ルカ13:6-9
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人が
ぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
このたとえは、「園丁」が神であり、「「実のならないいちじくの木」が神の願いを裏切り続けている人々を意味する。イエスのこのたとえ話の前に、災難にあったガリラヤ人の話が現れる。それについてイエスは、そのガリラヤ人が特別に罪深かったわけではなく、誰しもが同じ憂き目にあう可能性があると言っており、その説明として「実のならないいちじくの木」のたとえが出てくるのである。
イザヤ5:1-7
わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。 さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。
しかしその相違点は、旧約であるイザヤ書では、神の期待を裏切った人間は滅ぼされる運命にあるが、
イエスのたとえ話では、園丁は人間にチャンスをさらに与えているという点である。
最終更新:2016年09月29日 14:50