パウロが間違っていて、聖書ですらない外典は誰かの研究によれば信憑性があるから信じるのは危険です。 聖書は神の霊感によると、聖書にあります。 聖書の一部であるパウロの書き記したものが神の霊感によると信じないなら、どうしてイエスキリストを信じられますか? 一部を否定する事で聖書が霊感による事を否定するなら、いったいどの箇所であれば間違いなく信じられる、とするのでしょうか。 我々には聖書を間違って解釈しないために、神の助けが必要だと、私は思います。 新約聖書に記されているようにクリスチャンにはしばしば賜物があります。求めろ、ともあるように、求めれば与えられることもあるでしょう。 それによって預言や知識の言葉を語ります。 霊的な教会では日本でも海外でもこんにちですら、それを見ることができます。当時の使徒の時代に、そうするクリスチャンが多くいたようにです。 ヨハネの第一の手紙の四章に教えてあるように、異端もあるので、霊だからといって何でも信じてはいけませんが、たしかに霊的な神からの助けはこんにちも我々のために与えられているものであり、それを我々は受けて神の望む解釈をすべきだと、思います。
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パウロが間違っていて、聖書ですらない外典は誰かの研究によれば信憑性があるから信じるのは危険です。
聖書は神の霊感によると、聖書にあります。
聖書の一部であるパウロの書き記したものが神の霊感によると信じないなら、どうしてイエスキリストを信じられますか?
一部を否定する事で聖書が霊感による事を否定するなら、いったいどの箇所であれば間違いなく信じられる、とするのでしょうか。
我々には聖書を間違って解釈しないために、神の助けが必要だと、私は思います。
新約聖書に記されているようにクリスチャンにはしばしば賜物があります。求めろ、ともあるように、求めれば与えられることもあるでしょう。
それによって預言や知識の言葉を語ります。
霊的な教会では日本でも海外でもこんにちですら、それを見ることができます。当時の使徒の時代に、そうするクリスチャンが多くいたようにです。
ヨハネの第一の手紙の四章に教えてあるように、異端もあるので、霊だからといって何でも信じてはいけませんが、たしかに霊的な神からの助けはこんにちも我々のために与えられているものであり、それを我々は受けて神の望む解釈をすべきだと、思います。