エジプトの歴史

伝説

マネトは紀元前3世紀の古代エジプトの歴史家、神官。マネトの『エジプト史』には、エジプトの歴代31王朝について統治年数・王の名・首都が詳細に記されていた。それによると、エジプトではまず「神々の時代」があり、次に「半神や死者の霊の時代」があり、最後に「人間の時代」があるとされていた。最後の王朝がアレクサンドロス大王に征服されアレクサンドリアが建設された紀元前331年から統治年数の合計を遡ると、第1王朝の創始は紀元前5268年8ヶ月となり、エウセビオスの創世紀元よりも古くなってしまう。それどころか、人間統治の時代以前には半神や死者の霊が統治する11,000年間、その前には神々が支配した13,900年間があったとしており、普遍史の概念とは大きく食い違っていた。
なお、個別の神話はエジプト神話を参照。

エウセビオスの理論

これに対しエウセビオスは、神々の時代は一月を一年と、半神や死霊の時代は三ヶ月を一年と呼称していたと主張した。こうすると、単純な太陰暦変換では、「(神代)13,900×1/12×354/365.2422 + (半神・死霊)11,000×3/12×354/365.2422 = 1123 + 2690 = 3812年間」となるが、それをさらに独自に計算して、この期間が2206年間だったという数値を得た。これを根拠に、エジプトの先王朝統治の記録は大洪水前の時代が曲解されて伝わったものと述べ、エジプト人の始祖は聖書が示す通りミツライムだと定義した。

ニュートンの理論

このように疑問が残るエジプト史の解釈だったが、近世に至り、ニュートンはヘロドトスやディオドロスの著作を検討し、エジプトの3人のファラオ、オシリス、バッカス(ディオニューソス)、セソストリスを伝える故事に、征服事業と弟の反乱や帰国後の内政整備など共通部分が多い点に着目した。そして、聖書「列王記上」(11-14章)に登場するエジプト王シシャクが、建国当初のユダ王国初代レハベアムの時代に初めてエルサレムに侵攻したという記述と対比させ、3人のファラオは実は同一人物で、それは聖書に言うシシャクだと論じた。このように、エジプト史は単一の出来事を複数あったように伝えていると分析した。さらにこのオリシスと息子のホルスが死後神格化されたというヘロドトスの記述を根拠に、エジプト史の「神々の時代」とはファラオの死後のことを述べていると説き、事実上「神々の時代」と「人間の時代」を重ね合わせた。

次に、初代メニ(メネス)以下の「人間の時代」について、アルゴナウタイ遠征譚を基準年としたギリシア・ローマ史解析と同様の手法を適用して試算した結果、エジプト第1王朝は紀元前946年に始まったと定めた。しかし、これではヘロドトスが伝えるセティまでの11340年間が収まらない。この矛盾についてニュートンは、事跡が記録されていない王は実在しなかったと宣言し、初期のファラオ329名を削除する挙に出た

これらの理論と考察から、ニュートンはエジプト王朝史を大胆に解釈し直した。それによると、初代の王メニがメンフィスを建設し、また下エジプトで勃発した反乱を鎮圧した。この時ダナオスは混乱を避けてギリシアに逃れ、造船技術を伝えた。こうして建造されたアルゴー船を用いてアルゴナウタイ遠征が実行され、その影響からエジプトは諸外国への支配力を喪失した。以後、国内のみの治世において、モイリス、ピラミッドを建設したクフ(ケオプス)などヘロドトスが事跡を記したファラオのみが実在した。結果エジプト史は大幅に短縮されてヘブライ人の歴史よりも短くなり、普遍史の枠内に収まることになった。

ただし、エジプト史に大胆な短縮を施せたのは、当時まだヒエログリフは解読されておらず、また中国史問題も議論が沸騰する直前で、パスカルのように無視を決め込む事も可能だったためでもある。彼が自らの理論を構築できた背景には、このように時代の進展が一服していた幸運に恵まれた側面もある。

史実

「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタ(ナイル川デルタ)に支えられて古代エジプト文明を発展させてきた。以下の古代エジプトの時代区分はマネトの『アイギュプティカ(エジプト史)』に従ったものである。エジプト人は紀元前3500年頃に原始王朝を、紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、これ以降は記録に残るエジプト初期王朝時代となる。ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。
最終更新:2017年05月24日 21:27