会津三十三観音札所が設けられたのが、寛政二十年(一六四三)。それから、55年後の元禄11年(1698年)、御蔵入り地方にも札所設立の気運がが高まり、三十三霊場がつくられました。
「御蔵入」とは、江戸時代の幕府直轄領の名称のこと。
南会津郡全域から栃木県藤原町の五十里湖までで、約五万五千石の地域が、「南山御蔵入領」として定められました。また、会津藩預かりの時期もあり今も歴史が息づいています。
会津風土記本文には御蔵入三十三観音について明記はありません。
以下南郷村史の該当記事を引用します。
御蔵入三十三観音
当村だけではないが、当村の人達が中心となって始められた御蔵入の観音を巡る三十三観音信仰がある。この御蔵入三十三観音の由来については次のような資料があり、いつ、どういう人達によって、どこの観音堂をどのように巡礼するか設定したのがよくわかる。三十三観音の札所は様々なものがあるが、このように巡礼に至る由来を記したものは大変少なく、貴重な資料である。
奥州
会津郡御料三十三巡礼の由緒
南無大慈大悲観世音菩薩
種々重罪五逆生滅 自他平等即身成仏 御領巡礼草創者 五十嵐仲山玄智本願企 施主九七任心同御蔵入巡礼之発起 願書奉
江戸御代官依田五兵衛殿
元禄十一年戊寅八月一日
梁取成法寺始奉納三十三所順礼観世音菩薩
施主同行
会津郡和泉田 仲山玄智
会津郡和泉田 秋山妙観
郷頭母儀 五十嵐仁右衛門
大橋 角田助左衛門
下野国川崎 大島長兵衛
大新田 酒井久右衛門
小林 堀金仁兵衛
古町 五十嵐出羽之助
梁取 菊池吉右衛門
塩之岐 菅家市右衛門
十嶋 須佐七兵衛
梁取 昌屋雲貞
下山 佐藤十左衛門
田島 星久治右衛門
鴇巣 山内徳左衛門
大橋 馬場半右衛門
大新田 酒井半右衛門
青柳 馬場七郎右衛門
富山 星 五右衛門
梁取 昆野 源助
黒谷 菅家覚兵衛
鴇巣 猪俣多右衛門
片貝 雲宝 妙栄
道師 下山村法印 鏡[
洶+日]
元禄十一年八月朔日札打 同十二日札打納諸成就
この資料によると、御蔵入三十三観音巡礼は、和泉田の仲山玄智と五十嵐仁右衛門という二人によって計画されたことがわかる。その計画は九七人という同意の施主たちを加えて、江戸の代官依田五兵衛に出願し許可されたと推定される。巡礼の始めは「元禄十一年八月朔日札打、同十二日札打納諸願成就」とあるので、元禄十一年(1698)八月一日に最初の巡礼が始まり、一二日をかけて巡礼札打を終えたと思われる。巡礼のコースは只見町梁取の成法寺観音堂から始まり、ほぼ右回りで当村和泉田の大泉寺観音堂に戻るというものである。前掲の資料には「道師下山村法印鏡[洶+日]」とありますが、恐らく巡礼の開初式があり、その法会式に辺り鏡[洶+日]が道師をつとめたものと思われる。
なお、二十二版札所の舘岩村泉光寺観音堂には、元禄十一年八月に巡礼した時の板札が残されている。また、御蔵入三十三観音の摺札があり、これにも
奥州会津郡御料三十三所巡禮之由緒、同郡和泉田村本願主仲山玄智外十六人、道師下山村法印鏡[洶+日]、元禄十一年戊寅亥八月朔日一番札打同十二日ニ打納 諸願成就所
とあります
外部リンク等
最終更新:2025年09月07日 14:01