金の子牛

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金の子牛 - (2018/01/03 (水) 16:13:45) の編集履歴(バックアップ)


金の子牛が創られた背景

『出エジプト記』によると、モーセがシナイ山において神から十戒の石版を授与されるまでには40日の期間を要したとされているのだが、麓に残されたイスラエルの民は時間の経過と共に忍耐力を失い、ついには、モーセは死んだと思うようになった。ハザルは同書の注釈において、このときサタンが現れ、雲の上に立つモーセの幻影をイスラエルの民に見せたとしている。不安になった民はアロンのもとに相談に出向き、苦肉の策として民族を導いてくれる新しい神の制作を懇願する。アロンはそれに応じ、全民衆から貴金属の提出を命じる。こうして鋳造の金の子牛が完成したのである。

これを知った神は、一刻も早く下山するようモーセに命じる。モーセが下山して宿営地に戻ったところ、民衆は宴に興じながら金の子牛を拝んでいた。怒りに満ちたモーセは十戒の石版を破壊するやいなや、金の子牛を燃やし、それを粉々に粉砕して水に混ぜ、イスラエルの民衆に飲ませた。そして彼はレビ族の者を集め、偶像崇拝に加担した民衆の殺害を命じる。同書では、そのとき死んだ民衆の数を3千人であったと述べている。

その後、幕屋の位置は宿営の外に置かれ、「会見の幕屋」と呼ばれることになった。また、この事件がきっかけで、神はイスラエルの民衆を滅ぼしてしまわないように、共に上っていくことをやめた。

金の子牛は主と同じもの

旧約聖書・民数記に神を牛の角に例える部分があること等から、この金の子牛はユダヤ・キリスト教の唯一神である主(YHWH)の原型だったと考えられている。即ち、金の子牛崇拝は異教の神を崇めるのではなく、偶像の姿で表された主(YHWH)を崇めることだったのである。しかし、神にとってはそれさえも赦されぬ偶像崇拝だったということである。

一般的な解説では、金の子牛が作られた理由にモーセの帰還が遅れたことを挙げるのだが、これは裏返せば、イスラエルの民衆がかねてより認識可能な民族の象徴、すなわち実体のある神を望んでいたことを意味している。エジプトで生まれ育ち、エジプトでの宗教を体験した彼らにとっての神という観念は、モーセが示した実体のない神という新しい観念とは隔絶の間があったに違いない。一説によれば、『出エジプト記』の幕屋建設に関する指示は、金の子牛の事件の反省から、より実体性のある信仰を民衆に与えざるを得なくなったからだとしている。

北王国の王ヤロブアムの「金の子牛」との関連

高等批評では、この部分がJ資料なのかE資料なのかは疑問が残っている。しかし、ソロモンの王国が分裂した前922年の後に、北王国の王ヤロブアムが民に作らせた金の子牛の出来事が重ねられていると見られている。このことから、「金の子牛」事件に関しては北王国イスラエル由来のE資料ではないかとの説がある。

列王記上12:25-33
(北王国の王)ヤロブアムはエフライム山地のシケムを築き直し、そこに住んだ。更に、そこを出てペヌエルを築き直した。ヤロブアムは心に思った。「今、王国は、再び(南王国の)ダビデの家のものになりそうだ。この民がいけにえをささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの王レハブアムに向かい、彼らはわたしを殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰ってしまうだろう。」
彼はよく考えたうえで、金の子牛を二体造り、人々に言った。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である。」彼は一体をベテルに、もう一体をダンに置いた。
この事は罪の源となった。民はその一体の子牛を礼拝するためダンまで行った。彼はまた聖なる高台に神殿を設け、レビ人でない民の中から一部の者を祭司に任じた。
ヤロブアムはユダにある祭りに倣って第八の月の十五日に祭りを執り行い、自ら祭壇に上った。ベテルでこのように行って、彼は自分の造った子牛にいけにえをささげ、自分の造った聖なる高台のための祭司をベテルに立てた。彼は勝手に定めたこの月、第八の月の十五日に、自らベテルに造った祭壇に上った。彼はイスラエルの人々のために祭りを定め、自ら祭壇に上って香をたいた。

しかしながら、実際はJ資料や古い口頭伝承をも組み込んだもので、系統的な分類は難しいと考えられている。