虫の知らせ
身近な人が危篤に陥ったり、死んだりしたまさにその時刻に、死者からのサインであると感じさせるような不思議な現象、虫の知らせを経験したという人は意外にも非常に多いと言える。イギリスの神経生理学者で終末期現象の研究者でもあるピーター・フェンウィックは、臨終期暗合(deathbed coincidences)という現象の存在も指摘しており、臨終者が訪問して暇を告げる場合もあれば、単に相手がその人が死んだと突然、確信できる場合(死の前兆を感じたり不安感を覚えたりする)もあるという。そして、そのような現象は、臨終者と距離的に遠くは離れていて、その人が病気であることすら知らなかった場合にも起こり得るという。フェンウィックの調査した事例の中では、3分の2の事例が夢の中や急な目覚め、あるいは眠りと覚醒の間の朦朧状態、実際には起きているのか寝ているのか判然としない時に起こっているという。また、体験者にとっては極めて特別である臨終期暗合について、日常生活で誰もが体験する偶然と区別するため、死の様態、体験の性質、そこに組み込まれたコンテクストなどから、偶然以外の説明の方が合理的であるかを判断する基準もある。
そして、虫の知らせの種類は多種多様であると言えるが、花瓶やコップが壊れたり、皿が割れたりしたといったものから、壁の写真や絵が落ちたり車が動かなくなったりといったように物体が関わるものがある。このような虫の知らせの一例として、聖書解説家、作家の久保有政は自身の体験として次のような話を紹介している。
かつて私が住んでいた家の近くに3人のある家庭があった。ご夫婦とひとり娘の家庭である。娘さんは幼いころからかわいらしく、素直ないい子で、だれからも愛されていた。しかしある日、娘さんは体調不良を訴え、病院へ行くと、白血病にかかっていることが発覚した。
彼女に入院の前日、私たち夫婦はお母さんと娘さんを家に招いて、一緒にお茶をした。なにも励ませたわけではないが、共に語り合える静かな時を一緒に過ごせたというだけでも、私たちにとって貴重なものだった。
娘さんの病状は一進一退を続け、しばしば、治るのではないかという淡い期待をいだかせることもあった。しかし「血液の癌」ともいわれるこの病気は、治療も簡単ではない。闘病生活を見舞いに行くたびに、病状は刻々重くなっているように感じられた。
彼女のために私たちが祈らない日はなかった。そうした中で、ある日曜日の朝だったが、私たち夫婦にとって決して忘れられない出来事が起こった。
我が家の玄関の飾り棚の上には、ガラスの花瓶が置いてあった。かつて娘さんが来てくれたときにも、花を生けて飾った花瓶だ。朝起きて玄関を見ると、なんとそれが割れていて、中の水がこぼれていた。
昨晩見たときには割れていなかったのに、と妻も私も驚いた。ひびが入っていたわけではない。地震があったわけでもないし、物が落ちたわけでもない。ただ静かに飾り棚の上に置いてあっただけである。
ところが朝見ると、それが割れていた。「花瓶が割れているわ。誰も触っていないのに。こんなことあるの!?」と妻がいい、私も驚いているとき、突然、電話のベルが鳴った。「まさか……」という思いが脳裏を走り、胸騒ぎがした。娘さんの母親からだった。それは、「娘が息を引き取りました」という電話だったのである。
わずか21歳。早すぎる死である。桜のように可憐な娘だったが、桜のように散り、天国へ旅立ってしまった。そのとき私たちにははっきり、花瓶が突然割れた理由が理解できた気がした。
また、言語学者のリサ・スマートは誰かが亡くなった時、またはその直後に、ドアベルやアラーム、電球などの電気の力を借りて送られてきたメッセージを受け取ったという事例が数多く寄せられているという。また、最近の事例にはメールという新しい要素が加わっているといい、デビー・リバルの義理の井本ジョアン・モイラン・オーベの体験を以下のように紹介している。
今年の1月に父が亡くなったとき、私は母と一緒に(介護住宅から数キロ離れた)兄の家の裏庭に座っていました。父は呼吸困難になり、死期が迫っているようでしたので、このときは兄が付き添っていたのです。父はもう意識もありませんでした。母と静かに座っていると私のiPhoneがSiriのビープ音のような音を立てました。電話を見ると、まるで私が下書きしたかのようにメッセージが表示されています。「去ろうとしていた。苦しく。ただの風かもしれない。ふわふわしている。出発する準備はできているかもしれない。肺炎のようだ。たぶん疲れる。体力がない。もうこれ以上ここにいる」と書かれています。
私はぞっとして兄に電話したところ、兄もこのメッセージを聞いて、私と同じくらいショックを受けました。その後何度も読み返すうちに、きっとこういう意味だろうと思うようになりました。「私は今呼吸困難で、もう長くなさそうだ。旅立つ準備もできているといえるかもしれない。肺炎にかかったような気がする。恐らく疲れているのだ。体力もなくなった。もうこれ以上ここにはいないだろう」と。
父はメールを送ったこともなければ、iPhoneの使い方も知りませんでしたし、一般的に見て、とても意識があるとはいえない状態でした。父は地上の電波をうまく利用したのか、何らかのエネルギーを使って私にメッセージを送ったのか、私にはわかりません。父、レイモンド・オーベはこうして亡くなりました。
グランドファーザーズ・クロック
何かが割れたというような虫の知らせ以外にも時計が止まったり動いたりしたという証言も少なくないと言える。これについては、「おじいさんの古時計」という歌もあり、馴染み深いものと言えるかもしれない。フェンウィックはこのような話をいくつか紹介していて、中には何年も止まっていた時計が死亡時刻に理由もなく動き出したというものもある。
一九七〇年代初頭、私の大叔父(祖母の兄弟)が家で死にました。彼は私の祖父母と暮らしていました。彼のベッドの足許の壁には、古い箱型時計がありました、一〇〇年ほど前のもので、彼に「受け継がれた」ものです。私の知っている限り、動いたことはありません。祖父によれば、大叔父が死ぬ時、彼は唐突にその時計を指さしました。するとその時計は午後四時、ほぼ正確な時刻を打ちました。同時に大叔父は死にました。
他にもロンドンにいる叔母が死んでから、彼女のアパートの片付けのため、初めてその家に入ると、全部の時計が彼女の死亡時刻で止まっていたという話や、父が死んだ際に叔父の家の中の時計が父の死亡時刻3時15分で全て止まっていて、LEDディスプレイか何かですら3:15で点滅していたという話も紹介されている。
私の父は午前三時一五分に死にました。午前八時三〇分頃、私はアーチーおじさんに会いに行きました。父と仲が良かったので、電話するより直接告げに行って、何ならそのまま家に連れて来ようと思ったのです。アーチーおじさんがドアを開けた瞬間、彼が憔悴しているのが判りました。父が死んだという話を始めると、彼はそれを遮って、知ってると言いました……誰かから電話があったわけじゃないが、ちょっとあのマントルピースの上の時計をみてくれよと――それは三時一五分で止まっていました。しかも彼自身の腕時計も、さらにベッドサイドの時計も、家の中の時計という時計がその時刻で止まっていたのです。ラジオか何かのLEDディスプレイですら、3:15で点滅しています。これには完全に面喰ってしまいましたが、アーチはこの現象自体は喜んでいて、ただ親しい人が亡くなったことを悲しんでいるのでした。
動植物への影響、動物の奇妙な振る舞い
人の死がその人に関わりの深かった動植物に影響をもたらすという報告や、動物が奇妙な振る舞いをするといった報告もある。リサ・スマートは最愛の人を亡くした直後に鳥や蝶が現われて普段よりもずっと長くその場にとどまるという話をよく耳にするというし、他にも父が亡くなった後、父が生前に植えた木が突然全部枯れてしまったという話がある。また、フェンウィックは動物に関わる事例として、母親が亡くなった時刻に犬が狼のように唸り始め、犬は5分に渡ってなす術もなく唸り続けたという話を紹介している。
私は死ぬまで、決してこのことを忘れません。一九九五年一一月一二日午後一〇時四五分、この犬は狼のように唸り始めました。背骨が慄えました。その瞬間に母さんが死んだのだと判ったからです。五分にわたって、犬はなす術もなく唸り続け、それからベッドに戻りました。この犬はキング・チャールズ・キャヴァリアで、当時一二歳でしたが、それまでこれほど深く野性的で耳障りな声を出したことはありません。一時間ほど後に父と姉が戻ってきましたが、私の考えは当たっていました。母さんは午後一〇時四五分に亡くなったのです。
このような点に関しては、生物学者の
ルパート・シェルドレイクも動物が何か超常的な感覚から情報を得ることができる可能性を指摘しており、2500例もの事例を分析した結果、犬と猫が示す説明のつかない行動には、テレパシー、帰巣感覚、予知があると結論付けている。このような事例からは、死の認識も人間だけのものではないと言えそうである。
死に伴った不思議な現象の解釈
アメリカの小児科医で子どもの
臨死体験を研究したメルヴィン・モースによれば、子どものころ
臨死体験をした成人の4分の1以上が腕時計をはめると止まってしまうと述べているという。実際、
臨死体験の事後効果として、近くの電気製品が壊れたり調子がおかしくなるなど物理的な異常が生じるようになったと語る人もおり、この辺りについては人間の電磁場が変化するといった解釈もあるわけである。そして、モースはこの電磁気理論によって
臨死体験の大部分を説明しようと考えているようであるが、人は死亡する寸前、生体は通常の安静状態の1000倍以上の大量の電磁エネルギー、光を放射する事が知られていることも指摘している。モースは
臨死共有体験についても臨終を迎えた人からこの光が放出されるのを目撃されるといった観点から説明しようとしているわけである。
このように、モースの言う電磁気理論に基づいて、死に伴った不思議現象を説明するなら、死亡する寸前に放射される大量の電磁エネルギーが時計などの機器に異常をもたらすといった説明ができるかもしれない。このように、人間の生体が発するエネルギーについてまだ解明されていない側面を追及することで、死に伴った不思議な現象の少なくとも一部の側面について説明できるという可能性は否定できないが、
臨死共有体験にしても体験者が見る光やその他の物事が光やエネルギーといった外界の物理的事象だけで説明が付くとも考え難い。また、死者と離れたところで物が壊れたという例や偶然の一致が起こったという例についても、電磁気理論だけで十分に説明ができるとも言い難いだろう。
(以下、管理者の見解)
死者からのサインや虫の知らせに関する話は案外、身近にも多く何か特別で珍しいことではないと考えられ、管理者自身、そのような話を直接、聞いたこともある。例えば、管理者の曾祖母が亡くなった際(管理者は記憶はないが)離れたところにあったコップの水を零したという話や、管理者の家の前の通りに住むおばさんが亡くなった際に、大きな植木鉢が風もないのに倒れていたという話がある。また、管理者の父親は特に霊感や信仰心があるわけではないが、会社の友人が亡くなったとされる時にナンバーが「4444」の黒い車を見たと話していた。
このような話については、それを偶然だとする立場からすれば、ある人がある時間に亡くなる確率と、それと同時に時計が止まったり物が壊れたりする確率を掛け合わせればかなり低い値にはなるがゼロではないと言え、世界に数十億人の人がいれば低確率でも毎日何件かはそういった一致が起こり、そのような一致が強く心に残るから取り上げられていると考えるのが一般的だろう。また、話に劇的効果を与えるための一種の創作ではないかと考える人もいるかもしれない。
実際、哲学の一分科である心の哲学においても、どんな物理現象も物理現象の他に一切の原因を持たないという
「物理領域の因果的閉包性」といった経験則が知られていて、その原理に基づくなら、例えば時計が壊れたり花瓶が割れたりしたことについてもその物理的原因以外に死者の介入などといったことを考える必要はないということになる。
しかし、「物理領域の因果的閉包性」もあくまで一つのものの見方であって、それが絶対的に正しいと証明されているわけではない。
笠原敏雄も現行の科学的理論の明文律および不文律によれば、各人は偶然に生まれたにすぎず、人生には目的などないことになっていて、そのような考え方こそが科学的であり、合理的であるとされるが、科学的方法によって検証された事実ではないという。このことは、宇宙は偶然のみによって支配されているという、いわば信念ないし信仰から演繹されただけの、しかも西洋から無批判に移入された臆説に過ぎないという。また、前記のように確率論の観点から偶然とみなす考えも一見、もっともらしく聞こえる反面、中には臨終者と時計や花瓶、写真といったものと密接な繋がりがある場合があり、そのような背景を無視して「ある人がある時刻に亡くなった」「その時に時計が止まった」「その時に花瓶が壊れた」というような非常に縮減された情報に直した上で確率計算をしている場合があるとも言える。また、近親者の死亡時刻にタイマーのないテレビが突然ついたという事例やCDが突然鳴り出したという事例や家の中の時計がすべて同じ時刻で止まったなど、通常ではまずあり得ないことが起こったという報告もあることを考えると、全てを偶然に偶然が重なっただけとみなすのも無理があるだろう。
ユング心理学において意味のある偶然の一致である
シンクロニシティなる概念があるが、物理的な因果関係に基づいた説明だけが世界を理解する唯一の方法ではなく、世界、宇宙とは本来、ひとつの共通の秩序、心的・物質的領域にまたがって広がる調和であると考えるなら、自然界の事象は単独では起こらないと考えることができるだろう。このような視点から見れば、死に伴った不思議な現象についてもまた、より自然な仕方で理解されるのではないだろうか。そして、死者からのサインであると感じさせるような不思議な現象についても、
死後生存の観点から直接的な証拠にはならないにしても、それを強く示唆する現象である事は否定できないだろうと思う。
最終更新:2025年04月01日 13:46