ローマのクレーメンス

使徒教父である。

史実の裏づけはないが、伝承ではペトロを直接知る人物であり、パウロの書いた「フィリピの信徒への手紙」4:3に現れるクレメンスとは彼のことである、といわれてきた。

彼の手によるといわれる「クレメンスの第一の手紙」(96年)はコリントスの教会で起きたトラブルを仲裁しようとしたクレメンスの書簡である。カトリックを中心に、ここから諸教会の仲介役としてローマ司教が役割を果たしていたと考え、それが後の教皇制度の萌芽になっていくと見るむきもある。一方、これをクレメンスがローマ教会の権威を他教会に及ぼそうとしたのであって、ローマ教会が常時そのような役割を果たしていたとは考えない学者もいる。

伝統的にクレメンスに帰された「クレメンスの第二の手紙」は、今日では2世紀半ばごろの成立と推測され、クレメンスの作ではないと考えられている。

死についての詳細は不明であるが、彼も初期のローマ司教たちと同じように殉教したと推測される。ローマ帝国の版図となっていたクリミア半島のケルソネソスで致命したという伝承があり、既にキリスト教が黒海沿岸のギリシア植民市に広まっていたことが示されている。ただしこの地域におけるキリスト教は、ルーシ内陸部にまでは定着しなかったとされる。

参考

最終更新:2020年09月29日 17:41