マルコによる福音書

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マルコによる福音書(ギリシア語: Κατά Μάρκον Ευαγγέλιον、ラテン語: Evangelium secundum Marcam)は新約聖書中の一書。『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』の三つは共通部分が多いことから共観福音書とよばれる。

ヒエロニムス以降、伝統的に新約聖書の巻頭を飾る『マタイによる福音書』の次におさめられ、以下『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』の順になっている。執筆年代としては伝承でペトロの殉教の年といわれる65年から『ルカ福音書』の成立時期である80年ごろの間であると考えられる。高等批評においても、四つの福音書の中では最も早くに書かれたと断定されており、成立年代は65年から70年頃とされている。

著者(伝承)

強いて言うならば冒頭部分だけが著者の言葉である。(マルコ1:1)
神の子イエス・キリストの福音の初め。

マルコと言う名前は、「マルコと呼ばれていたヨハネ」として使徒言行録に現れる。(使徒12:11-12)
ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。
その後、主の天使がヘロデを打ち倒すと、「マルコと呼ばれていたヨハネ」はバルナバやサウロ(パウロ)と共に向かった。(使徒12:25)
バルナバ(マルコのいとこ)とサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。
このとき、「マルコと呼ばれていたヨハネ」は二人の助手となっていた。(使徒13:4-5)
聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。
しかし、「マルコと呼ばれていたヨハネ」は結局二人から離れてエルサレムに帰ってしまった。(使徒13:13)
パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。
このように、パウロの最初の宣教旅行にバルナバと同行した「マルコとよばれたヨハネ」だが、パンフィリア州から一人エルサレムへ帰ってしまった。パウロはこのことを根に持っており、第二回宣教旅行ではパウロがマルコの同行を拒否してバルナバと喧嘩別れしてしまう。マルコは結局バルナバと共にキプロス島へ向かった。これは西暦50年頃のことと推定される。使徒行伝ではマルコについての記述はここで終わっている。(使徒15:35-40)
しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多くの人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」バルナバは、マルコと呼ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったような者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動をとるようになって、バルナバはマルコを連れてキプロス島へ向かって船出したが、一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した。

使徒言行録での記録はここで終わっているが、『フィレモンへの手紙』では協力者の一人としてパウロはマルコの名前をあげている。獄中書簡である『フィレモン』の成立時期は一般に上述の事件よりあとと考えられており、ある説では、決別とフィレモンへの手紙の間に、パウロとマルコが和解したと考える。(フィレモン23-24)
キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。
これが事実なら、マルコはこのときパウロとともにローマに可能性がある。

さらに、パウロの書簡かどうか説が分かれている『コロサイの信徒への手紙』では、「バルナバのいとこ」マルコがパウロの協力者として挙げられている。(コロサイ4:10)
わたしと一緒に捕らわれの身となっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこマルコが、あなたがたによろしくと言っています。このマルコについては、もしそちらに行ったら迎えるようにとの指示を、あなたがたは受けているはずです。

使徒ヨハネの弟子と伝えられるパピアスによると、次のように、福音記者マルコはペトロの通訳だったという。(エウセビオス『教会史』3巻39章15節に引用された、パピアス『主の言葉の解釈』の断片)
長老たちによれば、マルコはペトロの通訳になり、ペトロの記憶していたことを忠実に記録したという。しかし、それは決してイエスの生涯における時間の流れに正確に沿ったものではなかった。マルコ自身はイエスに会ったことはなく、ペトロからイエスについて聞いたのである。しかしペトロの言葉も聴く人々のその時々の必要に応じたものであって、決してイエスの言葉を体系的にまとめることを意図していなかった。マルコ自身に関していうなら、彼はペトロから聞いたことを忠実に記録し、決して自ら加筆修正することはなかった。

エウセビオスの引用をよく読むと、マルコの記録したものは単なるイエスの言葉などであって、決して福音書のようなまとまったものでなかったことがわかる。この記述からはマルコが福音書を書いたということは結論づけられない。しかし、マルコによる福音書の原型がこれであったという可能性は考えられる。

一方、アレクサンドリアのクレメンスによれば、マルコによる福音書が書かれたのはローマであり、ペトロによって語られた言葉を記録しておくように人々がマルコに勧めた結果書かれたものであるとしている。(エウセビオス『教会史』6巻14章5-7節に引用されたクレメンスの記述)
クレメンスは同じ書物の中でさらに、福音書の順序について初代の長老たちの言い伝えを以下のように引いている。彼は言う。
『最初に書かれたのは系図を含む福音書である。『マルコによる福音書』は、次のような経緯から生まれた。すなわち、ペトロがローマで人々に御言を伝え、長い間、霊に動かされて福音書を宣言した時、居合わせた大勢の人々は、長い間、彼に付き添い、語られた[言葉]を覚えているマルコにその言葉を書き留めておくように勧めた。マルコはそうした。そして、それを求めた人たちにその福音書を分かち与えた。ペトロはそのことを知った時、熱心に反対するわけでもなく、勧めるわけでもなかった。しかし、最後のヨハネは、外面的な事実が[三つの]福音書の中で既に説明されているのを知っていたので、弟子たちに勧められ、そして霊に突き動かされた時、霊的な福音書を書いた。』

またマルコは伝承によればアレクサンドリアの教会の創建者であり、正教会(ギリシャ正教)とコプト正教会(非カルケドン派)の両派で初代アレクサンドリア総主教とされている。聖マルコの不朽体と伝えられる遺体も元々アレクサンドリアに保存されていたことから、マルコは最終的にエジプトへ向かい、そこで亡くなったと考えられていたようである。

著者(高等批評)

伝承では、『マルコ福音書』はラテン語を母語とするヘレニストの著者によってローマ帝国内のギリシャ語話者を対象に書かれたと考えられてきた。その理由としてユダヤ教の習慣が非ユダヤ教徒向けに解説されていること(たとえば7:1-4など)、アラム語の単語に解説がつけられていること。また他の福音書にはみられないラテン語的なギリシャ語表現が含まれていることなどであり、これらのことからマルコ福音書の著者はギリシャ語を外国語として用いたと考えられてきた。

しかし、高等批評により、本福音書が「マルコと呼ばれたヨハネ」だと仮定すると、作者がマルコがどうかは不明だが、少なくともパピアスによる伝承には問題点があることがわかってきた。

『マルコによる福音書』ではガリラヤの地理に関する記述で混乱や誤りが見られる。これは著者あるいは著者に情報を提供したものがガリラヤの地理に明るくなかったことを意味しており、その点でもペトロの情報をもとにしたとはいいがたい。(しかしながら、ペトロの証言をもとに、イエスの言行録のようなものをマルコが作成した可能性までは否定できない。)

また、マルコ福音書は伝統的にはローマで書かれたとされてきたが、その根拠はローマでのキリスト教徒への迫害であった。しかし、迫害は散発的にローマ以外でも起きていたため、根拠にはなりがたいことがわかった。結局、『マルコ福音書』の著者が誰でどこで書かれたのかということに関してはなんら決め手がないのである。

数十年の間に疑義が呈され、現在ではおそらくシリアのどこかであるという説が有力になっている。ローマ説の根拠は『マルコ福音書』のギリシャ語にラテン語の影響が見られることであったが、それはローマ帝国内であればどこでも言えることである。

それ以上にパピアスのいうマルコが誰なのかということがよくわからないという問題がある。偽書とみなされる『ペトロの第1の手紙』5:13でも協力者マルコについて言及されているが、マルコというのは1世紀では非常にありふれた名前だったのである。

なお、全ての福音書の始まりであるマルコ福音書では、ユダヤ教徒の代表としてファリサイ派が描かれている。しかし、イエスの時代においては必ずしもファリサイ派が主流派ではなく、西暦70年にエルサレムが陥落して以降のことである。この観点から、マルコ福音書が書かれたのは70年代の半ばであると推測される。

マルコ福音書以前には、教会内の口頭伝承に加え、Q資料や、イエスの受難をまとめた何らかの書物があったと考えられる。しかしこれらの伝承は恐らく系統だったものとなっておらず、マルコ福音書著者がこれらをまとめて一冊の書物の形にしたと考えられる。

構成

  • 公生涯の準備(1:1-14)
  • ガリラヤ及びその周辺での公の活動(1:15-8:30)
  • ガリラヤにおける私的な活動(8:31-9章)
  • ユダヤにおける活動(10-13章)
  • イエスの死と復活(14-16章)

終わり方の問題

マタイによる福音書は高等批評により、16章8節で唐突に終わっていることがわかった。16章9節-20節は存在しない写本があり、バチカン写本、シナイ写本、および12世紀の小文字写本の1つの計3写本において欠けている。ただし、バチカン写本やシナイ写本では該当部位は同じ大きさの空欄となっている。
また、多くの初代キリスト教会の著述家は、マルコ16:18の毒を飲んでもクリスチャンは害されないという主の言葉に言及している。例えば、パピアス(紀元110年、エウセビウスの『教会史』(Ⅲ.39))、テルトゥリアヌス(紀元212年、『蠍』(15))、ヒッポリュトス(『使徒伝承』(36.1))などにもすでに引用されている。
さらに、内容面から見てもそれ以前とのつながりが悪く、他の福音書の内容を統合したような内容となっている。マルコ福音書を参考にして書かれたとされるマタイ福音書やルカ福音書においても、復活後の記述は一致しない。
これらのことから、16章9節-20節は紀元110年時点ですでに存在したものの、バチカン写本やシナイ写本が書かれた4世紀時点において、16章9節-20節が存在する写本と存在しない写本が存在しており、問題になっていたことが予想される。さらに、もともとマルコ福音書は16章8節で終わっており、他の全ての福音書が書かれた時点で書かれた可能性が指摘される。

フリア・ロギオン(Freer Logion)

マルコ福音書16章の長い結び(9-20節)の14節と15節の間に挿入される付加文である。
結局、イエスは11人(の使徒ら)の元に現れた、その時彼ら(使徒ら)は机に寄りかかり、彼ら自身の不信仰と心のかたくなさのために彼ら自身を咎めていた、なぜなら彼ら(使徒ら)は彼(イエス)が現れた後に彼(イエス)を見た人たちを信じなかったからである。11人(の使徒ら)は言い訳をした。「この不法と不信の時代はサタンによって支配されているのです、サタンは汚れた霊を用いて、真実が知られることを許していないのです。だから、」彼ら(使徒ら)はキリストに言った。「あなたの正しさを今明らかにしてください。」
キリストは彼らに答えた。「サタンの力の年月の手段は埋められた、他の恐ろしいことが、私を死に追いやった人々の罪のために、彼ら自身の近くに近づいたけれど。彼らは戻ってこれ以上の罪を犯さないかもしれないが、そのために彼らは不滅と天における聖霊の栄光を受け継ぐだろう。」

なお、マルコ福音書16章の結びは7種類あり、以下のように分類される。
(1).M
(2).M+☆+L
(3).M+L
(4).M+S
(5).M+S+L
(6).M+L+S
(7).M+L1+F+L2

M:16章1-8節
L:9-20節(長い結び)〔L1:9-14節、L2:15b-20節〕
S:短い結び
F:フリア・ロギオン
☆:星印等の記号

「聖書」(口語訳、1955)では(3)、「聖書」(新共同訳)及び「聖書」(フランシスコ会訳、2011)では(6)になっている。また、岩波版の聖書では(5)になっている。