公同書簡への高等批評

ヤコブの手紙

著者については、「主イエス・キリストの僕であるヤコブ」(1:1)と記されている。ヤコブと名のつく人物は、新約では4名おり、いずれを指すのかが問題となる(使徒ヨハネの兄弟でゼベダイの子ヤコブ、アルファイの子ヤコブ、使徒タダイの父ヤコブ、主イエスの兄弟ヤコブ)。ゼベダイの子ヤコブは紀元44年と早い時代に殉教しているので、考えにくい。他は知名度、実力が高くはない。そのため、古代教会時代の教父たちはこのヤコブを、イエスの兄弟ヤコブ(紀元62年頃没)と見なしてきた(パウロは彼を、「主の兄弟」「教会の主だった三人の一人」と呼んでいる。ガラテヤ1:19、2:9)。

ただし、研究者の多くは、別の人物が他の人物を名乗って執筆したと考え、実際の著者をいずれのヤコブとも見なさない立場を採っている。というのも、パウロから発展した信仰義認という、一種の怠惰的思想に反対したユダヤ人キリスト教徒の作と考えられるためであり、パウロ以降の人物と考えるのが妥当だからである。高等批評では一般的には西暦90年代の作と考えられている。(※ただし根拠は不明)

しかし、この書簡は真筆性がまったくないとまでは言い切れず、近年ではヤコブ本人による作の可能性も指摘されている。2013年の機関誌の記事によれば、この書簡にみられる激しい歴史的な背景を調査し、この書簡が実際にイエスの弟ヤコブによって、紀元62年の殉教より以前に書かれたという提案を行った。西暦50年代には、ユダヤ人が大敗や不正義や貧困により失望し、パレスチナでの騒動や暴力が大きくなっていった。これは60年代、ヤコブが殺された年々の間にも続いた。戦争がローマで勃発し、エルサレムの破壊と人々の散在を招いた。この書簡は、貧困と闘い、貧しい人に実践的な方法を伝え(1:26–27; 2:1-4; 2:14-19; 5:1-6)、抑圧された人のために立ち上がり(2:1-4; 5:1-6)、そして世俗の邪悪さへ応答する方法で「世俗のように」ならないこと(1:26-27; 2:11; 3:13-18; 4:1-10)を奨励するために知られていた。世俗的な知恵は排除され、平和を作って公平と正義を追い求める天の知恵を包含することを人々は奨励されている(3:13-18)。(Wikipedia英語版、"Epistle of James"より)

ペトロ書簡

ペトロの書簡という体裁をとっているが、現在では彼自身のものではないというのが通説になっている。アラム語を母語とする漁師出身のペトロが、書簡に現れる一定の水準をもったギリシア語をつづる能力があったと考えることは困難である。ただし第1書簡については、ギリシア語を話すペトロの同伴者のもので、比較的よくペトロの思想を反映している可能性を指摘する学者もいる。第2書簡は、2世紀以後の著作である可能性が指摘される。第2書簡が正典視されたのは4世紀半ば以後であり、シリア教会では6世紀まで第2書簡を正典には数えなかった。

ペトロの手紙一

近代以降の高等批評を受け入れる研究者たちの間では本書簡の著者はガリラヤ湖の漁師をしていたシモン・ペトロ本人とは思われないという見解で一致している。
理由は以下にまとめられる。

1.本書簡は洗練されたギリシア語で書かれており、アラム語話者であり通訳を用いていたペトロその人と結びつかない。アレクサンドリアのクレメンスなどはペトロのために書記として勤めたのがマルコであったという。

2.聖書の引用が35箇所あるが、4:8を除き、すべて七十人訳聖書を用いて行われている。ペトロはアラム語話者であり、先に示したように書記を必要としていたことなどを考えると、ギリシャ語の聖書を読んでいたとは考えにくい。

3.生前のイエスを知っていることを示す記述が一切ない。ペトロはイエスの直弟子であり、そのペトロがイエスの生前の言葉の引用をしないのは不自然といえる。(ただし、引用がないからと言ってペトロではない、と断言できるわけではない。例えばパウロは生前のイエスの言葉自体は知っていたが、書簡のなかで殆ど触れていない。)また、殉教を示唆する箇所(4:12以下)と、司牧者としての振る舞いを示す箇所(5:1以下)以外に、生前のペトロとすら結びつかない。

4.ペトロはパウロと緊張関係にあったはずだが、ペトロ書簡はパウロ書簡との共通点がある。これは不自然だと言わざるを得ない。(ただし、ペトロとパウロが最終的に和解した可能性を指摘する説もある。二人は最期を共にローマで過ごしている。)
ロマ13:1-3,7
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。
実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。
(略)
すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。
Ⅰペトロ2:13-15,17
主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。
善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。
(略)
すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。

5.当時の社会制度まつわる具体的な勧告(2:13以下)や、書簡の成立背景に考えられる迫害の状況(4:12以下)も、生前のペトロと関連づけられない。一般的には、こうした迫害は、オミティアヌス帝治世末期(96年頃)の帝国内のキリスト教徒への迫害を示唆していると考えた方が自然だと考えられている。(ただし、ペトロの生前にもキリスト教徒がユダヤ人から迫害を受けていたことはもちろんあったので、そうした比較的小規模な迫害のことを指しているとも考えられる。)
Ⅰペトロ4:12
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。

本書の著者に関する仮説の一つは、書簡の終わりに現れる「シルワノ」なる人物が著者ではないかというものである。5章12節には「忠実な兄弟シルワノによってこの短い手紙を書いています」とある。つまり、パウロが口頭で伝えた内容を、ギリシャ語を書くことができるシルワノが書き記したという可能性は残っている。

しかし、それでも解決できない問題がある。
1つ目は、その場合、シルワノ自身が自分のことを「忠実な兄弟」と呼ぶことになり不自然という点である。(しかし、これはペトロの指示に基づいてペトロが書いた体裁をとったとみなすこともできる。)
2つ目は、小アジアに送られている点である。80年代以降ならば可能性が考えられるが、それ以前には考えにくい。(※これについて詳しい理由がわかりません)
3つ目はより深刻である。そのあとの部分で「バビロンにいる人々」とあるが、当時のキリスト教徒の間で「バビロン」といえばローマのことであった(「黙示録」より)。しかし、このような比喩が広がったのはエルサレム神殿崩壊以降であり、キリスト教との間で一般化したのは黙示録よりあと(90年~96年)である。こう考えると、ペトロの生前である60年代にこのような表現があったとは非常に考えにくい。本書簡の成立時期は明らかに黙示録よりあと(90年~96年)と考えるのが自然である。

したがって、一つの仮説としては、生前のパウロを知る人物(例えばシルワノなど)が、1世紀末のキリスト教徒への弾圧の際に、師の名を借りて書いた書簡である可能性がある。いずれにしても、ペトロ本人が書いたという可能性は極めて低い。

ただし、その成立時期については、高等批評では一般的に西暦90年代とされるが、クレメンスの第一の手紙には本書簡からの引用と思われる箇所があり、それを考えると本書簡はこれより早期に書かれていた可能性もある。その場合、ペトロの直弟子が代筆したという可能性はより高くなると思われる。


ペトロの手紙二

こちらについてはもはやペトロが書いたとは信じられていない。偽名書簡と見る場合、執筆時期の根拠とされる記述はいくつかある。その1つが、3章15節および16節でパウロの手紙が広く読まれているとされている箇所である。この箇所から本書が成立した時期には、すでにパウロの手紙がまとめられ、旧約聖書のような権威を獲得していたことがわかる。これがパウロの生前に起こっていたとは考えづらいのである。

2ペトロ3:15-16 
また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。

2つ目の点が、3章3・4節のくだりで、ここで語られる「先祖」は、イエスを直接知る第一世代のキリスト者を指していると理解される。ゆえに、その人々がすでに死んでかなり経ったものとして語られている以上、ペトロ自身が書いたものとは考えられず、より後の時代の人が書いたと考えられる。

Ⅱペトロ3:3-4
まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう

3つ目の点は時制である。第二ペトロ書はペトロが生きていた時代よりも後に出現する偽教師について批判している。当然、それは未来形で語られ始めるが、次第に現在形になり、最後には完了形になっており、偽教師に直面している同時代人の不徹底な偽装を疑われている。

Ⅱペトロ2:1
かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。

Ⅱペトロ2:3
彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。

Ⅱペトロ2:20-21
わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、 前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。

また、第二ペトロ書はユダ書との関連がある。ユダ書の方が短いことなどからも、第二ペトロ書はユダ書を参考に書かれてたと考えられる。

ヨハネ書簡

ヨハネの手紙第一、第二、第三の三書簡は、『ヨハネによる福音書』と同一の作者による可能性は指摘されているが、高等批判の立場をとる岩波訳ヨハネ福音書の解説では、「現在では多くの人々が古い伝統の主張を史実とは認めない」と述べた上で、その理由として以下を上げている。
(1)ガリラヤの漁師であったヨハネがこのような文体の文書や思想の持ち主とは考えられないこと。
(2)2世紀には、新約の文書を十二使徒と結びつける傾向があったこと。
(3)ヨハネ福音書には資料が用いられていること。
(4)一人の人物が書いたと見るのは難しいこと。
〔『ヨハネ文書』新約聖書Ⅲ、岩波書店(1995年)解説141~42頁〕。
ただし、この見解は、ヨハネ福音書を1個人の作品と言うよりヨハネ共同体全体から産まれた作品と見て、最初の著者が遺したものにさらに手が加えられたと見る「増補改訂仮説」をとっているヨハネ福音書への高等批評を参照せよ)ため、ヨハネ福音書の成立それ自体に関して言えば、教父以来の伝承説、すなわち、使徒ヨハネによる伝承や口述をもとに弟子たちが福音書を書いたと考えれば矛盾はないのである。ただしこの場合、『ヨハネによる福音書』と作者が共通であることが指摘されているヨハネ書簡については、使徒ヨハネの作ではなく、ヨハネ共同体の作ということになる。

ユダの手紙

新約聖書に含まれ、「公同書簡」の一つとされている。本書簡において、著者は自らを「ヤコブの兄弟ユダ」(1:1)と述べている。この場合のヤコブの兄弟ユダとは、イエスの弟のユダを指している以外に考えにくい(参照、マルコ6:3「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」)。

しかし、グノーシス主義への論駁が認められる本書簡の成立は、1世紀末から2世紀初頭と考えられ、その真筆性は一般の学説においては認められていない。第2ペトロ書と思想的類似性が観察される。

最終更新:2017年04月02日 22:43