という内容に拡張されている。
ローマ14:14-23
>それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。
>ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。
>食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。
またパウロ書簡でも、道徳的に正しくない事柄についての記載がある。
Ⅰコリント6:9-11
>正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。
ガテラヤ5:16-23
>わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
>肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
Ⅰテニサロケ4:3-6
>実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。すなわち、みだらな行いを避け、おのおの汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学ばねばならず、神を知らない異邦人のように情欲におぼれてはならないのです。このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしてはいけません。わたしたちが以前にも告げ、また厳しく戒めておいたように、主はこれらすべてのことについて罰をお与えになるからです。
**モーセの律法
ここではモーセの十戒、契約の書、申命記法の、父母を敬う規定が引用されている。
モーセの十戒(出エジプト記20:12)
>あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
契約の書(出エジプト記21:17)
>自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。
申命記法(申命記5:16)
>あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。
**イザヤの預言「しいたげられるアリエル」
アリエルとは女性の名前であり、エルサレムを擬人化したものである。
イザヤ29章では、初めに外敵により攻撃されるエルサレムが預言される。イザヤの時代から近視的に見れば、これはアッシリアのことである。しかし最終的に、そのアッシリアが夢幻のごとく消え去ることもまた預言される。しかしながら、これらは、異教の神を祭ることで「祭りの数を増し」た民に対する、神の意志によるものである。
イザヤ29:1-8
>ああ、アリエルよ、アリエルよ
>ダビデが陣を張った都よ。
>年毎に、祭りの数を増し、巡り来らせよ。
>そのとき、わたしはアリエルを苦しめる。
>アリエルには嘆きと、ため息が臨み
>祭壇の炉(アリエル)のようになる。
>わたしはお前を囲んで陣を張り
>砦を築き、城壁を建てる。
>お前は倒されて地の下から語り
>お前の言葉は塵の下から鈍く響く。
>亡霊のようなお前の声は地の下から聞こえ
>お前の言葉は塵の下からかすかに響く。
>群がる外敵は砂塵のようになり
>群がる暴虐の者らは
>吹き去られるもみ殻のようになる。
>そのことは突然、瞬く間に起こる。
>万軍の主によってお前は顧みられる。
>雷鳴、地震、大音響と共に
>つむじ風、嵐、焼き尽くす炎のうちに。
>アリエルを群がって攻撃する国はすべて
>夢か夜の幻のようになる。
>彼女を攻撃し、取り囲み
>苦しめる者はすべて。
>「飢えた者が夢を見た。
>見よ、彼は食べていた。
>だが目覚めてみると、彼は空腹のままであった。
>渇いた者が夢を見た。
>見よ、彼は飲んでいた。
>だが、目覚めてみると、疲れ果てて渇いたままだ。」
>シオンの山に群がって戦いを挑んだ国は
>すべてこのようになる。
アッシリアの時は神はエルサレムを救ったが、新バビロニアの時はエルサレムを見捨てた。
この様な事態が起こった理由は、民が自ら目をふさいだためである。イスラエル人らは、形の上で神を崇敬していても、実際には神に従わなかったのである。その一例が、新約聖書の時代のファリサイ派の人々であり、神の教えを護っているようなふりをして、実際は何の根拠もない口伝律法に従っていただけなのである。
イザヤ書29:9-14
>ためらえ、立ちすくめ。
>目をふさげ、そして見えなくなれ。
>酔っているが、ぶどう酒のゆえではない。
>よろめいているが、濃い酒のゆえではない。
>主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ
>お前たちの目である預言者の目を閉ざし
>頭である先見者を覆われた。
>それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。字の読める人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、その人は「封じられているから読めない」と答える。字の読めない人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、「わたしは字が読めない」と答える。
>主は言われた。
>「この民は、口でわたしに近づき
>唇でわたしを敬うが
>心はわたしから遠く離れている。
>彼らがわたしを畏れ敬うとしても
>それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
>それゆえ、見よ、わたしは再び
>驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。
>賢者の知恵は滅び
>聡明な者の分別は隠される。」
そしてこの後には、神による救いが書かれる。