受胎告知と処女懐妊はマタイ
福音書とルカ福音書のみに記述された逸話である。天使ガブリエルが処女マリアを訪問し、聖霊によって男の子を身ごもることを告げる。
マリアへの受胎告知
ルカ福音書では、天使ガブリエルが母マリアに、ナザレに現れて告げる。(ルカ1:25-38)
(
洗礼者ヨハネの受胎後)六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
ヨセフへの受胎告知
マタイ福音書は時系列ではルカ福音書の記述よりも後になる。ここでは、天使が養父ヨセフの夢に現れて告げる。(マタイ1:18-25)
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
これはナザレではない土地でのことだった。恐らくはベツレヘムだと考えられる。(マタイ2:22-23)
しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもりナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
イザヤのインマヌエル預言
新約聖書における受胎告知は、
旧約聖書中の『
イザヤ書』7:14の預言に基づいている。
アハズは先王ヨタムの息子として生まれた。紀元前734年頃、アッシリア王ティグラト・ピレセル3世がシリア方面に進軍したために、アッシリアに臣従の姿勢を取り、貢納を収めた。同時期にアッシリアに服属したダマスコ王国(アラム)やイスラエル王国(エフライム)等が同盟を結んで反アッシリアの姿勢を取った。これに対しアハズが親アッシリア政策を維持したため、ダマスコ王レツィンとイスラエル王ペカ・ベン・レマリヤは共謀してアハズ廃位を画策しユダ王国を攻撃した(シリア・エフライム戦争)。
イザヤ書7章は、イザヤが預言者として召されてから5年後に、ユダの王がアハズになったとき、アラムと北イスラエル(エフライム)が連合して連合してユダを攻めてきたときのことである。
イザヤ書7:1-2
ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
動揺したアハズに対し、主は預言者イザヤを介して、それが成功しないことを語った。
イザヤ書7:3-9
主はイザヤに言われた。「あなたは息子のシェアル・ヤシュブと共に出て行って、布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れでアハズに会い、彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。アラムがエフライムとレマルヤの子を語らって、あなたに対して災いを謀り、『ユダに攻め上って脅かし、我々に従わせ、タベアルの子をそこに王として即位させよう』と言っているが、主なる神はこう言われる。それは実現せず、成就しない。アラムの頭はダマスコ、ダマスコの頭はレツィン。(六十五年たてばエフライムの民は消滅する)エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
しかしながらアハズにはとてもそのようなことは信じられなかった。そこで主は預言者イザヤを介し、さらにアハズに語った。
イザヤ書7:10-11
主は更にアハズに向かって言われた。「主なるあなたの神に、しるしを
求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
主を試すようなことはとても恐れ多いため、アハズはこのように答えた。
イザヤ書7:12
しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
だが、主の意に介さないことを答えるアハズに対して、イザヤはこう言った。
イザヤ書7:13-17
イザヤは言った。
「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に
もどかしい思いをさせるだけでは足りず
わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。
それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。見よ、※おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。
災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで
彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。
その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。
主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」
※マソラ本文では「おとめ」となっているが、七十人訳聖書および死海文書(クムラン写本)では「処女」となっている。
インマヌエル(עמנואל, Immanuel)とは、二つの言葉、インマヌ(עמנו 、Immanu、われらとともにいる)とエル(אל 、El、神)を組み合わせた名前で、「神はわれらとともに」の意味である。この預言は、ユダヤ人にとって輝かしいメシアを預言したものであると考えられた。
続く8章では、イザヤは生まれた二男に「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)という名をつけるよう神に告げられる。その子が大きくなるまでにアッシリアがダマスカスもイスラエルも征服してユダに迫るだろうが、神がわれらとともにある(インマヌエル)ため諸国の同盟軍がユダ征服に成功することはないと述べ、おそれるべきは敵軍ではなく神であること、苦悩と闇から逃れるすべはないがその先に希望があることを説く。
しかし結局アハズ王はイザヤの言に従わずアッシリアに従い援軍を求める。アッシリアによってダマスカス(前732年)も北イスラエル(前722年)も征服され、アハズが恐れる二人の王レツィンとペカは、預言されていたアッシリアの王によって確かに滅ぼされた。しかし、神よりもアッシリアを頼ったユダ王国は、アッシリアの衰退と共に、新バビロニアの属国(
バビロン捕囚、前586年)となり荒廃してしまう。
そして時代は流れ、その新バビロニアさえも滅亡(前536年)し、アケメネス朝(前330年滅亡)、セレウコス朝、プトレマイオス朝、ハスモン朝の支配を受けた。第三次ミトリダテス戦争におけるローマの勝利(前63年)以降、ローマはこの地域に干渉を始め、紀元前1世紀にハスモン朝がローマの保護国となり、やがてローマ帝国の属州となった。このローマ帝国の時代にイエスは生まれた。
ユダヤ教では神はイエス誕生からさかのぼること数百年のアハズ王の時代に向けてしるしを送ると述べていること、インマヌエルが救い主であるとは述べていないなどの理由からこの預言は反故にされた、すなわちメシア出現の預言にはならない考えている。
しかし
キリスト教では、イザヤの預言は、ユダ王国の救いや、その平和と繁栄だけでなく、その後に来る、もっと大きな神の国による救い、その平和と繁栄を指していたと考え、この預言がイエスの誕生により成就したと考えた。キリスト教の誕生後はインマヌエルとは聖母マリアの処女懐胎のことであると解釈されるようになった。
ルカ福音書のキアスマス構造
ルカ福音書にある受胎告知は次の構造をとっている。
A 天使の顕現
B 受胎告知
C 「いと高き方の子と言われる」
D 支配者となるメシア
E 「そのようなことがありえましょうか」
F 処女マリア(妊娠不可能)
X 聖霊のはたらき
F' 老女エリサベト(不妊)
E' 「神にはできないことは何一つない」
D' 主の女奴隷マリア
C' 「神の子と呼ばれる」
B' 告知の受容
A' 天使の離去
クルアーンの記述
クルアーン3:45-47
また天使たちがこう言った時を思え。「マルヤム〔マリア〕よ、本当にアッラーは直接ご自身の御言葉で、あなたに吉報を伝えられる。マルヤムの子、その名はマスィーフ・イーサー〔メシア・イエス〕、かれは現世でも来世でも高い栄誉を得、また(アッラーの)側近の一人であろう。かれは揺り籠の中でも、また成入してからも人びとに語り、正しい者の一人である。」
かの女は言った。「主よ、誰もわたしに触れたことはありません。どうしてわたしに子が出来ましょうか。」かれ(天使)は言った。「このように、アッラーは御望みのものを御創りになられる。かれが一事を決められ、『有れ。』と仰せになれば即ち有るのである。」
クルアーン3:16-22
またこの啓典の中で、マルヤム〔マリア〕(の物語)を述べよ。
かの女〔マリア〕が家族から離れて東の場に引き籠った時、かの女はかれら〔家族〕から(身をさえぎる)幕を垂れた。その時われはわが聖霊(ジブリール〔ガブリエル〕)を遣わした。かれは1人の立派な人間の姿でかの女の前に現われた。
かの女〔マリア〕は言った。「あなた(ジブリール)に対して慈悲深き御方の御加護を祈ります。もしあなたが、主を畏れておられるならば(わたしに近寄らないで下さい)。」
かれ〔ガブリエル〕は言った。「わたしは、あなたの主から遣わされた使徒に過ぎない。清純な息子をあなたに授ける(知らせの)ために。」
かの女〔マリア〕は言った。「未だ且つて、誰もわたしに触れません。またわたしは不貞でもありません。どうしてわたしに息子がありましょう。」
かれ〔ガブリエル〕は言った。「そうであろう。(だが)あなたの主は仰せられる。『それはわれにとっては容易なことである。それでかれ(息子)を入びとへの印となし,またわれからの慈悲とするためである。(これは既に)アッラーの御命令があったことである。』」
こうして、かの女〔マリア〕はかれ〔息子〕を妊娠したので、遠い所に引き籠った。
最終更新:2018年02月09日 15:06