「聖書とクルアーンの関係」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
聖書 | クルアーン | |
アダムとエバ | 創2:4-4;1 | 2:30-39, 7:19-27, 20:115 |
カインとアベル | 創4:1-16 | 5:27-32 |
ノアの方舟 | 創6:5-9:29 | 11:25-48, 7:59-64, 10:71-73, 23:23-28, 26:105-121, 54:9-16, 71:1-28 |
アブラハムへの子の約束 | 創18:1-15 | 11:69-74, 15:51-56, 37:102-109, 51:24-30 |
アブラハムが捧げた子 | 創22:2-18 | 37:102-108 |
ロトとソドム・ゴモラ | 創19:1-26 | 15:57-77, 11:74-83, 7:80-84, 26:160-174, 27:54-58, 29:28-35, 37:133-138, 51:31-37, 54:36-39 |
ヨセフの物語 | 創37-45章 | 12:4-102 |
モーセの物語 | 出1-14章+32章 | 2:49-61, 7:103-160, 10:75-93, 17:101-104, 20:9-97, 26:10-66, 27:7-14, 28:3-46, 40:23-30, 43:46-55, 44:17-31, 79:15-25 |
コラの反逆 | 民16:1-50 | 28:76-82 |
聖書 | クルアーン | |
サウル・ダビデとゴリアテ | サム上8-12章+17章 | 2:246-248, 2:249-251 |
シェバの女王 | 王上10:1-13,代下9:1-13 | 27:20-44 |
ヨナの物語 | ヨナ書 | 37:139-148, 21:87-88, 68:48-50,10:98, 6:86 |
聖書 | クルアーン | |
ゼカリヤとヨハネ | ルカ1:5-80, 3:1-22 | 19:2-15 |
母マリア | 19:16-35 | |
イエス | 4福音書 | 3:35-59,4:156-158,5:109-120, 19:16-35, 23:50, 43:57-65, 61:6+14 |
「これ長老たち、このわし(=エジプト王ファラオ)のほかにはお前たちの神はないはず。さ、ハーマーン(=ハマン)、泥に火をつけてくれい。わしに高殿(=バベルの塔)を造ってくれい。ムーサー(=モーセ)の神のところまで昇って見せるわ。どう考えてもあれは嘘つきにきまっておる」
またイドリース(=エノク)のことを,この啓典の中で述べよ。かれは正直な人物であり預言者であった。そしてわれはかれを高い地位に挙げた。これらの者は,アッラーが恩恵を施された預言者たちで,アーダムの子孫で,われがヌーフ(=ノア)と一緒に(方舟で)運んだ者たちの子孫であり,またイブラーヒームとイスラーイール(=ヤアコーブ)の子孫の中,われが選んで導いた者たちである。
それでかれ(イブラーヒーム(=アブラハム))が,かれらとアッラー以外にかれらが仕えるものから離れ去った時,われはかれにイスハーク(=イサク)とヤアコーブ(=ヤコブ)を授けた。そしてわれはかれらをそれぞれ預言者にした。
汝(=モーセ)の去った後、我ら(=アッラー)が汝の民を試練にかけた。例のサマリア人がみなを邪道に迷いこませた。
タールート(=サウル)が軍勢をひきつれて出で立つ時、彼は言った。『いいか、アッラーはお前たちを川でもっておためしになるぞ。その水を飲む者はわしの兵ではない。その水を味わおうとしない者はわしの兵だ。ただし掌で一掬いだけ汲む者は別だが』と。
エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった。主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。
主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ。
主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」
いよいよ我ら(=アッラー自称)が彼(=ソロモン)に死の断を下した時も、さすがの彼ら(=精霊たち。ちょうどその時有名なソロモンの神殿の建設中で精霊たちはみな苦役に服していた)も全然その死に気がつかなかった。ただ一匹の土蛆がいて、それが彼の杖(=ソロモンの死体はその杖に寄りかかってあたかも生あるものの如くであった)を喰っていただけのこと。彼がばたりと倒れた時(=一年かかって蛆が杖を喰いつくし、ソロモンの死体は倒れた、がその時、神殿は完成していた)、精霊どもやっと気がついて、ああ、目に見えぬ世界の事情がわかっていたら、なにも屈辱的な苦役をいつまでも続けるのではなかったに、という次第。
神はソロモンに次のように言った。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう」
それからマルヤムは、新生児を胸に抱き、彼を自分の民の許に連れて行った。彼らは言った。『マルヤムよ、あなたは本当になんという大変なことをしたのか。ハールーンの姉妹よ、あなたの父は悪い人間ではなかったし、あなたの母もまた、不貞な女性ではなかったのに』
神の子イエス・キリストの福音の初め。
汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
マルコ15:39
百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
アッラーに子供が出来るなどということはありえない。かれに讃えあれ。かれが一事を決定され,唯「有れ。」と仰せになれば,即ち有るのである。
啓典の民よ,宗教のことに就いて法を越えてはならない。またアッラーに就いて真実以外を語ってはならない。マルヤムの子マスィーフ(メシア/キリスト)・イーサーは,只アッラーの使徒である。マルヤムに授けられたかれの御言葉であり、かれからの霊である。だからアッラーとその使徒たちを信じなさい。「三(位)」などと言ってはならない。やめなさい。それがあなたがたのためになる。誠にアッラーは唯一の神であられる。かれに讃えあれ。かれに、何で子があろう。
「アッラーは三(位)の一つである。」と言う者は,本当に不信心者である。唯一の神の外に神はないのである。もしかれらがその言葉を止めないならば、かれら不信心者には必ず懲罰が下るであろう。
またアッラーがこのように仰せられた時を思え。「マルヤムの子イーサーよ、あなたは『アッラーの外に、わたしとわたしの母とを2柱の神とせよ。』と人びとに告げたか。」彼は申し上げた。「あなたに讃えあれ。わたしに権能のないことを、わたしは言うべきではありません。もしわたしがそれを言ったならば、必ずあなたは知っておられます。あなたは,わたしの心の中を知っておられます。
かれ(ズ・ル・カルナイン=イスカンダル)が太陽の沈む(国)に来ると,それが泥の泉に没するのを認め,その近くに一種族を見付けた。
教会とイスラム教徒との関係 "救済計画には創造主を受け入れた人々も含まれており、ムスリムはその筆頭である。彼らはアブラハムへの信仰を明言しており、我々と同じく、あがめるのは慈悲深いただ一人の神、最後の審判の日に人類を裁く方である。
重要な規約の筆頭は次である。我が神にして主イエス・キリストは、我々の罪のために死に、我々を導くために復活した(ロマ書 3:24-25)。彼ひとりが世の罪を取り除く神の子羊であり(ヨハネ記 1:29)、神は我々すべての罪を彼ひとりに置いた(イザヤ書 53:6)。罪を犯したすべての人々は、自身の仕事がや功徳がなくとも惜しげもなく許される。それは、キリストたるイエスの、血のあがないによるのである(ロマ書 3:23-25)。信じなくてはならない。さもなければこれは、いかなる仕事、法、功徳によっても習得することはできない。すなわち信仰のみが我々を義とするのであり・・・たとえ天と地のすべてが崩れ落ちようとも、決してこの規約を譲ることはできない(マルコ伝 13:31)。
見よ! (汝ムハンマドに示されるように)信じる人々、ユダヤ教徒、キリスト教徒、サービア教徒でアッラーフと最後の審判とを信じて善行にいそしむ者は、主の御許で必ず報われるだろう。彼らは恐れたり悲嘆にくれたりすることもないだろう。"
また汝は、その愛で信仰する者に最も近しいのは「見よ!我々はキリスト教徒である」と言う人々であると知るだろう。それは彼らの中に司祭と修道士がいて、彼らは尊大ではないからである。彼らが使徒に示されたものに耳を傾けるとき、汝は彼らの目に溢れる涙を見るだろう。それは彼らが真理を認めたからである。彼らは言う、「主よ、我々は信じます。証人の間に我々を記してください。アッラーフと我々に示された真理とを、どうして信じずにいられましょうか? 廉直な人々とともにおいてくださいと、どうして望まずにいられましょうか? アッラーフは彼らの言葉に報いられた。下に川の流れる庭、そこに彼らを永遠に住まわせた。これが善き人への報いである。
アブー・フライラによると、アッラーのみ使い(ムハンマド)はこういわれた。
「ムハンマドの生命がその御手に委ねられた御方に誓って。ユダヤ教やキリスト教の社会の者は誰も私の言葉を聞こうとしない。私に啓示された教えを信ずることもなく死を迎える者は地獄の住民となるのみである」