ローマのクレメンス(ローマ司教クレメンス1世)による手紙。西暦96年頃に書かれた。
はコリントの教会で起きたトラブルを仲裁しようとしたクレメンスの書簡である。
カトリックを中心に、ここから諸教会の仲介役としてローマ司教が役割を果たしていたと考え、それが後の教皇制度の萌芽になっていくと見るむきもある。一方、これをクレメンスがローマ教会の権威を他教会に及ぼそうとしたのであって、ローマ教会が常時そのような役割を果たしていたとは考えない学者もいる。
ペトロとパウロの殉教
クレメンスの第一の手紙には、ペトロとパウロの最期について書かれている。
Ⅰクレメンス5:1-6
けれども、昔の例(
旧約聖書の殉職者たち)から離れて、私たちの時代に最も近い時に生きた闘士たちについて考えましょう。私たちの世代に生きた高貴な人々の例を見ましょう。嫉妬によって、最も偉大で正しい教会の支柱が迫害され、死に至るまで戦いました。あの善良な使徒たちを目の前に思い浮かべましょう。
ペテロがいました。彼も嫉妬によって、一度ならず何度も苦役に耐え、自分の証を負って、任命された栄光の場所に行きました。
嫉妬と争いのゆえに、パウロは身をもって、耐え忍んで賞を獲得することを示しました。それから、彼は七度縛られ、国外追放され、石で打たれ、東でも西でも宣べ伝え、信仰の報酬である高貴な栄誉を勝ち取りました。世界中に義を教え、西の果てまでたどり着きました。パウロが支配者たちの前で自分の証を負ったとき、彼は世から分離し、聖なる場所に行きました。そこで彼は忍耐の法則を発見したのです。
西の果てとは無論ローマのことである。
使徒言行録には書かれていなかったパウロの最期は殉教だったことがわかる。しかしながら、ペトロに関しては、どこで殉教したのかは不明である。ペトロもまた「西の果て」であるローマで殉教したか、それとも全く別の場所で殉教したかは意見が分かれる。
新約聖書からの引用
- Ⅰクレメンス7:1←ローマ9:15ー17、一コリ9:24ー27
- Ⅰクレメンス37:4ー5←一コリ12:4ー11; 12ー26
- Ⅰクレメンス41:1←一コリ15:23
- Ⅰクレメンス47:1←一コリ1:10以下
- Ⅰクレメンス61:1←一テモテ2:1以下
その他、ガラテヤ書、エフェソ書、フィリピ書も引用している可能性があり、使徒言行録、ヤコブ書、第一ペテロ書も資料として用いている可能性が指摘されている。
このことから、これらの書簡はクレメントの第一の手紙よりも早期にすでに存在した可能性が高いとされる。
最終更新:2017年04月02日 22:36