聖書とクルアーンの関係

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聖書とクルアーンの関係 - (2017/07/16 (日) 13:45:11) のソース

聖書と[[クルアーン]]には矛盾する点がいくつもある。
こうした食い違いについて、ユダヤ教やキリスト教では、イスラム教のクルアーンが誤りであると主張し、イスラム教では、ユダヤ教やキリスト教の聖書が誤りであると主張する。したがって両者が対立してしまうのである。


*キリスト教とイスラム教の認識の違い
キリスト教に関するムスリムの知識には限界があり、しばしばキリスト教徒(とユダヤ教徒)を啓典の民ズィンミーもしくは異端だと思っている。 キリスト教徒から見ればイスラム教は異端からカルトまで多様で、同じ神を崇拝する宗教仲間とは思えないほどである。 キリスト教とイスラム教はどちらも、イエス=イーサーは神から遣わされたと考えている。 しかし&bold(){キリスト教徒が通常イエスを神の子と考えるのに対し、ムスリムは三位一体を神の唯一性を分割したもので重大な罪(シルク)だと考えている。}また、イエスの死に対する考え方も全く異なる。&bold(){キリスト教徒はイエスの十字架の上での死を、原罪を背負った人類への神の救済と捉えるが、ムスリムはこの教義を否定し、イエスは処刑されずに身代わりが殺されたと考える。}しかしどちらの宗教も、自分たちの宗教は一神教だと受け止めている。
キリスト教とイスラム教は異なる聖典を持ち、イスラムはクルアーン(コーラン)を、キリスト教は聖書を使用している。 どちらの聖典も、イエスの人生と努力を記録したものである。 インジール(イスラームにおけるイーサーの記述)の信仰はイスラム神学において重要な位置を占めている。 ムスリムから見ればキリスト教の福音書は、改造されたものに思える。 キリスト教徒にすれば福音書は信頼に足るものであり、クルアーンは後発であり、捏造された外典に思える。 どちらの宗教もイエスの処女懐胎を信じるが、クルアーンと聖書とでは記述が異なる。

*比較
**トーラー(モーセ五書)の内容
||聖書|クルアーン|
|アダムとエバ|創2:4-4;1|2:30-39, 7:19-27, 20:115|
|カインとアベル|創4:1-16|5:27-32|
|ノアの方舟|創6:5-9:29|11:25-48, 7:59-64, 10:71-73, 23:23-28, 26:105-121, 54:9-16, 71:1-28|
|アブラハムへの子の約束|創18:1-15|11:69-74, 15:51-56, 37:102-109, 51:24-30|
|アブラハムが捧げた子|創22:2-18|37:102-108|
|ロトとソドム・ゴモラ|創19:1-26|15:57-77, 11:74-83, 7:80-84, 26:160-174, 27:54-58, 29:28-35, 37:133-138, 51:31-37, 54:36-39|
|ヨセフの物語|創37-45章|12:4-102|
|モーセの物語|出1-14章+32章|2:49-61, 7:103-160, 10:75-93, 17:101-104, 20:9-97, 26:10-66, 27:7-14, 28:3-46, 40:23-30, 43:46-55, 44:17-31, 79:15-25|
|コラの反逆|民16:1-50|28:76-82|

**歴史書の内容
||聖書|クルアーン|
|サウル・ダビデとゴリアテ|サム上8-12章+17章|2:246-248, 2:249-251|
|シェバの女王|王上10:1-13,代下9:1-13|27:20-44|
|ヨナの物語|ヨナ書|37:139-148, 21:87-88, 68:48-50,10:98, 6:86|

**新約聖書の内容
||聖書|クルアーン|
|ゼカリヤとヨハネ|ルカ1:5-80, 3:1-22|19:2-15|
|母マリア||19:16-35|
|イエス|4福音書|3:35-59,4:156-158,5:109-120, 19:16-35, 23:50, 43:57-65, 61:6+14|
https://en.wikipedia.org/wiki/Biblical_and_Quranic_narratives#Gideon

*矛盾点
**異なる時代の人物が混同されている
クルアーン19:27-28
>それからマルヤムは、新生児を胸に抱き、彼を自分の民の許に連れて行った。彼らは言った。『マルヤムよ、あなたは本当になんという大変なことをしたのか。ハールーンの姉妹よ、あなたの父は悪い人間ではなかったし、あなたの母もまた、不貞な女性ではなかったのに』
マルヤム(マリア)がハールーン(アロン)の姉とされているが、これは旧約聖書に記述のあるアロンの姉ミリアムと新約聖書のマリアが混同されたものだと考えられている。

また、クルアーンによるとイエスの母マリアの母(アンナ)は「イムラーン(アムラム)」の妻(3:35)とされているが、新約聖書によればマリアの父はヨアキムである。一方で、民数記26:59によれば、アロン、モーセ、マリアムの母は「アムラムの妻」とされていることから、やはりムハンマドがアロンの姉妹マリアムとイエスの母マリアを混同した疑いは非常に高いと言わざるを得ません。

**3つの時代と場所が混ざり合う
クルアーン28:38
>「これ長老たち、このわし(=エジプト王ファラオ)のほかにはお前たちの神はないはず。さ、ハーマーン(=ハマン)、泥に火をつけてくれい。わしに高殿(=バベルの塔)を造ってくれい。ムーサー(=モーセ)の神のところまで昇って見せるわ。どう考えてもあれは嘘つきにきまっておる」
ここでは「バベルの塔」「モーセ」「ハマン」が同じ場面でコーランの中では登場する。しかし旧約聖書では、それぞれの時代と場所は大きく異なる。「バベルの塔」は紀元前2100年頃のメソポタミアのことで、旧約聖書の「創世記」に出てくる。「モーセ」(英語表記ではモーゼスと言う)は紀元前1240年頃にエジプトで生まれた。彼がイスラエルの民を約束の地カナン(現在のパレスチナ)に連れて行くことが旧約聖書の「出エジプト記」に書かれている。そして「ハマン」はペルシアの王に仕えていた、紀元前485 - 465年頃の人物である。旧約聖書の「エステル記」は、ハマンによるユダヤ人滅亡計画から民族を救った人物、すなわちペルシア王妃であったエステルと、彼女の養父であったモルデカイの話である。
ユダヤ人にとって、「モーセ」と「ハマン」の時代を混ぜこぜにすることはありえない。モーセの出エジプトを記念した宗教行事が、ユダヤ最大の祭りである「過越しの祭り」である。またハマンの圧政から救われたことを記念する祭りが「プリム」である。いずれも現在も続く重要な祭りである。

**ファラオの高い塔
コーランでは、エジプトのファラオがモーセの訪問を受けた際に、神のところまで登ってモーセの主張を確かめようと「レンガを焼いて高い塔を作れ」と臣下に命じたとされている。(28:38)しかしそのような建築方法で作られた塔の遺跡はエジプトでは発見されておらず、これに類似していると思われるピラミッドも、材料は巨石で作られているもので、コーランの記述とは一致しない。

**存在しないはずのサマリア人が登場する
クルアーン20:87(85)
>汝(=モーセ)の去った後、我ら(=アッラー)が汝の民を試練にかけた。例のサマリア人がみなを邪道に迷いこませた。
コーランでは、モーセの死の直後(歴史的には紀元前1120年頃)すでに「サマリア人」の名称が登場している。コーランによれば、モーセの民を不信仰に陥らせ、偶像崇拝の罪を犯させた犯人が「サマリア人」である。だがこれは、年代的に矛盾している。なぜなら、紀元前721年に北イスラエルがアッシリアに滅ぼされたあと、アッシリアからの移民と現地のユダヤ人との間に生まれた人々が「サマリア人」と呼ばれるようになったからである。

**サウルとギデオンが入れ替わる
クルアーン2:250(249)
>タールート(=サウル)が軍勢をひきつれて出で立つ時、彼は言った。『いいか、アッラーはお前たちを川でもっておためしになるぞ。その水を飲む者はわしの兵ではない。その水を味わおうとしない者はわしの兵だ。ただし掌で一掬いだけ汲む者は別だが』と。
「ギデオンの戦士」の話が、コーランでは「サウル王の兵士」として語られている。「ギデオン」とは、古代イスラエル王国ができる前の士師と呼ばれる英雄で、士師記に書かれている。(※ホテルや旅館、病院に聖書を置く活動をしている「ギデオン協会」の名前は、これに由来する。)また「サウル王」とは紀元前10世紀の人物であり、古代イスラエル王国の初代の王である。このように、旧約聖書士師記におけるギデオンの事績がタールート(サウル)のしたことだとされている。

**ソロモン王の死期が異なる
クルアーン34:13(14)、ハディースにも引用あり。
>いよいよ我ら(=アッラー自称)が彼(=ソロモン)に死の断を下した時も、さすがの彼ら(=精霊たち。ちょうどその時有名なソロモンの神殿の建設中で精霊たちはみな苦役に服していた)も全然その死に気がつかなかった。ただ一匹の土蛆がいて、それが彼の杖(=ソロモンの死体はその杖に寄りかかってあたかも生あるものの如くであった)を喰っていただけのこと。彼がばたりと倒れた時(=一年かかって蛆が杖を喰いつくし、ソロモンの死体は倒れた、がその時、神殿は完成していた)、精霊どもやっと気がついて、ああ、目に見えぬ世界の事情がわかっていたら、なにも屈辱的な苦役をいつまでも続けるのではなかったに、という次第。

死の時期によって全く異なる歴史が展開する人物として、ユダヤの歴史の中ではソロモン王がその代表である。若い頃のソロモンは、熱心なヤーヴェ信仰の信者であり、旧約聖書においても「箴言」「伝道者の書」「雅歌」などがソロモンの手によるとされている。しかし晩年の彼はヤーヴェ崇拝のみならず、他の宗教をも認める宗教的寛容政策を採った。

旧約聖書に述べられたユダヤ教側の主張によれば、神(ヤーヴェ)はその罰として、古代イスラエル王国を南北に分断したとする。旧約聖書の説明するところによれば、主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現れ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。

列王記上11:9-13
>神はソロモンに次のように言った。「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう」

対して、コーランの記述を正当とした場合、神殿建設のさなか、つまりソロモンが非常にヤーヴェへの信仰に熱心だった時期に彼が死んだならば、イスラエルの南北分裂はなぜおきたのかに関して、ユダヤ教・キリスト教において展開された神学的説明とは相容れない。

**アレクサンダー大王と鉄の防壁
コーランには、ズ・ル・カルナインという支配者が登場(18:94-98)しますが、これは「2つの角を持つもの」という意味で、アレクサンダー大王のことと理解されています。コーラン18:98-99では、この王が「ゴグとマゴグ」から民を守るため鉄と銅を用いて防壁を建造したという話が出てきますが、その壁は終末の日に粉々にされる、とあります。(イスラム教でもキリスト教と同じような「終末の日」の到来が信じられています。)もしこの記述が真実なら、アレクサンダー大王の時代から今日までの間崩壊することなく保存されている鉄と銅でできた巨大な壁が世界のどこかになければなりませんが、そのような建造物はありません。

**三位一体論の誤解
キリスト教徒である堀尾幸司は自著の中で、イエスの神性を批判した章句の一つが「神とイエスとマリア」の三位一体を批判しているように読めると主張し、ムハンマドが聖書やキリスト教に無知なまま非難を行っていたとする見解を持つ。

**「十字架刑」の問題
コーランは、イエスは十字架にかからなかったし処刑もされなかったとしており、イエスが殺されたというのは「彼らにそう見えた」のであって、実際は「(イエスはアッラーの)御傍に召された」としている(4:157-158)しかし、福音書記者だけではなく、紀元1-2世紀の人物であり非キリスト教徒であるヨセフスやタキトゥスもまたイエスが処刑されたことを証言しており、紀元2世紀時点ではすでにイエスの処刑は公然の事実となっていた。そのことから、はるか後世の6世紀に生まれたムハンマドが上記全ての証言を覆すことは不可能である。

*救済の対象
ローマ・カトリック教会が公布した公式な教理文書『カトリック教会のカテキズム』は、ムスリムについて次のように記述している。
>教会とイスラム教徒との関係 "救済計画には創造主を受け入れた人々も含まれており、ムスリムはその筆頭である。彼らはアブラハムへの信仰を明言しており、我々と同じく、あがめるのは慈悲深いただ一人の神、最後の審判の日に人類を裁く方である。

大部分のプロテスタント神学では、イエスを救世主として信仰することを救済の必須条件として強調している。万人救済主義派の流れで考えればムスリムが救済を受ける可能性もあるが、プロテスタントのほとんどの派は「信仰のみ」のソラに基づいている。
マルティン・ルターは次のように書いている。
>重要な規約の筆頭は次である。我が神にして主イエス・キリストは、我々の罪のために死に、我々を導くために復活した(ロマ書 3:24-25)。彼ひとりが世の罪を取り除く神の子羊であり(ヨハネ記 1:29)、神は我々すべての罪を彼ひとりに置いた(イザヤ書 53:6)。罪を犯したすべての人々は、自身の仕事がや功徳がなくとも惜しげもなく許される。それは、キリストたるイエスの、血のあがないによるのである(ロマ書 3:23-25)。信じなくてはならない。さもなければこれは、いかなる仕事、法、功徳によっても習得することはできない。すなわち信仰のみが我々を義とするのであり・・・たとえ天と地のすべてが崩れ落ちようとも、決してこの規約を譲ることはできない(マルコ伝 13:31)。

クルアーンでは、すべての人々の救済をはっきりと約束している。その中には、ムハンマドの出現以前からそこにいた独善的キリスト教徒も含まれる。

クルアーン、スーラ2 (アル・バカラ), アーヤ62
>見よ! (汝ムハンマドに示されるように)信じる人々、ユダヤ教徒、キリスト教徒、サービア教徒でアッラーフと最後の審判とを信じて善行にいそしむ者は、主の御許で必ず報われるだろう。彼らは恐れたり悲嘆にくれたりすることもないだろう。"

クルアーンはまた、キリスト教徒の愛の在り方がクルアーンに従う人々と最も近いことを明らかにし、キリスト教徒が控えめで賢明であることを称賛している。

クルアーン、スーラ5 (アル・マーイダ), アーヤ82–85
>また汝は、その愛で信仰する者に最も近しいのは「見よ!我々はキリスト教徒である」と言う人々であると知るだろう。それは彼らの中に司祭と修道士がいて、彼らは尊大ではないからである。彼らが使徒に示されたものに耳を傾けるとき、汝は彼らの目に溢れる涙を見るだろう。それは彼らが真理を認めたからである。彼らは言う、「主よ、我々は信じます。証人の間に我々を記してください。アッラーフと我々に示された真理とを、どうして信じずにいられましょうか? 廉直な人々とともにおいてくださいと、どうして望まずにいられましょうか? アッラーフは彼らの言葉に報いられた。下に川の流れる庭、そこに彼らを永遠に住まわせた。これが善き人への報いである。

しかし、スンナ派のムスリムがクルアーン同様に重んじているハディースによれば、キリスト教徒やユダヤ教徒は地獄に堕ちるともされている。

サヒーフ・ムスリム, 預言者ムハンマドへの啓示に対する信仰について
>アブー・フライラによると、アッラーのみ使い(ムハンマド)はこういわれた。
>「ムハンマドの生命がその御手に委ねられた御方に誓って。ユダヤ教やキリスト教の社会の者は誰も私の言葉を聞こうとしない。私に啓示された教えを信ずることもなく死を迎える者は地獄の住民となるのみである」


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[[クルアーン>>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%B3]]
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http://blogs.yahoo.co.jp/tfjblog/56785509.html
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/022islam.htm

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[[イスラム教からの典型的なキリスト教批判>>https://blogs.yahoo.co.jp/tfjblog/56785509.html]]