臓器移植後の記憶転移

概説

記憶転移とは、臓器移植に伴って提供者(ドナー)の記憶の一部が移植患者、受給者(レシピエント)に移るとされる現象である。ドナーの趣味嗜好や習慣、性癖、性格の一部、さらにはドナーの魂と個性の一部が自分に移って体の中で生き続けていると感じているレシピエントの存在が報告されている。通常レシピエントがドナーの家族と直接の接触をもつことは移植コーディネーターや病院から固く禁じられているため、この研究は困難であるとも言える。

クレア・シルヴィアの事例

1988年、クレア・シルヴィアは原発性肺高血圧症という難病に冒されており、アメリカ合衆国コネティカット州のイエール大学付属ニューヘイヴン病院で、生きのびるための唯一の方法である心肺同時移植手術を受け、成功した。ドナーは、バイク事故で死亡したメイン州の18歳の少年だということだけが彼女に伝えられた。
ちなみに、シルヴィアの手術には、後述の記憶転移以外にも興味深い体験が含まれており、手術の前には手術がうまくいくことを示した象徴的2つの夢をみている。1つは、白い光を放ちぴかぴか光るナイフが赤ちゃんの喉仏のあたりを切り裂いたが傷つけられていないというもので、もう1つは、移植手術は痛みもなく無事に終了し歩き回っているというものである*1。また、移植手術の際、臨死体験のような体験をしており、次元を超えた空間にふわふわと浮き、エジプトへ漂っていたといい、隣に巨大な大理石の円柱が建っているのを目撃し、ゆっくりと意識を取り戻していったという。*2
手術の数日後には、体の方も順調に恢復していたが、心と体に思いもよらない変化が起こっている事に気づいた。まず、それまで好んで口にしたことなど一度もなかったビールを突如として飲みたくなったという。また、チョコバーやピーナッツバターなどの甘いものを以前とは比較にならないほどの量を食べるようになったり、手術前は嫌いだったピーマンに不思議な魅力を感じ手術後はありとあらゆる料理にピーマンを使うようになったりしたという*3。そして、以前はファーストフードの店に近寄りもしなかったが、なぜかは分からないがチキンナゲットが食べたくなり車を運転する許可が下りると最寄りのケンタッキー・フライドチキンの店に車を乗り入れていた*4。この他、性格や歩き方にも変化が見られ、性的嗜好も変化したという。そして、シルヴィアは、自宅に戻ってから、生涯で最も忘れ得ぬ夢を見たと言い、それを以下のように語っている。

 暖かい夏の日、わたしは広々とした野原に立っている。そばに長身でほっそりした、だがたくましさを感じさせる砂色の髪の若者がいる。彼の名前はティム、名字はたぶんレイトンだと思うが、確信はない。いずれにせよ、わたしは若者のことをティムだと思っている。わたしたちは陽気に冗談を言いあっている。とても仲のいい友だちといった感じだ。
 やがて時間がきて、わたしはアクロバットを演じるグループに加わるため、ティムのそばを離れなければならなくなる。ティムをその場に残して、わたしは歩き出す。だが、ふいに足をとめ、振り返る。彼になにか言い忘れていることがあるような気がしたからだ。さよならを言おうと、ティムのもとに引き返す。ティムは近づいていくわたしをじっと見つめ、わたしが戻ってくることを喜んでいるようすだ。
 わたしたちは別れのあいさつにキスを交わす――そうしながら、わたしはティムを自分の中に吸い込む。あれほど胸一杯に深く息を吸い込んだことはない。そしてその瞬間、わたしはティムと自分が永遠に解けぬ絆で結ばれたのだと感じる。*5

そして、シルヴィアはこの夢に登場した若者が自分のドナーだという強烈な確信を得た。ドナーの家族と接触することは移植コーディネーターから拒絶されたが、不思議な出会いもあり、メイン州の新聞の中から、移植手術日と同じ日の死亡事故記事を手がかりに、少年の家族と連絡を取ることに成功し、対面が実現した。少年のファーストネームはティムであり、姉の一人の語るところによれば、彼はピーマンを好み、一番の好物はチキンナゲットだったという*6。シルヴィアはその後、バイクを走らせる夢を見ているが、ティムが夢を通して訴えかけてきたと考え、バイクに乗って疾走することでティムの魂を解放する事ができたのではないかと考えており、以後クレアとティムの結びつき溶け合った第三の人格を確立することができたという。*7

その他の事例

シルヴィアが参加したサポートミーティングに出席した人たちも、移植手術後に自分はひとりではないと感じるようになったといい、自分の新しい心臓が誰かであり、その誰かとのコミュニケーションが成立していると無意識に考えているという。
サポートグループのメンバーであったトーマスという40代の男性は、ニューヨークで、事故で亡くなったティーンエイジャーの少年から心臓を提供されたという。トーマスは、手術前は何事につけても引っ込み思案で内省的だった。しかし、手術後数箇月、野球帽をかぶり外見は大人の男性であったが、中身は9歳のお喋りなやんちゃ坊主といったところだったという*8。このような退行現象は一時的なもので、しばらくすると、元通りの大人らしさを取り戻したという。また、ドナーが黒人であるかは確認できなかったが、移植手術後は以前より(人種的偏見がなく)快く黒人と付き合えるようになったという。
他にも、元造船技師のマリオは50代初め、若い男性から心臓提供を受けたといい、手術前は嫌いであったバナナが好きになったり、生活習慣が激変したりしたという。そして、妻と二人でボストン区域の教会を訪ね、イースターの日曜日に小さな教会に入ると、神父の顔に見覚えがあり、教会内がどうなっているかまで分かったのだといい、ドナーが通っていた教会だと確信したのだという*9

記憶転移の解釈

シルヴィアはまず手術の最中に医師の誰かがティムの名前を口にし、それを麻酔で意識がなくなっていたシルヴィアの潜在意識がキャッチしたという可能性を考えたが、医師もその名前を知らず、手術室は静まりかえって誰もひと言も喋らなかったという*10。シルヴィアの体験についての解釈として、憑依といった超自然的解釈から、細胞記憶という仮説を持ち出す専門家もいたといい、細胞記憶についての解釈も様々であると言える。また、人間の臓器は特定の感情のエネルギーを宿し、シルヴィアに移植された心臓に思考と感情を含めた記憶があり、その記憶が体の中の他の細胞とコミュニケーションをとり、脳にメッセージを送ったとする見方もある。
アリゾナ大学のエネルギーシステム研究所所長のゲイリー・E・シュウォーツと同僚のリング・G・ルセックは、細胞を含め自然界に存在するあらゆるものが、いかにして情報を内包し得るかという点について、臓器に蓄えられた情報とエネルギーについて説明を試み、心電図の波形に脳波が反映されることなどから心臓と脳の生理学的連絡と言った角度から考えている。また、生物学者、超心理学者のルパート・シェルドレイクは、シルヴィアの経験した記憶の転移ともいえる夢をどう解釈すればいいのか分からないとしながらも、自身の形態共鳴仮説を持ち出して移植された心と肺がドナーの形態領域と結びついて記憶が伝授された可能性を指摘している。ちなみに、精神科医で過去生退行催眠療法の第一人者であるブライアン・ワイスは彼の研究対象である過去生を引き合いには出さずサイコメトリー(物質に宿る記憶を読み取る)の能力と関連付けたという。

今日の医学的には心臓はただのポンプに過ぎない事になるが、歴史的に見ると古代社会においては、心臓は魂と感情が宿る場所と考える人もおり、例えばアリストテレスは、心(精神)の場として心臓を考えていた。また、オーストリアやドイツで活動した神秘思想家のルドルフ・シュタイナーは、記憶は脳に蓄えられるだけではなく、諸臓器の外表面で反射し、諸臓器はそれぞれに相応しい特別な記憶を集めると考えていたようである*11
いずれにしても、臓器提供者から移植患者への記憶転移もまた記憶の脳局在と矛盾するものであると言え、脳はそこに意識が生じて、記憶が蓄えられる唯一の場所ではない事を明かしているとも見ることができる。

  • 参考文献
最終更新:2024年07月06日 13:00

*1 シルヴィア 1997(邦訳 1998)p.87

*2 シルヴィア 1997(邦訳 1998)p.87

*3 シルヴィア 1997(邦訳 1998)p.129-130

*4 シルヴィア 1997(邦訳 1998)p.130

*5 シルヴィア 1997(邦訳 1998)p.137

*6 シルヴィア 1997(邦訳 1998)p.219-220

*7 シルヴィア 1997(邦訳 1998)p.246

*8 シルヴィア 1997(邦訳 1998)p.164

*9 シルヴィア 1997(邦訳 1998)p.166-167

*10 シルヴィア 1997(邦訳 1998)p.196

*11 シュティーン 2009(邦訳 2016)p.92-93