エステル母、香織の独白 by黒トド
「左門さん。この箇所はhを発音しないのですよ」
エステルの母、香織はそっと左門に手を寄せて手元のiPadを指し示した。
細い指には傷一つなく、爪にはかすかに施していることがわかるホワイトピンクのマニュキアが映える。
「あ、はい。了解です」
左門はしどろもどろに応えた。
外の庭園から鹿威しの音がかすかに聴こえる。
学園から僅か数十分の距離であるのに、まるでこの屋敷は別の世界のようだ。
(なかなか、こう見てみると娘の彼氏さんとはいえ可愛いものですわね)
香織は力み過ぎてシャーペンの芯を3回折る左門を見ながら、空を見上げた。
しばし経つとノックの音が競うように3回鳴り、扉から赤毛の侍女姿の生徒が舞い込んできた。
「奥方様、フォートラムから仕入れた新葉のダージリンです。どうぞ」
無表情を決め込む仮面の裏には、彼女フレイヤのこそばゆい微笑みが浮かんでいる。
未だにフレイヤの目線は左門を睨みつけているところではあるが。
香織はフレイヤの入れたダージリンを唇の中に吸い寄せた。
砂糖を入れずともわかる芳醇な香り。
それほど高級な葉ではないが、以前と比べて素直な魅力を引き出している。
まるで今のフレイヤ自身のようだ、と香織は思った。
ただし、娘の横に立つには淑女教育がもう少し必要。
例えば昨今の欧州では同性カップルに理解があるとはいえ、レビュッタントのパーティのパートナーに立てる技量が求められることは変わらない。
変わるもの、変わらないもの。
そうフレイヤも徐々に立場は変わるのだ。
自分のように。
フレイヤを見るとスターシアのことを思い出す。
彼女と袂を分かった30年前を今でも思い出す。
香織は今は幸せだ。幸せであらねばならぬ。
あの人は今も密林であの頃の姿のままだ。
愛しく傍らにあった日々のままに。
香織は後悔はしていない。
彼女も後悔はしているまい。
もちろん最愛の夫も。
あれは良き自由な互いの選択の末であった。
しかし娘とこの二人を見るに、この甘くとも芳しき黄金の三角形を見るに。
ふと思うのだ、違う道もあったのではないかと。
思えば自分は様々な岐路に末に今がある。
この屋敷の最後の成員として彼方と此方を行き来する身の上であっても。
自らの青春の影に、数多の血と動乱が刻まれたとしても。
左門。あの捻くれたフリをした純情な少年は自分の過去を知った時、娘と共にどう動くのだろうか。
師は動乱の後卒業の時かく語った。
「社会の認識は知ることにある。よろしい、すなわち過半数の者が知らないことは存在しないということだ。忘却の扉は全てを覆い尽くすだろう」と。
この少年は娘の力に、私にとってのあの人のように救いになるのだろうか。
それともフレイヤ、あの心の鎧の内に脆弱な魂を宿した少女が?
今は救われ、癒された身だ。
香織は幸せでなければならない。
そしてこの少年と少女たちも、過去の影に囚われず佳き青春を謳歌してほしい。
香織はそう願うのだ。
「母上〜! 今日はフレイヤと左門の好きな露子のところのお焼きだよー。たくさん買ったからみんなで食べよう!」
「旦さん、いいのか?こんなに!」
「こんな素晴らしい食べ物は左門にはもったいありません! サーエステルと私で半分こしましょう!」
離れの片隅で明るい娘の声が聴こえる。
若者たちの時間だ。
「お帰りなさい、エステル。今日はどんなことがあったのかしら?」
屋敷の庭園から一羽の蜂が飛び去る。
その蜂は海の彼方へ。
そして空の彼方へ。
知る者はなし。
最終更新:2022年10月19日 00:28