ギリシャの王
アレキサンドロス王
マカバイ一1:7
こうしてアレキサンドロスは十二年の統治の後に死に、
歴史的に、アレクサンドロス3世の治世は前336年~前323年の12年間とされる。
アンティオコス・エピファネス王
マカバイ一1:10
そしてついには彼らの中から悪の元凶、アンティオコス・エピファネスが現れた。彼はアンティオコス王の王子でローマに人質として送られていたが、ギリシア人の王朝の第百三十七年に王として即位した。
マカバイ一1:20
こうしてエジプトを打ち破った彼は、第百四十三年、矛先をイスラエルに転じて大軍と共にエルサレムを目指して上って来た。
マカバイ一1:29-31
二年の後アンティオコス王は、徴税官をユダの町々に派遣した。王は大軍を率いてエルサレムにまで来たが、言葉巧みに穏やかな調子で語ったので、住民は彼を信頼した。すると彼は突如としてこの都を襲い、破壊をほしいままにし、多くのイスラエル人を殺した。そして略奪をしたうえで都に火を放ち、家々や都を囲む城壁を破壊した。
マカバイ一1:54
第百四十五年、キスレウの月の十五日には、王は祭壇の上に「憎むべき破壊者」を建てた。
マカバイ一3:37
こうしてアンティオコスは、残りの半分の軍を率いて首都アンティオキアを後にした。第百四十七年のことである。彼はユーフラテス川を渡り、高地の国々へと 歩みを進めた。
マカバイ一6:16
アンティオコス王はその地で死んだ。第百四十九年のことであった。
ギリシア人の王朝とは、セレウコス朝のことである。
歴史的に、アンティオコス4世エピファネスの治世は前175年~前163年とされている。
前169年、エピファネスはエルサレムを侵略した。
前167年、エピファネスはエルサレムを破壊した。
前167年9月15日、エピファネスは「憎むべき破壊者」すなわちゼウス像を建てた。
前165年、エピファネスはアンティオキアからエルサレムへ出陣した。
前163年、エピファネスはペルシャで死亡した。
アンティオコス・エウパトル王
マカバイ一6:16-17
アンティオコス王はその地で死んだ。第百四十九年のことであった。ところがリシアスは、王が死んだことを知ると、直ちに幼少のときから養ってきた王子アンティオコスを王として擁立し、彼に「エウパトル」という名称を付けた。
マカバイ一7:1-4
第百五十一年に、セレウコスの子デメトリオスがローマを脱出し、わずかな手勢を連れて海辺の一都市に上陸して、その地で王としての統治を開始した。そして彼が自分の先祖の王宮に入ろうとしたとき、兵士たちはアンティオコスとリシアスを彼のもとに連れて行こうと、二人を捕らえた。この知らせを受けると、デメトリオスは、「彼らの顔など見たくもない」と言った。そこで、兵士たちは二人を殺した。こうしてデメトリオスは王座についた。
前163年、エウパトルは幼くして即位する。
前161年、デメトリオスにより殺される。
デメトリオス王
マカバイ一10:1-2
第百六十年、アンティオコスの子、アレキサンドロス・エピファネスはプトレマイスに上陸し、そこを占領した。人々が彼を受け入れたので、彼はその地で王となった。デメトリオス王はこれを聞き、おびただしい軍勢を動員し、彼と戦うために出撃した。
マカバイ一10:49-50
二人の王は戦いを交えた。しかしアレキサンドロス軍は敗走し、デメトリオスはアレキサンドロスを追撃し、彼らを圧倒した。戦いは熾烈を極め、日没に至った。しかしかのデメトリオスは、その日戦死した。
前161年、デメトリオスは即位する。
前160年、デメトリオスの軍隊がユダ・マカバイを殺害した。
前152年、デメトリオス王はアレキサンドロス・エピファネスと戦いを始める。
前150年、アレキサンドロス王の軍勢の前に戦死した。
アレキサンドロス・エピファネス王(アレクサンドロス1世バラス)
マカバイ一10:57-58
第百六十二年のことである。アレキサンドロス王は彼に会見した。
マカバイ一11:17-19
アラビア人ザブディエルは、アレキサンドロスの首を切り、プトレマイオスのもとに送った。しかし、その三日後にプトレマイオス王も死に、各砦に配置されていた王の守備兵たちは、砦にいた住民たちによって殺されてしまった。デメトリオスは第百六十七年に、王位についた。
前150年、アレキサンドロス王はデメトリオスを破り、即位する。
前145年、アレキサンドロス王はデメトリオスの軍勢に敗れ、戦死する。
デメトリオスの息子デメトリオス王
マカバイ一14:1-3
第百七十二年、デメトリオス王は兵を集め、メディアに向かった。トリフォンと戦うための援軍を請うためである。ところが、ペルシアとメディア両国の王アルサケスは、デメトリオスが自分の領地に入って来たことを知り、彼を生け捕りにしようと指揮官の一人を送った。その指揮官は出撃してデメトリオス軍を打ち破り、デメトリオスを捕らえてアルサケスのもとに連行した。アルサケスは、デメトリオスを監禁した。
前145年、アレキサンドロス王を殺害し、即位する。
前140年、ペルシアとメディアの王アルサケスにより、デメトリオス王が捕らえられる。
アンティオコス(アンティオコス6世デュオニュソス)
第百七十四年、アンティオコスは彼の先祖の地に入った。全軍が彼のもとにはせ参じたので、トリフォンのもとにはわずかな兵しか残らなかった。
前138年、アンティオコスはトリファンを攻めた
イスラエルの指導者
シメオンの子ヨハネの子ヨヤリブの子孫 祭司マタティア
マカバイ一2:70
彼は第百四十六年に死に、モデインにある先祖の墓地に葬られた。全イスラエルは深い悲しみをもって彼を悼んだ。
祭司マタティアはアンティオコス・エピファネスの軍隊と戦い、前166年に死亡した。
マタティアの子、マカバイと呼ばれたユダ
マカバイ一3:38-39
リシアスは、王の友人の中からドリメネスの子プトレマイオスと、更にニカノル、ゴルギアスらの将軍を選び、四万の歩兵と七千の騎兵を与え、王の命令どおりにユダに攻め入らせた。
マカバイ一4:28
だがその翌年、彼(シリアの将軍リシアス)は、イスラエルと戦いを交えるため、えり抜きの兵六万と騎兵五千を召集した。
マカバイ一4:52-56
第百四十八年の第九の月――キスレウの月――の二十五日に、彼らは朝早く起き、焼き尽くす献げ物のための新しい祭壇の上に律法に従っていけにえを供えた。異教徒が祭壇を汚したのと同じ日、同じ時に、歌と琴、竪琴とシンバルに合わせて、その日に祭壇を新たに奉献した。民は皆、地に顔を伏せて拝み、彼らを正しく導いてくださった方を天に向かってたたえた。こうして祭壇の奉献を八日にわたって祝い、喜びをもって焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物と感謝の献げ物のいけにえを屠った。
マカバイ一6:18-20
さて要塞守備兵たちは、イスラエル人を聖所周辺に閉じ込め、四六時中、悪事を繰り返して、異邦人たちの支えとなろうとしていた。そこでユダは彼らを一掃しようと決意し、彼らを包囲するため、民全体を召集した。人々は直ちに集まり、要塞を包囲し、投石機や攻城機を組み立てた。第百五十年(=前162年)のことである。
マカバイ一6:47
ユダたちは、王国の力と軍隊の勢力を知って、後退した。
マカバイ一7:43
アダルの月の十三日に両陣営は戦いを交え、ニカノル軍は打ち破られ、ニカノル自身がこの戦闘で真っ先に倒れた。
マカバイ一9:3-5
彼らは第百五十二年の第一の月に、エルサレムに向けて陣を敷いたが、更にそこから出て、二万の軍勢と二千の騎兵と共にベレトに入った。ユダも、エラサに精鋭三千の兵と共に、陣を敷いていた。
マカバイ一9:18-19
ユダも倒れ、残った者たちは逃げ去った。ヨナタンとシモンは、彼らの兄弟ユダを運び、モデインにある先祖の墓に葬った。
マカバイらは前165年と前164年にリシアスの軍勢に勝利した。
前164年9月25日、新たに作った祭壇を用いていけにえを供え、10月2日/3日まで祝った。
前162年、要塞守備兵たちを一掃することがきっかけで始まったベトザカリアの戦いで、イスラエルは初めての敗北となった。
前161年12月13日、ニカルノ軍に勝利した。
前160年、マカバイは死亡した。
マカバイの兄弟ヨナタン
マカバイ一9:31
この時以来、ヨナタンは指導者として、兄弟ユダに代わって立つことになったのである。
マカバイ一10:21
ヨナタンは第百六十年の第七の月、仮庵祭に聖なる衣をまとい、軍を召集し、多くの武器を準備した。
マカバイ一10:67
第百六十五年に、かのデメトリオスの息子デメトリオスがクレタを出て、先祖の地に入った。
前160年、ヨナタンは兄弟ユダ・マカバイに代わってイスラエルの指導者となった。
前152年、ヨナタンはアレキサンドロス・エピファネスに協力した。
前147年、ヨナタンはデメトリオスの息子デメトリオスに勝利する。
前141年以前に、トリファンにより殺害される。
ヨナタンの兄弟シモン
マカバイ一13:41
第百七十年、イスラエルは異邦人の軛から解放された。
13:51 第百七十一年の第二の月の二十三日にシモンとその民は、歓喜に満ちてしゅろの枝をかざし、竪琴、シンバル、十二絃を鳴らし、賛美の歌をうたいつつ要塞に入った。イスラエルから大敵が根絶されたからである。
マカバイ一14:27-28
以下はその文面である。「第百七十二年、エルルの月の十八日、偉大なる大祭司シモンの第三年、アサラメルで開かれた、祭司、民、民族の指導者、国の長老たちの大集会において、我々は以下のことを認めた。
マカバイ一16:14-16
他方シモンは、国内の町々を視察し、切迫している諸問題の解決に意を用いていた。第百七十七年の第十一の月、すなわちサバトの月に、彼は息子のマタティアとユダを伴ってエリコに下った。アブボスの子は、彼の築いたドクと呼ばれる砦に、策略を持って彼らを迎え入れ、彼らのために大宴会を催した。彼はあらかじめそこに兵を忍ばせておいたのである。シモンと息子たちが酔ったころ、プトレマイオスと配下の者は、立って武器を手にし、宴席にいたシモンに襲いかかり、彼と二人の息子、それに何人かの供の者を殺害した。
ヨナタンが殺害されたとき、シモンが代わって指導者となった。
前142年、イスラエルは政治的独立を果たした。
前141年2月23日、エルサレムを奪還した。
前140年6月18日、大集会を開き、ヨアリブ家を讃えることが決まった。
前135年11月、シモンは
2人の息子とともにエリコに下り、プトレマイオスに殺害された。
最終更新:2017年07月25日 05:24