使徒シモン・ペトロ

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ペトロ(生年不明 - 67年?)は、新約聖書に登場する人物で、イエス・キリストに従った使徒の一人。 本名はシモン(ヘブライ語読みでは「シメオン」שמעון。「シモン」は「シメオン」の短縮形)であるが、イエスにより「ケファ」(アラム語で岩の断片、石という意味)というあだ名で呼ばれるようになった。後に同じ言葉のギリシア語訳である「ペトロス」という呼び名で知られるようになる。 パウロも書簡の中で、ペトロのことを「ケファ」と呼んでいる。この名はイエスが「私はこの岩の上に私の教会を建てる」と言ったことに由来している。この一節は全ての共観福音書に見られるが、ただマタイのみが「天の国の鍵」をペトロが受けるだろうとしている。 **生涯 『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』によればペトロはガリラヤ湖で兄弟と共に漁をしていて、イエスに声をかけられ、[[最初の弟子>最初の弟子たち]]になった。ルカ福音書では、イエスは有名になってから弟子を集めており、シモン・ペトロとヤコブ、ヨハネが同時に弟子になっている。また、ペトロの弟アンデレについて書かれていない。 伝承では、ペトロはイエスと出会った時には既に比較的高齢であったという。共観福音書はいずれもペトロの姑がカファルナウムの自宅でイエスに癒される姿を記しており、ここからペトロが結婚していたことが分かる。娘がいたという伝承もある。([[ペトロの姑をいやす]]を参照) ペトロは弟子のリストでも常に先頭にあげられており、イエスの問いかけに弟子を代表して答えていることなどから、イエスの存命中から弟子たちのリーダー的存在であったことがうかがわれる。また、[[主イエスの変容]](姿が変わって神性を示した出来事)をペトロはヤコブとヨハネの選ばれた三人だけで目撃している。さらに、[[ペトロのキリスト告白]]では、イエスはペトロにだけ、自身がメシアであることを打ち明けている。 イエスの受難においてペトロが逃走し、イエスを否認したこと([[ペトロの否認]])はすべての福音書に書かれている。また『ヨハネによる福音書』によれば、[[イエスの復活]]時にはヨハネと共にイエスの墓にかけつけている。 その後、ペトロは原始キリスト教団の中隔となり、少なくとも[[使徒会議]]までのことが[[使徒言行録]]に書かれている。 使徒会議の後、パウロはアンティオキアへ向かったが、パウロ書簡の[[ガラテヤの信徒への手紙]]によれば、ペトロがその後アンティオキアにやってきたことがあったという。(ガラテア2:11) >さて、ケファ(ペトロ)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 そして、使徒教父文書では、ペトロの最期について次のように書かれている。 Ⅰクレメンス5:1-6 >けれども、昔の例(旧約聖書の殉職者たち)から離れて、私たちの時代に最も近い時に生きた闘士たちについて考えましょう。私たちの世代に生きた高貴な人々の例を見ましょう。嫉妬によって、最も偉大で正しい教会の支柱が迫害され、死に至るまで戦いました。あの善良な使徒たちを目の前に思い浮かべましょう。 >ペテロがいました。彼も嫉妬によって、一度ならず何度も苦役に耐え、自分の証を負って、任命された栄光の場所に行きました。 >嫉妬と争いのゆえに、パウロは身をもって、耐え忍んで賞を獲得することを示しました。それから、彼は七度縛られ、国外追放され、石で打たれ、東でも西でも宣べ伝え、信仰の報酬である高貴な栄誉を勝ち取りました。世界中に義を教え、西の果てまでたどり着きました。パウロが支配者たちの前で自分の証を負ったとき、彼は世から分離し、聖なる場所に行きました。そこで彼は忍耐の法則を発見したのです。 聖書にはそれ以上の記述はなく、史実的にも実証できないが、外典である『ペトロ行伝』にも見られる聖伝ではローマへ宣教し、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされている。だとすれば、クレメンスの第一の手紙のペトロはローマでの殉教を意味していることになる。伝承では67年とされる。 また同じ伝承によると、ペトロが迫害の激化したローマから避難しようとアッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてくる。彼が「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。彼はそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。 なお、このときのペトロのセリフのラテン語訳「Quo vadis?(クォ・ヴァディス)」(「どこへ行くのですか」の意)はよく知られるものとなり、1896年にはポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキエヴィチがローマにおけるキリスト教迫害を描いた同名小説を記し、ハリウッドでも同名タイトルで映画化されている。 **ペトロの墓 かつてローマの郊外であったバチカンの丘のペトロの墓と伝えられる場所に後世になって建てられたのがサン・ピエトロ大聖堂(聖ペトロの大聖堂)である。サン・ピエトロ大聖堂の主祭壇下にはペトロの墓所があるという伝承が伝えられていたが、実際はどうだったのかは長きにわたって謎とされていた。 #image(https://img.atwikiimg.com/www65.atwiki.jp/trinity_kristo/attach/203/35/peter1.jpg) しかし1939年以降、ピウス12世は考古学者のチームにクリプタ(地下墓所)の学術的調査を依頼した。すると紀元2世紀につくられたとされるトロパイオン(ギリシャ式記念碑)が発見され、その周囲に墓参におとずれた人々のものと思われる落書きやペトロへの願い事が書かれているのが見つかった。さらにそのトロパイオンの中央部から丁寧に埋葬された男性の遺骨が発掘された。この人物は1世紀の人物で、年齢は60歳代、堂々たる体格をしていたと思われ、古代において王の色とされていた紫の布で包まれていた。 #image(https://img.atwikiimg.com/www65.atwiki.jp/trinity_kristo/attach/203/34/peter2.jpg) 1949年8月22日のニューヨーク・タイムズはこれこそペトロの遺骨であると報じて世界を驚かせた。さらに1968年にパウロ6世はこの遺骨が「納得できる方法」でペトロのものであると確認されたと発表した。もちろん考古学的には上記の「状況証拠」しかないので、真偽については半世紀以上が経過した2010年代になっても論争が続いている。 **パウロの風貌 伝統的には白髪の老人として描かれる。 &ref(https://img.atwikiimg.com/www65.atwiki.jp/trinity_kristo/attach/203/64/Petersinai.jpg,height=666,width=369) 聖ペトロのイコン。聖シナイ山の聖カタリナ修道院にある6世紀の蝋画である。 http://lonelypilgrim.com/2012/05/17/the-bones-of-st-peter/
ペトロ(生年不明 - 67年?)は、新約聖書に登場する人物で、イエス・キリストに従った使徒の一人。 本名はシモン(ヘブライ語読みでは「シメオン」שמעון。「シモン」は「シメオン」の短縮形)であるが、イエスにより「ケファ」(アラム語で岩の断片、石という意味)というあだ名で呼ばれるようになった。後に同じ言葉のギリシア語訳である「ペトロス」という呼び名で知られるようになる。 パウロも書簡の中で、ペトロのことを「ケファ」と呼んでいる。この名はイエスが「私はこの岩の上に私の教会を建てる」と言ったことに由来している。この一節は全ての共観福音書に見られるが、ただマタイのみが「天の国の鍵」をペトロが受けるだろうとしている。 また、マタイ福音書ではイエスはペトロを「シモン・バルヨナ」と呼ぶ場面がある(マタイ16:17)。これは「ヨナの息子」という意味である。 **生涯 『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』によればペトロはガリラヤ湖で兄弟と共に漁をしていて、イエスに声をかけられ、[[最初の弟子>最初の弟子たち]]になった。ルカ福音書では、イエスは有名になってから弟子を集めており、シモン・ペトロとヤコブ、ヨハネが同時に弟子になっている。また、ペトロの弟アンデレについて書かれていない。 伝承では、ペトロはイエスと出会った時には既に比較的高齢であったという。共観福音書はいずれもペトロの姑がカファルナウムの自宅でイエスに癒される姿を記しており、ここからペトロが結婚していたことが分かる。娘がいたという伝承もある。([[ペトロの姑をいやす]]を参照) ペトロは弟子のリストでも常に先頭にあげられており、イエスの問いかけに弟子を代表して答えていることなどから、イエスの存命中から弟子たちのリーダー的存在であったことがうかがわれる。また、[[主イエスの変容]](姿が変わって神性を示した出来事)をペトロはヤコブとヨハネの選ばれた三人だけで目撃している。さらに、[[ペトロのキリスト告白]]では、イエスはペトロにだけ、自身がメシアであることを打ち明けている。 イエスの受難においてペトロが逃走し、イエスを否認したこと([[ペトロの否認]])はすべての福音書に書かれている。また『ヨハネによる福音書』によれば、[[イエスの復活]]時にはヨハネと共にイエスの墓にかけつけている。 その後、ペトロは原始キリスト教団の中隔となり、少なくとも[[使徒会議]]までのことが[[使徒言行録]]に書かれている。 使徒会議の後、パウロはアンティオキアへ向かったが、パウロ書簡の[[ガラテヤの信徒への手紙]]によれば、ペトロがその後アンティオキアにやってきたことがあったという。(ガラテア2:11) >さて、ケファ(ペトロ)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 そして、使徒教父文書では、ペトロの最期について次のように書かれている。 Ⅰクレメンス5:1-6 >けれども、昔の例(旧約聖書の殉職者たち)から離れて、私たちの時代に最も近い時に生きた闘士たちについて考えましょう。私たちの世代に生きた高貴な人々の例を見ましょう。嫉妬によって、最も偉大で正しい教会の支柱が迫害され、死に至るまで戦いました。あの善良な使徒たちを目の前に思い浮かべましょう。 >ペテロがいました。彼も嫉妬によって、一度ならず何度も苦役に耐え、自分の証を負って、任命された栄光の場所に行きました。 >嫉妬と争いのゆえに、パウロは身をもって、耐え忍んで賞を獲得することを示しました。それから、彼は七度縛られ、国外追放され、石で打たれ、東でも西でも宣べ伝え、信仰の報酬である高貴な栄誉を勝ち取りました。世界中に義を教え、西の果てまでたどり着きました。パウロが支配者たちの前で自分の証を負ったとき、彼は世から分離し、聖なる場所に行きました。そこで彼は忍耐の法則を発見したのです。 聖書にはそれ以上の記述はなく、史実的にも実証できないが、外典である『ペトロ行伝』にも見られる聖伝ではローマへ宣教し、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされている。だとすれば、クレメンスの第一の手紙のペトロはローマでの殉教を意味していることになる。伝承では67年とされる。 また同じ伝承によると、ペトロが迫害の激化したローマから避難しようとアッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてくる。彼が「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。彼はそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。 なお、このときのペトロのセリフのラテン語訳「Quo vadis?(クォ・ヴァディス)」(「どこへ行くのですか」の意)はよく知られるものとなり、1896年にはポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキエヴィチがローマにおけるキリスト教迫害を描いた同名小説を記し、ハリウッドでも同名タイトルで映画化されている。 **ペトロの墓 かつてローマの郊外であったバチカンの丘のペトロの墓と伝えられる場所に後世になって建てられたのがサン・ピエトロ大聖堂(聖ペトロの大聖堂)である。サン・ピエトロ大聖堂の主祭壇下にはペトロの墓所があるという伝承が伝えられていたが、実際はどうだったのかは長きにわたって謎とされていた。 #image(https://img.atwikiimg.com/www65.atwiki.jp/trinity_kristo/attach/203/35/peter1.jpg) しかし1939年以降、ピウス12世は考古学者のチームにクリプタ(地下墓所)の学術的調査を依頼した。すると紀元2世紀につくられたとされるトロパイオン(ギリシャ式記念碑)が発見され、その周囲に墓参におとずれた人々のものと思われる落書きやペトロへの願い事が書かれているのが見つかった。さらにそのトロパイオンの中央部から丁寧に埋葬された男性の遺骨が発掘された。この人物は1世紀の人物で、年齢は60歳代、堂々たる体格をしていたと思われ、古代において王の色とされていた紫の布で包まれていた。 #image(https://img.atwikiimg.com/www65.atwiki.jp/trinity_kristo/attach/203/34/peter2.jpg) 1949年8月22日のニューヨーク・タイムズはこれこそペトロの遺骨であると報じて世界を驚かせた。さらに1968年にパウロ6世はこの遺骨が「納得できる方法」でペトロのものであると確認されたと発表した。もちろん考古学的には上記の「状況証拠」しかないので、真偽については半世紀以上が経過した2010年代になっても論争が続いている。 **パウロの風貌 伝統的には白髪の老人として描かれる。 &ref(https://img.atwikiimg.com/www65.atwiki.jp/trinity_kristo/attach/203/64/Petersinai.jpg,height=666,width=369) 聖ペトロのイコン。聖シナイ山の聖カタリナ修道院にある6世紀の蝋画である。 http://lonelypilgrim.com/2012/05/17/the-bones-of-st-peter/

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