ヨベル書は、完全な形では15-19世紀に由来する四つのエチオピア語写本の中に存在する。そのうち、一つはパリに、一つは大英博物館に、一つはテュービンゲン大学図書館に保管されている。
A・ディルマンは1859年にヨベル書の本文を成立年代の若い二つの写本に基づいて公刊し、R・H・チャールズは1895年に四つの既知の写本に基づいた新しい校訂本をこれに続けた。
M・A・ケリアニは1861年にラテン語訳の断片を出版した。これは本文の四分の一を含んでいるが、1874年にH・レンシュにより新しい校訂方法によって再度公開された。
エチオピア語版もラテン語版もそれに由来しているギリシア語訳の引用が、エピファニゥスの"Περι μετρων και σταθμων〔度量衡について〕"に見出される。
最後に、クムラン(
死海文書)で本書の10個以上のヘブライ語写本断片が現われたが、これはそこでヨベル書に与えられていた意味を示す証拠である。
ヨベル書はこのように、種々の翻訳に見出されるヘブライ語法も明白に示している通り、元来ヘブライ語で著わされていたものである。
死海文書に本書の断片が存在することから、著者がクムラン教団と何らかの関係をもつ人であり、著作年代は、前2世紀の中頃と推定されるに至った。
その後に(おそらくヘレニズム時代のエジプトで)キリスト紀元前後にギリシア語に移されたものと推測される。ラテン語訳は、H・レンシュによれば、紀元後5世紀にギリシア語版から作られたものと考えられる。エチオピア語訳もギリシア語版に由来している。
名称
エチオピア語では、本書は上書きと後書きにmashafa kufaleという名称を記している。ヘブライ語の資料からは〔ヨベル書〕および〔小
創世記〕という名称が知られており、これに対してギリシア語では、"τα ’Ιωβηλαια"あるいは"οι 'Ιωβηλαια〔ヨベル書〕"および"η λεπτη Γενεσιζ〔小
創世記〕"が対応している。これと並んで、古代教会の文献には更に多くの名称、例えば「モーセの黙示」あるいはモーセの「遺言」、「アダムの娘達の書」あるいは「アダムの生涯」等が存在していた。
内容
本書は、出エジプトの第1年3月16日、モーセに対する神の語りかけをもって始まる。そこでモーセは山に登り、律法を記した二枚の石の板を受けるようにと命ぜられる。次いで神の御前に侍る天使が神の命令に基づいて発言し、創造の始めから、モーセが律法を受けるまさにその瞬間までの歴史を物語る。全体が49回のヨベル(1ヨベル=49年の周期)に区分され、正典外の民話や律法解釈上の固有の伝承(太陽暦による祭儀法など)が加えられる。
ヨベル書の様式と類型
本書は、モーセに対する神の語りかけを装っており、「御前の天使」の語りかけがこれを引き維いでいる。この天使は、始源史、族長たちの歴史、エジプトでの出来事から、山上での(ただし山の名はあげられていない)モーセに対する律法の譲渡に至るまでを、多種多様な訂正・拡大・縮少を加えながら物語る。その際、この語り手はP資料に、その他の五書資料によりも、密着している。
しかしP資料と異なって、語り手は、すでにアダムが麗しい香りとして薫香を献げ(三・二七)、ノアが罪祭と燔祭とを献げたとしている(六・二以下)。一連の律法規定を、語り手はすでに始源史の中に、例えばすでに楽園の
アダムとエバのもとに、息子あるいは娘の誕生後の女の不浄に関する規定を根拠づけている。しかし特に語り手は、年週およびヨベルの年に基づいて数えられる絶対的年代の中に全歴史叙述をはめ込んでいる。このようにして語り手は、この観点から見て創世紀のP資料に足りないと思ったものを補っているのである。
著作年代
著作年代はかなり正確に決められる。R・H・チャールズは、レビ(三二・一「いと高き神の祭司」というハスモン家(ハススモン朝)出身の大祭司にのみ用いられた称号で呼ばれていることに注意を促している。もしもシケムの破壊 (三〇・四一六)ということでヒルカヌスによって征服されたサマリアの運命を知っていたとするならば、このハスモン家の王〔ヒルカヌス〕の最後の幾年かということになり、前109~105年を想定することができる。キルベト・クムランにおける断片の出現はこれに矛盾しない。
参考
最終更新:2020年10月06日 13:31