ヨハネ福音書への高等批評

「ヨハネ福音書への高等批評」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

ヨハネ福音書への高等批評 - (2018/01/04 (木) 20:03:52) の1つ前との変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

ヨハネ福音書は、共観福音書と食い違う記述が目立つ一方で、類似の記事も少なくはない。このことから、ヨハネ福音書の作者は、すでに存在していた福音書を知っていたと考えるのが妥当である。(そして、おそらくそれはマルコ福音書とルカ福音書である。) **ヨハネ福音書は複数の編集者による作である ヨハネ福音書は、共観福音書と異なり、複数の編集の手が入っている。 -「イエスの愛しておられた弟子」の死について言及された21章は明らかに後から付加されたものである。20章30-31に結びの言葉があるためである。 -15-17章は後の挿入である。14章の末尾で「ここから出て行こう」と言ったにもかかわらず、15-17章にイエスが延々と告別演説を行い、18章になってやっと出ていくためである。 この複数の編集人の存在という事実だけでも、「ヨハネ福音書の作者は使徒ヨハネである」という説明は誤りだとわかるのである。ただし、&bold(){使徒ヨハネの関与を否定するものではない}ことに注意したい。この事実は、&bold(){ヨハネ福音書を1個人の作品と言うよりヨハネ共同体全体から産まれた作品と見て、最初の著者が遺したものにさらに手が加えられたと見る「増補改訂仮説」}を裏付けるものである。そこに使徒ヨハネが関与した可能性を否定するものではない。 なお、本福音書とヨハネ書簡は思想的に強い関連が見られ、同一の団体による作だと考えられている。([[公同書簡への高等批評]]を参照) ***結びの問題 本来の結びは20章であったと考えられる。(ヨハネ20:30-31) >このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 現在の結びはこの後に付け加えられた21章のものである。(ヨハネ21:25) >イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。 ***挿入の問題 本来は、14章と18章がつながる関係にある。 ヨハネ14:31 >(イエスは言った)「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」 ヨハネ18:1 >こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。 ところが、15章ではなぜかイエスがたとえ話を始める。(ヨハネ15:1) >「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」 そしてイエスは延々と告別演説を17章の終わりまで続けるのである。(ヨハネ17:26) >(イエスは言った)「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」 これらは後からの挿入と考えられている。
ヨハネ福音書は、共観福音書と食い違う記述が目立つ一方で、類似の記事も少なくはない。このことから、ヨハネ福音書の作者は、すでに存在していた福音書を知っていたと考えるのが妥当である。(そして、おそらくそれはマルコ福音書とルカ福音書である。) *ヨハネ福音書は複数の編集者による作である ヨハネ福音書は、共観福音書と異なり、複数の編集の手が入っている。 -「イエスの愛しておられた弟子」の死について言及された21章は明らかに後から付加されたものである。20章30-31に結びの言葉があるためである。 -15-17章は後の挿入である。14章の末尾で「ここから出て行こう」と言ったにもかかわらず、15-17章にイエスが延々と告別演説を行い、18章になってやっと出ていくためである。 この複数の編集人の存在という事実だけでも、「ヨハネ福音書の作者は使徒ヨハネである」という説明は誤りだとわかるのである。ただし、&bold(){使徒ヨハネの関与を否定するものではない}ことに注意したい。この事実は、&bold(){ヨハネ福音書を1個人の作品と言うよりヨハネ共同体全体から産まれた作品と見て、最初の著者が遺したものにさらに手が加えられたと見る「増補改訂仮説」}を裏付けるものである。そこに使徒ヨハネが関与した可能性を否定するものではない。 なお、本福音書とヨハネ書簡は思想的に強い関連が見られ、同一の団体による作だと考えられている。([[公同書簡への高等批評]]を参照) **結びの問題 本来の結びは20章であったと考えられる。(ヨハネ20:30-31) >このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 現在の結びはこの後に付け加えられた21章のものである。(ヨハネ21:25) >イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。 **挿入の問題 本来は、14章と18章がつながる関係にある。 ヨハネ14:31 >(イエスは言った)「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」 ヨハネ18:1 >こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。 ところが、15章ではなぜかイエスがたとえ話を始める。(ヨハネ15:1) >「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」 そしてイエスは延々と告別演説を17章の終わりまで続けるのである。(ヨハネ17:26) >(イエスは言った)「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」 これらは後からの挿入と考えられている。 *原資料 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8%E3%81%AE%E8%B3%87%E6%96%99

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: