真田 信繁(さなだ のぶしげ 1567年または1570年 - 1615年6月3日)
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
信濃国(長野県)の国衆真田氏の出自で、真田昌幸の次男。幼名は弁丸、通称は源次郎。
よく言われる真田幸村の名は後世に作られたもので、本来の名前は真田信繁。
真田家が仕えていた武田信玄の弟であり、武田の副将でもあった武田典厩信繁に肖って名付けられたという。
父・昌幸は真田幸綱の三男であり、武藤家に養子に出されていたため出生当初の名は武藤弁丸。
出生地は甲斐国(山梨県)であった可能性が高いと考えられる。
1575年に長篠の合戦で昌幸の兄・信綱と昌輝が討死すると、昌幸は武藤家を離れ真田家の家督を継ぐ。
この時幸村も父と共に武藤家を離れ、以降は真田家の人間となった。
1582年に武田家が滅亡し、更にその3ヶ月後には織田信長が本能寺の変で横死する。
信長の家臣、滝川一益が伊勢に帰還する際に国衆から人質を徴収したため、幸村は一時的に一益の人質となる。
しかし、一益が木曽義昌の領国を通過する際に人質を引き渡したため、今度は義昌の人質となる。
ほどなくして、人質から解放され真田家に戻ったとされる。
1585年に昌幸が徳川と手を切り上杉への従属を決めると、今度は上杉景勝の下に人質として赴く。
この際、昌幸の父方の従弟である矢沢頼幸(頼康とも)が供奉役として同行した。
上杉から幸村には、信濃に屋代家の旧領の一部1000貫文(約3000石)の所領が与えられており、
単なる人質ではなく客将としての待遇を受けた。幸村は頼幸の補佐を受け、領地経営に励んだとされる。
なお、この所領は後に上杉に返還されている。
1587年に昌幸が上洛し豊臣秀吉に従属したのに前後して、幸村は秀吉の下に人質として赴く。
その後、時期は不明だが秀吉の馬廻衆に引き立てられる。
やがて幸村は1万9000石の知行取りとなり、国衆の次男坊から大名格へと栄達を遂げる。
伏見城の普請役を課された後、1594年には従五位下左衛門佐に叙任された。
更に時期は不明だが、秀吉の家臣大谷吉継の娘を妻に迎えている。
この結婚は秀吉の意向によるものである蓋然性が高く、
幸村が豊臣政権の一翼として組み込まれたことを意味する。
秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いの際に幸村は父・昌幸と共に西軍に付く。
これが東軍に付いた兄・信幸との決別となった。
第二次上田合戦にて昌幸と共に徳川秀忠率いる大部隊を苦しめるが、
関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、幸村は昌幸と共に紀伊国(和歌山県)九度山に配流となる。
昌幸の死後、1614年に豊臣と徳川の関係が悪化すると、
幸村は豊臣の呼びかけに応じて九度山を脱出し、大坂城に入った。
その後、大坂城の南に出城を築き徳川の侵攻に備えた。
大坂冬の陣にて幸村はこの出城を拠点とし、巧みに敵をおびき寄せては、銃撃を浴びせて撃退したとされる。
幸村が活躍したことにより、この出城が「真田丸」の名で呼ばれるようになったという。
その後、一旦講和が成立したため、出城は堀の埋め立てと共に取り壊された。
1615年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いにおいて伊達政宗隊の先陣を撃退する。
その後、大坂方が撤退する際には敵の背後を衝いて戦線を一旦押し戻してから帰陣している。
その翌日、最後の戦いとなった天王寺・岡山の戦いにおいて幸村は、
松平忠直の陣をすれ違うような形で突破し、徳川家康の本陣へと迫る。
3度の突撃により家康の馬印が打ち倒され、家康本陣は一時大きな混乱に陥ったという。
しかし衆寡敵せず、幸村の部隊は疲弊の限界に達し、遂にはこれ以上の突撃を断念した。
最期は武田旧臣でもある越前藩士西尾久作によって討たれたという。
大坂の陣における幸村の武名は高く評価された。その中でも島津忠恒が残した
「真田日本一の兵、いにしへよりの物語にもこれなき由」の一節は特に有名である。
信濃先方衆筆頭に上り詰め、攻め弾正と謳われた祖父・幸綱、
初陣で一番槍の功名を挙げた剛の者であった伯父・信綱、
二度の上田合戦で徳川を散々苦しめた、乱世の雄というべき父・昌幸、
手子丸城の戦いや第一次上田合戦で活躍し、治世の名君でもあった兄・信幸、
幸村はこれら真田四代当主に引けを取らぬ武勇を見せ、伝説の英雄としてその名を刻んだのであった。
信繁が幸村の名で知られるようになったのは江戸時代前期の軍記物「難波戦記」で名付けられたのがそのまま広まり、
兄・信之の子孫である松代藩の史書にその名が採用されたのが始まりである。
伊達政宗とはこの二人が面会、もしくは接触したという話はなく、
大坂夏の陣において伊達の噂に名高い鉄砲騎馬隊を奇襲で撃破したくらいの接点しかない。
ただ幸村の三女・阿梅は大坂夏の陣での幸村の戦死後、片倉小十郎(二代目)によって仙台に連れ帰られており、
次男・守信と六女・阿昌蒲は阿梅の縁で片倉家を頼ったとされる。
その後、守信の家系は仙台真田家という伊達家の家臣として現在も存続しているため、やはり接触もあったのでは?という説も存在する。
もっとも主家を失った家臣団を登用するというのは、当時においてはよくあった事なので、
接触が無くとも普通に行われても不思議なことではない。
また真田家は幸村の兄・信之が徳川側につき、徳川の重臣である本多忠勝の娘と婚姻を結んでいるため、其処から頼まれたとも言われる。
ちなみに信之は真田の滅亡を防ぐために徳川側についたとも言われており、実際に信之の家系は明治まで続いた。
参考文献 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社新書、2015年)