新約時代の年表

レビ族アロン家のアビヤ組の祭司ザカリヤと、レビ族アロン家の娘エリサベツの子である洗練者ヨハネ

ルカ1:5
ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。
ルカ3:1-2
皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。

※イエスの誕生から逆算する。
洗礼者ヨハネは紀元前7-5年頃生まれた。
西暦28年に、ヨハネは神の命令を受けて洗礼者となった。

ユダ族ダビデ王の末裔ゾロバベルの末裔ヨセフの養子で、母マリアの産んだ神の子イエス

※イエスの家系図の記載は矛盾している。これについてはイエスの家系図で取り上げる。
ルカ1:5
ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。
マタイ2:1
イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
ルカ1:26
(ザカリヤの妻エリサベつが身ごもって)六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。
ルカ2:1-5
そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
マタイ2:16
さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。
マタイ2:19-20
さて、ヘロデが死んだのち、見よ、主の使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、イスラエルの地に行け。幼な子の命をねらっていた人々は、死んでしまった」
ルカ3:23
イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。

皇帝アウグストの在位は紀元前27年-後14年だった。
人口調査の勅令は紀元前8年に出されている。
キリニウス(クレニオ)は後6年-7年にシリア総督であったが、軍事司令官としては前10-前7年までシリアにいた。
ヘロデ王の在位は前37年から前4年だった。
ここまでの情報だと、キリニウスとヘロデ王の治世は明らかに矛盾するが、未だこれを解決する説明はなされていない。
この点についてはイエスの誕生日を参照されたい。

マタイ福音書によれば、イエスが生まれたのは人口調査の勅令の後で、かつヘロデ王の在位なので紀元前8-4年以前である。
ルカ福音書によれば、洗礼者ヨハネの母が身ごもったのはヘロデ王の治世であり、半年後にイエスの母マリアも身ごもっているから、人口調査の話とは明らかに矛盾する。よってここではルカ福音書の記述は採用しない。
また、ルカ福音書によれば、洗礼者ヨハネの活動は西暦28年からであり、イエスはそれ以降に約30歳で宣教を始めているから、イエスが生まれたのは紀元前2年頃以前である。
したがって、ここではイエスの生まれ年は紀元前4年とする。

イエスは紀元前4年頃に生まれた。
イエスが宣教を始めたのは西暦28年で、32歳のときだった。

ベニヤミン族パウロ

ガテラヤ1:15-17
ところが、母の胎内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、わたしは直ちに、血肉に相談もせず、また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。それから再びダマスコに帰った。
ガテラヤ1:18-19
その後三年たってから、わたしはケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間、滞在した。しかし、主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった。
ガテラヤ2:1-2
その後十四年たってから、わたしはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った。そこに上ったのは、啓示によってである。
使徒11:22-26
このうわさ(キプロス人とクレネ人が、アンティオケに行ってからギリシャ人に主イエスのことを述べ伝えていたこと)がエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。彼(バルナバ)は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。彼(バルナバ)は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、彼(サウロ)を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。
使徒11:27-28
そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケにくだってきた。その中のひとりであるアガボという者が立って、世界中に大ききんが起るだろうと、御霊によって預言したところ、果してそれがクラウデオ帝の時に起った。
使徒18:11-12
パウロは一年六か月の間ここ(コリント)に腰をすえて、神の言を彼らの間に教えつづけた。
ところが、ガリオがアカヤの総督であった時、ユダヤ人たちは一緒になってパウロを襲い、彼を法廷にひっぱって行って訴えた
使徒19:8-10
それから、パウロは(エフェソの)会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼(=パウロ)は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。
使徒20:1-3
騒ぎがやんだ後、パウロは弟子たちを呼び集めて激励を与えた上、別れのあいさつを述べ、マケドニヤへ向かって出発した。そして、その地方をとおり、多くの言葉で人々を励ましたのち、ギリシヤにきた。彼はそこで三か月を過ごした。
Ⅱコリント12:2
わたしはキリストにあるひとりの人(=パウロ自身)を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた
使徒20:31
だから、目をさましていなさい。そして、わたし(パウロ)が三年の間、夜も昼も涙をもって、あなたがたひとりびとりを絶えずさとしてきたことを、忘れないでほしい。
使徒24:27
さて、二か年たった時、ポルキオ・フェストが、ペリクスと交代して任についた。
使徒28:30
パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ
※ここでは、エルサレムでの使徒会議から第2回世界宣教でのコリント滞在までを1年とする。つまり、使徒会議を西暦49年として考える。

パウロが啓示を受けたのは西暦32-33年頃であり、その後アラビアへ出て行った。
パウロは西暦35-36年頃にエルサレムに上り、キリキヤの首都タルススへ行った。
パウロは天に引き上げられる幻を見たのは西暦42年頃である。
バルナバがアンティキオアに贈られたのは西暦48-49年頃である。
エルサレムの使徒会議に出席したのは西暦49-50年頃である。
第2回の世界宣教でコリントに滞在したのは、西暦50年後半頃から52年前半頃までの1年半である。
第3回の世界宣教でエフェソスに滞在したのは、西暦53-55年頃である。
第3回の世界宣教でマケドニアやギリシャに滞在したのは西暦56年頃である。
パウロがエルサレムで逮捕されたのは西暦57年頃である。
パウロがローマに移送されたのは西暦59年以後であり、西暦61-63年頃までローマで宣教した。
最終更新:2017年04月02日 07:09