コリントの信徒への手紙二

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コリントの信徒への手紙二 - (2016/10/01 (土) 10:08:08) の編集履歴(バックアップ)


パウロ書簡の一書。真筆性は極めて高いとされる。

『コリントの信徒への手紙一』を記した後、パウロは小アジアの都市エフェソスを離れてマケドニア州へ向かうことにした。エフェソスでの宣教活動は成功を収め、それがためにパウロは反対者の活動によってエフェソスにいることが難しくもなっていたのである。エフェソスから陸路トロアスへ到着したパウロはそこから海路、マケドニア州へ入るつもりであった。しかし第一の書簡を運んでコリントへ行っていたテトスとトロアスで合流しようというもくろみはうまく行かなかったので不安にかられた。しかしマケドニアのフィリピでテトスと再会することが出来、二人は喜び合った。パウロはテトスからコリントの共同体の状況について聞くことができた。その時に書いたものと思われる。(なお、使徒言行録にはテトスは出てこない。ルカはテトスを知らなかった可能性がある。)コリントの共同体がこのあと、どうなったのかはわからないが、『使徒言行録』20:2によればパウロはこのあと、コリントを訪れて三ヶ月訪問し、同地で『ローマの信徒への手紙』を執筆している。(使徒20:1-3)

使徒20:1-3
この騒動(銀細工師デメトリオがパウロが彼らの職を妨害していると訴えたことによる騒動)が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した。そして、この地方を巡り歩き、言葉を尽くして人々を励ましながら、ギリシアに来て、そこで三か月を過ごした。

研究者たちはこの書簡がフィリピかテサロニケで紀元58年の初頭にかかれたものと考えている。この手紙をコリントへ届けたのはおそらくテトスであったろう。第一の手紙との違いは、この手紙はコリントの共同体のメンバーのみならず、アカイア州の全域の共同体に宛てられた書簡であるということである。

11章にはパウロの人生における困難の数々がリストアップされ、第12章では「第三天まであげられた」という神秘体験について、自分に与えられた「とげ」について述べられている。この書簡では他のどれよりもパウロが自分自身について多く語っている。

著者

冒頭にパウロであると明記されている。(コリント二1:1)
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。
高等批評でも真筆性は高いとされている。

構成

  • パウロの内面的困難、コリントの信徒たちへの思い(1-7章)
  • 慈善活動のすすめ、特にエルサレムの共同体支援の願い(8-9章)
  • パウロに対する批判への反論、コリントの信徒への配慮、結びのあいさつ。(10-13章)

なお、この書簡には、パウロの文体の雰囲気が突然変わったり、話のつながりの悪いところが散見される。そのために、この書簡は複数の書簡を編集したものではないかという仮説が立てられ、現在ではボルンカムらによる5つの書簡の複合体であるとする説が多くの研究者によって支持されている。それによると、以下のように分割される。

  • 書簡A:第2章14節〜第7章4節
  • 書簡B:第10章1節〜第13章13節
  • 書簡C:第1章1節〜第2章13節と第7章5節〜16節
  • 書簡D:第8章
  • 書簡E:第9章