主の祈り

主の祈りはもともとアラム語であったと考えられており、これがギリシャ語に翻訳されたものがマタイ福音書とルカ福音書に載っている。

カトリック教会版(ラテン語訳)

マタイ福音書およびルカ福音書に書かれている祈りは文章が細部で異なるため、これとは別にカトリック教会は主の祈りを伝統的に受け継いできた。最初の3つの祈り(2-5行目)は神と天上に関する祈り、次の3つの祈り(6-10行目)は人間と地上に関する祈りである。最後の部分(11-13行目)は、一種の頌栄であり、祈祷文として用いる場合にのみ読まれる部分である。(ここでは「主の祈りの結びの頌栄」と呼ぶ。)
Pater noster, qui es in caelis:
sanctificetur Nomen Tuum;
adveniat Regnum Tuum;
fiat voluntas Tua,
sicut in caelo, et in terra.
Panem nostrum quotidianum da nobis hodie;
et dimitte nobis debita nostra,
sicut et nos dimittimus debitoribus nostris;
et ne nos inducas in tentationem;
sed libera nos a Malo.
[Quia tuum est regnum,]
[et potestas,]
[et gloria in saecula.]
[Amen.]

和訳

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
[国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。]
[アーメン。]

成立

マタイ福音書およびルカ福音書に、イエス自身が弟子たちに直接教えた祈りとして掲載されているものである。
イエスはアラム語で語ったはずだが、両福音書にはギリシャ語で書かれている。

マタイ6:7-15
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

ルカ11:1-4
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。
「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから。
わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」

なお、最後の頌栄の部分は聖書には根拠がない。この頌栄の原型となっているのは、ダビデが祈った祈り(歴代誌上29:11)だと言われている。
歴代誌上29:10-13
ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。
「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。
偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。
まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。
あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。
富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。
勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。
わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。

そして、十二使徒の教訓(ディダケー)8章に似た文章が確認できる。おそらくこれを由来として、祈祷文として主の祈りを読み上げる際には、伝統的に締めとして唱えられてきたと考えられる。
ディダケー8章
祈るときは偽善者のようにではなく、主がその福音書でお命じになったように、次のように祈りなさい。すなわち、
「天におられるわたしたちの父よ。
あなたの名が聖とされますように。
あなたの国が来ますように。
あなたの意志が、天におけると同様、地上でも行われますように。
わたしたちの日用のパンを今日わたしたちにお与え下さい。
わたしたちがわたしたちに負債のある人たちを許すように、わたしたちの負債もお許し下さい。
わたしたちを試練へと連れて行かず、悪から解放して下さい。
力と栄光とは永遠にあなたのものだからです」。

原文(アラム語)の復元

オリジナルの言語を特定する重要な手掛かりは、マタイ福音書およびルカ福音書に記された主の祈りの二つの異なる翻訳から与えられる。
マタイ福音書では「私たちの負債(ὀφειλήματα[opheilhema], debts)をお赦しください、私たちも私たちの負債者(ὀφειλέταις[opheiletais] debtors)を赦しましたので」(6:12)となっているが、ルカは「私たちの罪(ἁμαρτίας[hamartias], sins)をお赦しください、私たちも私たちに借りを負う(ὀφείλοντι[opheilonti], indebted)何人も赦しますので」(11:4)となっている。アラム語では、「負債(חובא[khaba])」、「負債者」という語はしばしば「罪」、「罪人」という意味合いで用いられ、マタイは基礎となるアラム語の逐語訳である一方、ルカは節の前半部分が比較的慣用的な訳文となっているのである。
したがって主の祈りの元の言語はアラム語であったとされ、学者たちはそのアラム語の語句を再構築しようと試みてきた。聖書の言語も参照。

以下がその例である。

アラム語(ヘブライ文字表記)

אבון דבשמיא נתקדש שמך܂
תאתא מלכותך נהוא צבינך
איכנא דבשמיא אף בארעא܂
הב לן לחמא דסונקנן יומנא܂
ושבוק לן חובין
איכנא דאף חנן שבקן לחיבין܂
ולא תעלן לנסיונא
אלא פצן מן בישא
מטל דדילך הי מלכותא
וחילא ותשבוחתא
לעלם עלמין܂
[אמן]

アラム語(ラテン文字表記)

9.Avvon d-bish-maiya, nith-qaddash shim-mukh.
10.Tih-teh mal-chootukh. Nih-weh çiw-yanukh:
ei-chana d'bish-maiya: ap b'ar-ah.
11.Haw lan lakh-ma d'soonqa-nan yoo-mana.
12.O'shwooq lan kho-bein:
ei-chana d'ap kh'nan shwiq-qan l'khaya-ween.
13.Oo'la te-ellan l'niss-yoona:
il-la paç-çan min beesha.
Mid-til de-di-lukh hai mal-choota
oo khai-la oo tush-bookh-ta
l'alam al-mein.
[Aa-meen.]


参考

最終更新:2018年01月13日 20:06