マルコ
福音書では、
ベルゼブル論争の後の出来事である。このときイエスの家族でさえイエスを信用していなかった。イエスを信用しない母や兄弟よりも、神の意向に沿う民衆の方が兄弟であると答えたのである。(マルコ3:31-35)
イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
マタイ福音書では、そもそもイエスは偉大な人として怖れられている文脈でベルゼブル論争がされており、その後に、しるしを求めることについての説教が挟まれており、その後の出来事である。よってマルコ福音書とは意味合いが異なる。(マタイ12:46-50)
イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
ルカ福音書では、ゼルセブル論争とは全く関係なく、イエスが民衆に説教をしているときの話となっているため、やはりマルコ福音書とは意味が全く違う。(ルカ8:19-21)
さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
トマス福音書にも並列個所が存在する。(トマス99)
弟子たちがイエスに言った。「あなたの兄弟がたとあなたの母上が外に立っています」。彼(イエス)が彼らに言った。「私の父の御旨を行なう、ここにいる者たちこそ、私の兄弟、私の母なのである。彼らが私の父の国に入るであろう。」
最終更新:2017年01月15日 14:46