初めに言〔ロゴス〕があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
これは明らかに
創世記の冒頭をまねたものである。(創世記1:1-5)
初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
このプロローグから分かるのは、ヨハネ
福音書の著者らは、
イエス・キリストを神と考えているため、イエス・キリストが天地創造のときにすでに存在していたと考えるのである。しかし、肉を持って生まれた「人間イエス」が天地創造のときに存在していたはずはない。
そこで、ヨハネ福音書の著者らは、「神の子・キリスト」は元々、天地創造を言葉で行った神の言〔ことば、ロゴス〕そのものが受肉したものであり、したがって、この言は世界の始まりからいて、それが受肉したのが人間イエスである、と考えたのである。
※ちなみに、ギリシャ語のlogosは、単に「言葉」という意味だけでなく「論理」という意味もある。我々が普段発する言葉とは異なる概念であることは留意したい。
ヨハネ1:10-14
言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
最終更新:2017年02月16日 18:09