出エジプト記からヨシュア記までの年表

レビ

創世記29:34
彼女(レア)はまた、みごもって子を産み、「わたしは彼に三人の子を産んだから、こんどこそは夫もわたしに親しむだろう」と言って、名をレビと名づけた。
出エジプト6:16
レビの子らの名は、その世代に従えば、ゲルション、コハテ、メラリで、レビの一生は百三十七年であった。
レビがいつ生まれたのかは不明だが、ヤコブのラバンへの、始めの7年の仕えの後のことであるのは間違いないため、ヤコブのラバンへの仕えの10年目にレビが生まれたと仮定すると、上で算出したようにヤコブがラバンに出会ったのをアダム歴2179年頃と考えられるので、以下のようになる。
レビはアダム歴2189年頃に生まれ、アダム歴2326年頃に死んだ。

コハテ

創世記46:8-11
イスラエルの子らでエジプトへ行った者の名は次のとおりである。すなわちヤコブとその子らであるが、ヤコブの長子はルベン。(略)レビの子らはゲルション、コハテ、メラリ。
出エジプト6:18
コハテの子らはアムラム、イヅハル、ヘブロン、ウジエルで、コハテの一生は百三十三年であった。
詳細は不明だが、次の2点からある程度類推できる。
  • アダム歴2238年にすでに生まれている。
  • モーセがアダム歴2373年に生まれた。
アダム歴2230年頃頃生まれ、アダム歴2360年頃死んだと推測される。

アムラム

出エジプト6:20
アムラムは父の妹ヨケベデを妻としたが、彼女はアロンとモーセを彼に産んだ。アムラムの一生は百三十七年であった。
詳細は不明だが、次の2点からある程度類推できる。
  • モーセがアダム歴2373年に生まれた。
  • アダム歴2453年の出エジプト以降に全く言及されていない
アダム歴2300年頃生まれ、アダム歴2440年後頃死んだと推測される。

レビ族アムラムの子ミリアム

そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムは(略)
民数記20:1
イスラエルの人々の全会衆は正月になってチンの荒野にはいった。そして民はカデシにとどまったが、ミリアムがそこで死んだので、彼女をそこに葬った。
(※アダム歴2453年を、エジプト脱出の1年目と定義し直す。)
ミリアムはアダム歴2370年以前に生まれ、アダム歴2493年1月頃にカデシュで死んだ。

レビ族アムラムの子アロン

民数記33:38-39
イスラエルの人々がエジプトの国を出て四十年目の五月一日に、祭司アロンは主の命によりホル山に登って、その所で死んだ(=民数記20:2-29)。アロンはホル山で死んだとき百二十三歳であった。
(※アダム歴2454年を、エジプト脱出の1年目と定義し直す。)
アロンはアダム歴2370年に生まれ、アダム歴2493年5月1日にホル山で死んだ。

レビ族アムラムの子モーセ

出エジプト記7:6-7
モーセとアロンはそのように行った。すなわち主が彼らに命じられたように行った。彼らがファラオと語った時、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。
出エジプト記12:40-41(マソラ本文
イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。
出エジプト記12:40-41(七十人訳)
イスラエルの人々がカナンの地とエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。
出エジプト記13:3-4
モーセは民に言った、「あなたがたは、エジプトから、奴隷の家から出るこの日を覚えなさい。主が強い手をもって、あなたがたをここから導き出されるからである。種を入れたパンを食べてはならない。あなたがたはアビブの月(一月)のこの日に出るのである。」
民数記33:3
彼らは正月の十五日にラメセスを出立した。すなわち過越の翌日イスラエルの人々は、すべてのエジプトびとの目の前を意気揚々と出立した。
出エジプト記16:1
イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきた
出エジプト記16:35
イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた。
出エジプト記19:1
イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野にはいった。
出エジプト記40:1-2
主はモーセに言われた。「正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない。」
民数記9:4-5
そこでモーセがイスラエルの人々に、過越の祭を行わなければならないと言ったので、彼らは正月の十四日の夕暮、シナイの荒野で過越の祭を行った。
民数記1:1
エジプトの国を出た次の年の二月一日に、主はシナイの荒野において、会見の幕屋で、モーセに言われた
民数記10:11-12
第二年の二月二十日に、雲があかしの幕屋を離れてのぼったので、イスラエルの人々は、シナイの荒野を出て、その旅路に進んだが、パランの荒野に至って、雲はとどまった。
ホレブからセイル山の道を経て、カデシ・バルネアに達するには、十一日の道のりである。
民数記14:33
あなたがたの子たちは、あなたがたの死体が荒野に朽ち果てるまで四十年のあいだ、荒野で羊飼となり、あなたがたの不信の罪を負うであろう。
申命記2:14
カデシ・バルネアを出てこのかた、ゼレデ川を渡るまでの間の日は三十八年であって、その世代のいくさびとはみな死に絶えて、宿営のうちにいなくなった。
民数記20:1
イスラエルの人々の全会衆は正月になってチンの荒野にはいった。
申命記1:3
第四十年の十一月となり、その月の一日に、モーセはイスラエルの人々にむかって、主が彼らのため彼に授けられた命令を、ことごとく告げた。
申命記34:7
モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。

なお、この430年の期間の意味については、七十人訳聖書を読んでいたとされるパウロによるガテラヤ書で次のように書かれている。

ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。

実際、仮に「エジプトに移住してから430年後」と考えると、次の問題が生じる。
イスラエル人がエジプトに移住したのは、アダム歴2238年である。
移住した時、すでにコハテは生まれていた。
コハテとアムラムの寿命は単純に合計すると133+137=270年である。
しかし、モーセが生まれたのは移住後350年後なので、これは矛盾する。

では、以下に、アブラハムがカナンにやってきたアダム歴2023年を起点として計算し直す。
モーセはアダム歴2373年に生まれ、アダム歴2493年に死んだ。
(※アダム歴2454年を、エジプト脱出の1年目と定義し直す。)
イスラエル人がカナンやエジプトに住んでいたのは、アダム歴2023年~2453年である。
アダム歴2454年1月15日にエジプトを出発し、2月15日にシンの荒野に到着し、3月15日頃にシナイの荒野に入った。
アダム歴2455年1月1日に初めての会見の天幕を建造し、1月14日に初めての過越の祭りを行った。
アダム歴2455年2月1日に人口調査し、2月20日にシナイの荒野を離れて出発した。
アダム歴2455年3月3日にカデシュ・バルネアに達した。
アダム歴2455年~2492年までの38年間、カデシュに留まることを強いられた。
アダム歴2493年1月にチンの荒野に入った。
アダム歴2493年5月1日にホル山に登った。
アダム歴2493年11月1日にアラバで死んだ。

エフライム族ヌンの子ヨシュア(旧名ホセア)

民数記13:25
四十日の後、彼らはその地を探り終って帰ってきた。
民数記14:29-30
あなたがたは死体となって、この荒野に倒れるであろう。あなたがたのうち、わたしにむかってつぶやいた者、すなわち、すべて数えられた二十歳以上の者はみな倒れるであろう。エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、わたしがかつて、あなたがたを住まわせようと、手をあげて誓った地に、はいることができないであろう。
ヨシュア4:19
民は正月の十日に、ヨルダンから上がってきて、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。
ヨシュア5:10-12
イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕暮、エリコの平野で過越の祭を行った。そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。
ヨシュア24:29
これらの事の後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ
こうして主のしもべヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。
ヨシュアとカレブら12人はアダム歴2455年3月~4月の間、カナンを偵察した。
アダム歴2494年1月10日にヨルダン川を越えてきた。
アダム歴2494年1月14日に過越の祭を行い、1月16日以降はマナを得られなくなった。

聖書からはこれ以上情報がないので、ヨセフスのユダヤ古代誌を見ると、次のように書いてある。
第5巻1.28
そこでヨシュアはこの大いなる民衆の集会を解散させ、自分たちの嗣業に送り、その間彼自身はシケムに住んでいた。しかし、20年後、彼は非常に老いていたとき、いくつかの都市で、権威ある者、上院議員、存在する可能性のある一般市民の中で、最も尊厳のある人々を送った。... ヨシュアは、こうして彼らに話しかけたとき、死んだ、百十年生きた。
また、下で示すように、カレブ85歳(=アダム歴2500年)のときにカナン征服が終わった。
これより、ヨシュアはアダム歴2410年に生まれ、アダム歴2520年に死んだことがわかる。

ユダ族ケナズ人エフネの子カレブ

民数記13:25
四十日の後、彼らはその地を探り終って帰ってきた。
ヨシュア14:7
主のしもべモーセが、この地を探るために、わたしをカデシ・バルネアからつかわした時、わたしは四十歳でした。
ヨシュア14:10
主がこの言葉をモーセに語られた時からこのかた、イスラエルが荒野に歩んだ四十五年の間、主は言われたように、わたしを生きながらえさせてくださいました。わたしは今日すでに八十五歳ですが、
士師記1:12
(ヨシュアの死後)時にカレブは言った、「キリアテ・セペルを撃って、これを取る者には、わたしの娘アクサを妻として与えるであろう」
カレブはアダム歴2415年に生まれた。
ヨシュアとカレブら12人はアダム歴2454年3月~4月の間、カナンを偵察した。
アダム歴2500年に、征服したカナンの地を分割した。
いつ死んだのかは不明だが、ヨシュアが死んだ後まだ生きていることから、長く生きたことがわかる。
なお、ケナズ人が何かは不明だが、おそらくユダ部族のうちケナズと呼ばれる未知の人物の子孫と思われる。
最終更新:2017年07月24日 18:26