自殺未遂者の臨死体験

臨死体験と自殺念慮について、ブルース・グレイソンとイアン・スティーヴンソンの研究によれば、臨死体験後に以前より自殺を肯定するようになった人は一人もいなかったと言い、このような変容は臨死体験以前の経験や期待、信仰、臨死体験の顕在的内容とも相関していなかったと言われている。

『かいまみた死後の世界』のあとがきでは、自殺を図った人たちの中には、自殺によって逃れようとした葛藤は死後も存続し、ますます複雑化すると報告している臨死体験者がいたことや、恐ろしい場所へ行ったのも人生における一定の目的を達成する事から自分を解放しようとして「定」を破った報いなのだと述べている体験者もいたことが触れられている*1。また、『続 かいまみた死後の世界』には、臨死体験者の体験談が収録されているが、自然死と自殺とで、そこから蘇生した人の臨死体験の内容が全く異なっているということが述べられている。通常の臨死体験は至福の喜びに満ちた体験であるという事はしばしば指摘されるが、自殺から蘇生した者は、自分を自殺にまで追い込んだ問題が、死んでも、消えることはなく繰り返し、繰り返し現れてくると述べている。また、自然死、あるいは事故死した人々は臨死体験中に、自殺と他殺の2つの行為は絶対に許されざる行為であり、自殺は神の顔に泥を塗ることであり、殺人は神の計画を阻止することになるという、いわゆる自殺を否定するようなことを知ったとも述べられている*2

ケネス・リングは、病気、事故、自殺未遂の3つの原因で臨死状態になった102人の体験を分析し、自殺未遂者は、事故に遭った者や病気に罹った者より臨死体験自体が少ない事を報告している。また、自殺未遂者の臨死体験の中で、安心感や安らぎ、肉体からの分離トンネルなどの要素が語られる事は少なく、光を見たり光の中に入った臨死体験者がいない事を明らかにしている。ただし、その後、自殺を企図した人が語った臨死体験は他の人が語ったものと質的な差はないという研究結果も発表されており、これは上述の臨死体験者の証言やムーディらの報告とは異なっている。しかし、死を受け入れ易いものにする特徴を持っているにもかかわらず、自殺を強く否定する気持ちを起こさせるらしいとも言及しているため、臨死体験者が自殺に否定的になるという点では共通していると言える。

多くの自殺者は、絶望感や情緒の欠落から「死後は無になる」という前提の元で、「早く楽になりたい」という思いから、自殺を企てるのではないかと思われるが、それによって、彼らの企てた自殺が、何の問題の解決にならないどころか、更なる苦しみを生じさせてしまうということは何とも酷なことであろうとも思える。しかし、臨死体験者の証言によれば、必ずしもそうではなく、このような事は、臨死体験が本来、言語的に説明され得るものでないという点で私の理解を超えているのかもしれない。

『臨死体験 光の世界へ』の中でも、二人の自殺未遂者の変容が紹介され、臨死体験中に最初、闇の中にいた事を述べている。また、アンジー・フェニモア『臨死体験で見た地獄の情景』の中でも、通常の臨死体験とは異なる臨死体験が紹介されている。夫と2人の子どもを残して、ナイフで手首を切った後、薬を過剰摂取したことによって意識を失ったフェニモアは、臨死体験時に人生回顧が終わると、完全に真っ暗な世界に行き着き、誰とも心を通わせることができず、孤独だという感覚がだんだん強くなっていったという事が述べられ、さらに、自殺によって身近な人が傷つくさまも見せられたと述べられている。

さらに、臨死体験の知識が自殺を防止する上で役立つという証拠が得られており、自殺傾向の患者で臨死体験の報告を読んだ者が再度自殺を図る事もあまりないようだと示唆されてきている。しかし、臨死体験者の中には他の自殺に対しては、同情と悲しみを感じる人もおり、必ずしも他人の自殺を断固として禁じているわけではないという。

ちなみに、大門正幸によれば、生まれ変わり事例の中に自死を選んだ過去生の記憶を持つ子どももおり、必ずしも地獄のようなところで永遠に苦しむわけではないと言われているが、自死したことを悔やんで「反省部屋」と呼ばれる暗い場所に入るという事例が紹介されている。飯田史彦も、自死した男性からのメッセージをその妻に伝える場面で、「反省の闇」に入ると表現しており、飯田は「反省の闇」について、真っ暗闇の部屋や場所が実際に存在するわけではなくて、自らの意識で作り上げた(自分を闇で覆ってしまう)ものなので、罪悪感や後悔の念がなくなれば消えると説いている。このように闇が自らの意識で作り上げたものであるという事は、前出のアンジー・フェニモアが「地獄というのは、ある特定の次元でもあるが、基本的には、心の状態といってよい。」と述べている事と共通している。一方、森田健は、生まれ変わりの村において前世の記憶を持つ人を調査していく過程で、あの世には咎める存在はいない事や反省させられる場所はなく、自殺者についてもあの世での処遇のされ方は普通に死んだ人と変わらず因果応報の形跡もないと結論付けている*3。また、自殺未遂者ではないが、闇を体験した臨死体験者がいる事や*4、首つり自殺を図ったがトンネルや柔らかい光など一般的な臨死体験と同様の体験をした臨死体験者もいたことなどから*5、この世界のものさしで単純化して理解することは難しそうであると言える。ただ、総合的に見た場合、自殺未遂者の臨死体験はネガティヴなものであるという傾向は高いと考えられる。

なお、『チベット死者の書』では、バルドに住まう者は心に考えている事で自ら環境を作り出すと述べられ、ルドルフ・シュタイナーも心の内にある考えやイメージは、死んでから周囲の世界として現れてくると指摘している。他にも、ヘミシンクと呼ばれる特殊な音響技術を使って、様々な変性意識状態を経験した坂本政道も、フォーカス23が各自の思いが生み出した世界であると指摘しているように、少なくとも各人の思いや心の状態が臨死体験や死後に大きく影響する可能性がある事が窺え、自殺の場合ではそれが顕著に現れるのかもしれない。

地獄のような不愉快な経験

フィリス・アトウォーターは、臨死体験を天国のような臨死体験と地獄のような臨死体験などに分類しているが、その相違点について体験者が使った言葉に焦点を当てて以下のような比較表を作っている。*6
天国のような経験 地獄のような経験
親しみやすい生き物 命のない恐ろしい化け物
美しく、すばらしい環境 荒れ果てた醜い景色
会話や問答 脅迫、悲鳴、静寂
すべてを受け入れてくれる感じ、あふれるような愛を感じる 危険や暴力、または拷問されるかもしれないと感じる
温かい感じ、天国だという感じ 冷たい感じ(あるいは本当に温度が低い)、地獄だという感じ
さらに、アトウォーターの調査では7人に1人が恐ろしい臨死体験をしているという*7。そして、臨死体験そのものより、その後遺作用と体験者当人のそれへの対処を重要視するアトウォーターは、不愉快で地獄のような経験に烙印を捺すのは間違いで、地獄のような経験は体験者の影との対決なのだと述べているが*8、内部浄化や自己との対峙、教訓という視点から考えると、ジャン=ジャック・シャルボニエが地獄のような臨死体験についても体験者の大半がどちらかといえば前向きに捉えていると述べている事にも通じていると言えるかもしれない。

  • 参考文献

レイモンド・ムーディ『かいまみた死後の世界』中山善之 訳 評論社 1989年
レイモンド・ムーディ『続 かいまみた死後の世界』駒谷昭子 訳 評論社 1989年
ケネス・リング『いまわのきわに見る死の世界』中村定 訳 講談社 1981年
ブルース・グレイソン・チャールズ・P・プリン『臨死体験 生と死の境界で人は何を見るのか』笠原敏雄訳 春秋社 1991年
フィリス・アトウォーター『光の彼方へ』角川春樹 訳 ソニー・マガジンズ 1995年
アンジー・フェニモア『臨死体験で見た地獄の情景』宮内もと子 訳 同朋社 1995年
メルヴィン・モース/ポール・ペリー著、立花隆監修『臨死体験 光の世界へ』TBSブリタニカ 1997年
シェリー・サザランド『光の中に再び生まれて』片桐すみ子・野田佳子・林弘子 訳 人文書院 1999年
ジャン=ジャック・シャルボニエ『「あの世」が存在する7つの理由』石田みゆ 訳 サンマーク出版 2013年
最終更新:2023年04月24日 01:43

*1 ムーディ 1975(邦訳 1989)p.223-224

*2 ムーディ 1977(邦訳 1989)p.64-65

*3 森田 2012 p.19

*4 https://www.youtube.com/watch?v=wU6aFQQuS6M9

*5 ベッカー 1991 p.16

*6 アトウォーター 1994(邦訳 1995)p.65

*7 アトウォーター 1994(邦訳 1995)p.60

*8 アトウォーター 1994(邦訳 1995)p.71