Spring Scent
「はるか‥‥」
通りすがりに熱い呟きを聞いたとき、私の体も熱くなった。
呟いた声の主は星河空大尉。ずっとずっと、私が憧れていた人。
その人が、私の名前をあんなに熱い声で呟く。私は思わず、
「はい」
と答えていた。
しかし。
「誰だっ!?」
厳しい声。振り向いた星河大尉はものすごく冷たい目をしていた。
「あ、あの‥‥お呼びなのでは‥‥?」
すくみながらも声を上げる。だって大尉は確かに「はるか」‥‥「春香」と私を呼んだから。
それなのに、大尉の声は冷たいままだった。
「呼んでいない。そもそもお前は誰だ?」
「私、あの‥‥私、村川春香軍曹です」
「はる、か?」
大尉がぐっと眉を寄せた。それはそれは不愉快そうに。
「俺が呼んだのはお前じゃない。下がれ」
「‥‥はい」
期待した後の落胆は大きかった。
違ったんだ。私じゃなかったんだ。
胸が痛む。きりきりと。私はその痛みの正体を知っている。
そう、嫉妬だ。
私と同じ名前の誰か。大尉があんなに熱っぽい声で独り言ちるほどの誰か。
どんな女の子なんだろう。どんな顔をして、どんな声をしているんだろう。
私は痛む胸を抱えながら、任務に戻った。
聞かれてしまった。
俺は舌打ちをした。思わず呟いてしまった名前を、よりにもよって同じ名を持つ者に聞かれるとは。
お前のせいだぞ、遥。ここにはいない遥に、つい八つ当たり兼責任転嫁をしてしまう。
お前が航空部にさえ入っていなければ‥‥せめて飛行委員会ならこんなことにはならなかったのに。
考えても仕方のないことを考えてしまう。俺も甘くなったものだ‥‥これも遥の影響だろうか。
‥‥切り捨てろ。
歩きながら俺は自分に言い聞かせた。
想いと任務は別物だ。ましてやあいつは敵なのだから。
そう、敵だ。遥は敵だ。敵なんだ。
自分に言い聞かせていなければ揺らいでしまう。
あの夜、奈良で顔を合わせたのは失敗だったのだろうか。
覚悟はできていたはずなのに。心を動かすことなく、あいつを撃墜するはずなのに。
今の俺は遥を甘ちゃんだと笑えない。俺自身に迷いが生まれてしまっている。
こんなことでは、墜とされるのは俺だ。心を固めろ。迷いを捨てろ。
俺はSS、あいつは航空部。不倶戴天の敵だ。それを忘れるな。
その日から私は、こっそりと大尉の身辺を調べ始めた。
大尉が想いを寄せているであろう、「はるか」という女性について知りたい。
あくまでもこっそりと、でも着実に。私は調査を進めていった。
そして1ヶ月のほどの調査の結果。
何も出てこなかった。大尉の身辺には「はるか」どころか、女性の影自体がなかった。
組織の内部でさえ、大尉は女性と接することがほとんどない。
大尉は女嫌いではないか、そう言われているほどだった。
でも、あの呟きに込められた熱。あれは間違いなく、恋だ。
同じ想いを大尉に持っている私にはわかる。そう、大尉は間違いなく誰かを想っている。誰かに恋している。
なのに、大尉のどこを探しても女性の影が出てこない。
「まさか‥‥よね」
信じたくない思いでいっぱいになりながら、私は調査対象を切り替えた。女性のみから、男性を含めた人物全般に。
「嘘‥‥」
今度はあっさりと結果が出た。出てしまった。
航空部中佐、天野遥。大尉の幼馴染。
確かに「はるか」、私と同じ名前だった。
でも、まさか、男だなんて。
そんなの、嘘に決まってる。大尉が男なんかを想うはずがない。
そうよ、あれはやっぱり私の名前だったんだ。だって、私が「はるか」なんだもの。
大尉は私がいきなり声をかけたから驚いただけなんだ。そうよ、そうに決まってる。
だけど、もし本当にこいつが大尉の想う相手だとしたら。
「そんなの、許せない」
許せるわけ、ないじゃない。だって大尉の「はるか」は私なんだもの。
そうよ。天野遥、あんたなんかに大尉は渡さない。あんたなんか邪魔。大尉の「はるか」はあんたじゃない、私よ。
「あの‥‥天野中佐、ですよね?」
突然声をかけられた。振り向くと、髪の長い女の子が俯きがちに立っている。
「そうだけど‥‥何?」
答えると女の子はいきなりポケットに手を突っ込んだ。
思わずショルダーホルスターに手がかかる。
が、女の子がポケットから出したのは薄いピンクの封筒だった。
「こ、これ!」
そう言って俺に封筒を押しつけると、俺が受け取ったかどうかも確認せずに女の子は走り去った。
「なんだよ天野、モテるじゃん」
艦戦隊の同僚、石田が俺の肩をうりうりとつついた。
「別にそんなことないって」
答えながら封を切る。
「おい、せめて部屋に帰ってからに‥‥」
石田が制止しようとしたとき。
一瞬指に冷たい感触が走った。
「いてっ!!」
「えっ?」
じわっと血がにじみ出す。
「こりゃまた古典的だな‥‥」
封筒にはカミソリの刃が仕込まれていた。気づかずに封を切った俺の指は、薄くだが確かに切れていた。
「なんだ、誰かの恨みでもかってるのか?」
「‥‥わからん。身に覚えがない」
「まあ、女の子からの手紙をこんな往来で開けるようなデリカシーのない奴は恨まれてても当然だがな」
「そんなもんなのか?」
「そんなもんだ」
言いながら石田は俺の手からひょいっと封筒を取り上げた。カミソリを避けながら、中身を確認する。
「便箋が1枚、白紙だ。封筒だけじゃぺらぺらで怪しまれると思ったんだろう」
「冷静だな、お前」
「怪我したのは俺じゃないからな」
石田はけらけらと笑う。
「まあ、この程度なめときゃ治るが」
「そういうこと。封筒にカミソリなんて、引っかかる奴のほうが珍しいんだぜ」
そう言ってから石田はふっと笑いを収めた。
「しかし天野。お前が誰かに恨まれてるっぽいのは確かだぞ。ほんとに身に覚えがないのか?」
「‥‥ない、な。少なくとも女の子にこんなことされるような覚えはない」
俺たちはうすら寒い表情で顔を見合わせた。
「当分身辺に気をつけとけよ」
「ああ、そうする」
あははははっ!なんてチョロい奴なの!あんな簡単な方法に引っかかるなんて!
影で見ていた私は腹を抱えた。封筒にカミソリなんて、警告ぐらいにしかならないだろうと思っていたのに、まさか見事に引っかかって怪我してくれるなんて。
この調子で天野遥、あんたを排除してやるわ。少しずつじわじわと苦しめて、引導を渡してやる。
だって大尉の「はるか」は私だもの。断じてあんたなんかじゃない。
大尉が男を好きになったりするはずがないんだから。大尉が好きなのは私なのよ。
さあ、今度はどんな手で苦しめてやろうかしら。
「隊長、顔色悪いっすね」
艦戦隊の内村が言った。
「ああ、ここ最近あまり眠れなくてな」
どういうわけか、ここ最近俺への嫌がらせが頻発している。
道を歩けば足元にパチンコ玉が転がってきたり、上から空き缶が降ってきたり。
寮の部屋で寝ていれば一定間隔で窓に小石がぶつけられたり。
郵便受になぜか大量の豆腐が詰め込まれていたり。
俺自身の身体的な被害は最初の封筒以外にないので、風紀も本気で動いてくれるわけではない。この程度の嫌がらせで動くには、風紀は忙しすぎるのだ。
つまり俺の身は俺自身で守るしかないわけだが、手がかりがなさすぎる。
相手が誰なのか、目的が何なのか、まったく見当がつかない。いや、最初に封筒を渡してきた女の子なのだろうということはわかるが、俯いていたしほんの数秒のことだったしで髪が長かったことしか覚えていない。それもウィッグをつけていたりとかしたら何の意味もない。
「寮で嫌がらせされるんだったら、基地の仮眠室に泊まったらどうっすか?」
ナイスだ、内村。基地なら警備も行き届いている。嫌がらせしている奴が潜り込む隙はないだろう。犯人が航空部員でない限り。
「お前頭いいな、内村」
「えへへ、そんなことあるっすよ」
「あ、今ので台無し」
「あはははは」
さっそく俺は数日分の着替えを持って、基地に泊まり込むことにした。
何なのよ。何なのよ!
天野遥の奴、基地に閉じこもって出て来やしない。男らしくないったら!
SSの私が航空部の基地に潜り込めるはずがない。かと言ってか弱い女の子の私が恵比寿寮にずかずか入り込んであいつの部屋を荒らしてやることもできない。
これじゃ手詰まりじゃないの!
なんとか引きずり出す方法はないかしら?
そうだわ、いくら軍務についてるとは言え、いつかは登校しなきゃならないはずよ。
そのときがあんたの年貢の納め時だわ、天野遥!
基地に泊まり込んで1週間。
内村の言う通り、嫌がらせはぴたっと止まった。さすがに航空部基地の警備をかいくぐれるほどの腕は持っていなかったようだ。
さすがに1週間もすればほとぼりも冷めるだろう。
俺は久しぶりに登校することにした。
「よー、久しぶり」
クラスメートの何人かに挨拶しながら、俺は黄昏地帯に着席した。が、それが失敗だった。
うとうとしていると背中のほうでもそっという感触。不思議に思いつつ手を伸ばして背中を触ってみると。
べたり。
真っ黒な墨が手についた。
「うわっ、なんだこれ!」
ブレザーの背中に墨が塗りたくられている。
「くくくっ」
ずっと後ろのほうで女の子のような笑い声がした。
犯人か、それとも単に目撃しておかしかっただけなのか。それさえわからない。
墨は早く洗わないと落ちなくなる。
俺は急いで教室を抜け出した。
ざばざばとブレザーに水をかけながら、だんだん腹が立ってくる。
何なんだ。なんだって俺がこんな目に合わなきゃならないんだ。
石田の言う通りなら、俺は誰かに恨まれているらしい。まったく記憶にないのだが‥‥じっくり思い返してみようか。
嫌がらせが始まったのはつい最近。まだ1ヶ月も経っていない。何かきっかけがあるはずだ。
ブレザーを洗いながら、ここ1ヶ月ほどの自分の行動を思い返してみる。
何か普段と違う特別なことと言えば月光洞での戦闘ぐらいだが、帝国の奴らが学園に来るとは思えない。だいたい外見で目立ちすぎるだろう。
月光洞でそれ以外の生徒たちがよくいる地域‥‥例えばゲートシティやグーテラオネタウンには、俺はほとんど立ち寄ったことがない。開拓地域のほうには、行ったことがないのだ。
まずは月光洞が候補から外せるな。
それ以外となると、何があるだろう?起きて顔を洗ったら授業に出て、航空部と海洋冒険部で訓練を受けて、学食横丁で飯食って、寮で風呂に入って、2日に1度は洗濯して寝る。基本的に俺の生活はこの繰り返しだ。何か特別なことがあるわけじゃない。
‥‥自分で言っててむなしくなった。
俺は首をひねりながらブレザーを水から引き揚げた。幸い汚れはほとんど落ちたようだ。あとは普通に洗濯すればいいだろう。
雫が垂れない程度にざっと絞り、階段に足をかけたとき。
どんっ!
「えっ?」
ふわっと体が浮く。
急に傾く視界の隅で、髪の長い女の子が逃げていくのが見えた。
どさっ。
5段程度しかない階段で助かった。いくら軍で格闘術をやっていても、高さによっては受け身なんか取りようがない。
「あーあ、せっかく洗ったのに‥‥」
ブレザーが泥だらけだ。まあ、どうせ洗濯するつもりだったからいいのだが。
しかし、ここまでやるとは。よほど俺を恨んでいるんだろう‥‥思い当たる節がまったくないんだが。
どうしたものだろう。
やったやった!見事に落っこちたわ、天野遥の奴!
制服も墨を塗りたくってやったし、階段から突き落としてやったし、今日は気分いいわ。
この調子で苦しめて苦しめて、いずれ始末してやるの。
私と大尉の間に入ってくる奴は許さない。大尉の「はるか」は私だけだもの。
どうもおかしい。
最近俺に関する書類がしょっちゅう閲覧されている。
誰かが俺を調べているようだ。何を意図しているのだろう。
「‥‥村川春香?」
ああ、あいつか。俺がうっかり遥の名前を口に出してしまったとき、自分と勘違いしたおめでたい奴だ。
それがなぜ、俺を調べる?
何かが気になる。放っておいては、絶対に何かよくないことが起きる。根拠はないが、そう思わずにいられない。
「村川軍曹を呼んでくれ」
「えっ!?」
大尉が私を呼んでる!?
天にも昇る心地って、こういうことを言うんだろう。
私はうきうきしながら髪を整えて薄くリップを塗って、大尉のところへ向かった。
「村川軍曹、参りました」
「来たか」
大尉の声は冷たいけれど、いつものことだもの。
私を見てくれる、私に声をかけてくれる。それだけでもとても嬉しい。他の誰でもない私を呼びだしてくれたこと、それが何よりも嬉しい。
「最近俺の身辺を嗅ぎまわっているようだな」
え?
「何が目的だ?」
たじろぐ私に、大尉は重ねて問いかけた。
「私‥‥私はただ‥‥」
「ただ、何だ」
大尉は鋭い目で私を睨みつけている。
嘘よ。大尉がこんな目をするはずない。大尉が「はるか」を睨みつけるはずがない。
だって、だって!
「私がはるかだもの!大尉のはるかは私しかいないんだから!」
「何を言っているんだ、お前は?」
「嫌っ!大尉はそんな目で私を睨んだりしない、そんな厳しい声で私を問い詰めたりしない!だって“はるか”は私なんだから、天野遥なんかじゃないんだから!」
「こいつ‥‥」
大尉の声に呆れたような響きが加わった。そうよ、次に大尉は「焼餅だったのか、馬鹿だな」とか言いながら私を抱きしめてくれるのよ、そうに決まってる。そしてその次には‥‥
どすっ!
幸せの中で、私の意識は弾けた。
どうしたもんかな、これ。
部屋の1/4を埋め尽くそうかというピザの山を眺めて、俺はため息をついた。
何かもう、ここ最近のあれやこれやで心がマヒしているようだ。もはやショックすら感じない。
「まあ、請求書がついてないのが救いだな‥‥あとで基地に持って行ってみんなで食うか」
とりあえずこのままでは洗濯物を干すこともできない。俺は積み上げられたピザの山を移動させる作業にかかった。
そのとき。
こんこん。
部屋の扉がノックされた。
「はい?」
顔を出した俺は思わず立ちすくんだ。
そこに立っていたのは。
「奈良以来だな」
「空‥‥」
俺が何も言わないうちに部屋に入ってきた空は、積み上げられたピザの山を見て額に手を当てた。
「あいつめ、やらかしたな‥‥」
「えっ?」
聞き返す俺に、空は向き直った。
「お前、ここ最近嫌がらせされてないか?」
「なんでそれを?」
「やっぱりそうか」
空は顔をしかめて小さく舌打ちした。
「すまん、嫌がらせの犯人は俺の部下だ。SSとして謝罪する」
頭を下げる空。意外なことに頭がぶっ飛んでしまったのか、俺は
「何か変な光景だな、航空部員にSSが頭を下げるなんて」
と間抜けなことを言ってしまった。
「それもそうだな」
と苦笑する空。
「犯人は村川春香という女だ」
「え、俺と同じ名前?」
「ああ、それがきっかけだったらしい」
「どういうことだ?」
「何と言えばいいか‥‥」
渋る空からなんとか聞き出した。その村川と言う女の子は空のことが好きだったらしい。ひょんなことから空が俺の名前を呟いたのを聞きつけ、それが自分ではないことを知って俺に嫉妬して嫌がらせを始めたということなのだが‥‥
「敵の名前を呟いたからって、なんでそれが嫉妬につながるんだ?」
「さあな、女の考えることはわからん」
そう言った空はどことなく落ち着きがないように見えたが、まあ自分が原因の1つということなら落ち着かないのも当然だろう。
「ともあれ、お前との決着は堂々とつけたい。嫌がらせなんぞで憔悴したお前を墜としても意味がないからな」
「それを言うなら、俺だって罪悪感を持ってるお前と戦いたくなんかない」
そう言って笑うと、空は一瞬不思議そうに俺を見つめた。
「‥‥お前、腹をくくったのか?」
「おそらくな。こだわっても過去は変えられん。ならせめて選べる範囲で最善の現在と未来を選ぼう。そう思った」
「なるほどな」
空は1つうなずくと、俺に手を差し出した。
「何にせよ、決着は正々堂々と。それは約束する」
「ああ、約束だ」
俺はその手を握り返した。
意識がふわふわしている。体もふわふわしたものに包まれているっぽい。
大尉ってもっとごつごつしてると思ったのに、案外柔らかいんですね。それとも私のため?ふふふっ。
気持ちいいなぁ、大尉の胸って。ずっとこうやって抱きしめててくださいね。
「幸せそうだな」
「そのほうがいいだろう。これから何をされるかを思えばな」
「ああ、夢の中で幸せでいられるほうがずっとましだ」
「それじゃ準備はいいか?」
「ああ、始めるぞ」
どこかの仄暗い部屋の中で、メスがぎらりと輝いた。
最終更新:2022年10月19日 00:02