「美人局と決断と」 by輝剣
その日、相馬左門は久しぶりに恵比寿寮の自室に戻っていた。
宮里家に居候させられる以前から帰っていなかったのだが(だれが住むのだ?こんな不思議ダンジョン)、「竜」がきちんと管理していて、埃一つない。
まぁ、もう二度と使うことはないだろうから、どうでもいいことだが。
今日戻ったのは母テルに命じられて「内弟子」(
※注1)として宮里邸への完全移住をするために私物を取りに来たのだ。
ちなみに中村渠博文の
肉筆回覧本はそのまま書庫に置いていく。あれは色々と危険な本なのである。
女所帯に春画を持ち込むだけでも気まずいのに(
※注2)、描いたのが隣家の御曹司というのはトラブルの元であろう。
やはり持っていくのは母の形見の手鏡と守り刀ぐらいか。他のものは宮里家から数段品質の良いものを支給されている(下着も含めて)
そう決めたところでスマホが鳴った。通知された番号を見て左門は顔をほころばせた。
「おう、百目ちゃんか、久しぶりだな」
ちょっとテンションが上がっている。
旦さんかフレイヤさん以外からかかってくるのが久しぶりというのもあるが、敦也が指輪の因縁から解放された一方指輪が存在する限り呪縛され続けるであろう彼女のことを左門は気にしていたのだ。
フレイヤに対してもそうだが一度身内認定するとその相手のことをほとんど無条件に信じる悪癖が左門にはあった。
言い換えるならボッチをこじらせていた。
「左門先輩、久しぶりのコンタクトなのにいきなりですまないんだけど、ちょっと匿ってくれないか」
「…本当にいきなりだな。まぁ、いいか。それで、今どこだ。俺は今から旦さんの家に行くところでな」
『帰る』のではなく『行く』のだ。
そう、これは語学研修のステイをしに行くのだ。断じて、『住む』のではない。
だから、俺はヒモじゃない。ヒモじゃないんだ!
「寮の先輩の部屋の窓の前。以前とはセキュリティが段違いだね、ちょっと入れない」
「ダンジョン化しているからなぁ、空間も歪んでるそうだし。じゃあ、今窓を開けるわ」
ダンジョンの主の仮の仮の(中略)主である左門には部屋に客を招く権限が認められている。
つまり左門が招き入れれば普通に入室できるのだ。(
※注3)
窓を開けると猛烈な旋風が室内に巻き起こり、紅美が現れる。
服装はあちこちがほつれ、ボロボロだ。本人も汚れてふらつき態勢を崩していた。
倒れそうになる彼女を左門はとっさに受け止める。何かいい匂いがした。
慌てて介抱しようとする左門は、どこかでパシャっという音がしたことと気配が増えていることに気付かない。
「ありがとう先輩、大丈夫だよ」
紅美は左門に礼を言うと、身体を離した。左門は少し残念に思いながら、事情を尋ねる。
「で、どうしたんだ。こんなへまをするなんてお前さんらしくもない…でもないか。前にもあったな、こんな展開。やっぱり指輪絡みか?」
「あーそういうことを言うんだ、ひどいなー先輩。まぁ、間違ってはいないけど、そういうことを言うような人に遠慮は無用だね。ちょっと汚れたからシャワーを貸してくれない? エステル先輩の援助でキレイになったと聞いたよ」
口調と声色は蠱惑的とすら言えたが目は笑っていなかった。
強気の女性には押し負ける左門に拒むことなどできようはずもなく、迂闊なことを口走った先ほどの自分を呪いながら白旗を揚げる。
「どうぞ、お使いくださいませ、お嬢様」
書庫にシャワーの音が漏れてくる。
女性の入浴音を聞いてしまうのは倫理的によろしくないとは思うが、紅美を放って宮里邸に帰ることもままならず、左門は刀を抱えて体育座りをしていた。
あの時(
※注4)の敦也もこんな気持ちだったのだろうか。
たしかあの時はこれぐらいのタイミングで匂いを嗅ぎつけた俺が押しかけていって1000円せしめたんだった。
いや、その1000円は3人の朝食に消え、その朝食も公安委員会非常連絡局の襲撃で台無しになったんだが。
「『この匂いは…そうか、まー仕方ないよな。うん。俺も鬼じゃないから』でしたっけ、こういう時に掛ける言葉は」
いつの間にか目の前に中尾影人がいた。
「…公安委員会非常連絡局の乱入まで繰り返されるとはな。一応聞いてやるが、どうやって入った?」
「先ほど、ドアから入らせていただきました。ノックもしたんですが、風の音でかき消されてしまったみたいですね」
いつも通り、胡散臭い。タイミングを合わせたことを隠しもしていない。
「オカルト研お墨付きのこの部屋の正しいアドレス(
※注5)をわざわざ入手したんですよ。いやぁ、高かったなー」
「百目ちゃんが来て、タイミングを合わせてお前が来たということは指輪絡みか、敦也の奴が解放されたんで次は百目ちゃんを囮にして、今度も俺をお手軽に使いに来たというワケか」
中尾の韜晦を聞き流し、目的を聞き出そうとする。
敦也の手から指輪が離れた件ではこの男も暗躍していた(
※注6)ので状況は理解しているはず、おそらくは現在の持ち主に関しても把握済みだろう。
である以上百目や左門を追い回す必要はない。状況を引っ掻き回す餌として使いたいだけであろう。
左門は目の前の男を事態を円滑に収拾するより面白おかしく騒ぎ立てたい愉快犯的性格の持ち主と考えていた。
つまりは退屈翁の同類だ。
「相馬さんにしてはいい線をいっていると褒めてあげましょう」
中尾は左門の反問を鼻で笑うと用件を口にした。
「実は支配の指輪は百地忍さんが持っているらしいんですよ。まぁ、それで今度は彼女を使ってちょっと大きめのイベントをやりたいんで協力してもらえませんかねぇ。ああ、今度はタダでとは申しません。先ほどあなたが百目さんと抱き合っていたシーンの写真と今この場のあなたたちの状況を記録している映像データを引き渡すというのではどうでしょう?」
「この場の俺たちの状況?」
左門が疑問を口にするのとほぼ同時に紅美がバスタオル一枚でシャワー室から出てくる。
ちらと紅美を見て中尾の言いたいことを察し、すぐに視線を戻す。
左門の顔が赤らんでいるのは脅迫者への怒りからか、紅美の艶姿を見てしまったからか。
「フレイヤさん辺りは嬉々として追及してくるんじゃありません? ヒモとしてそういうのはまずいでしょう?」
(野郎、言いやがったな!)
「…お前が俺のことをどう見ているのか分かったよ。確かにフレイヤさんからはあれこれ言われそうだし、お師匠と旦さんはともかく使用人の人たちからは白い目で見られそうだな……だが、断る!」
勝ち誇る中尾に啖呵を切る。
左門の声に震えはなく、誇りと矜持に溢れていた。
左門にとっては忍も「仲のいい後輩」である。多少自分の立場が悪くなる程度のことで売るような真似ができるはずもない。
それに彼は周囲の人々を信頼するようになっていた。
自分を信じ重用してくれる旦さんことエステル、彼に教育を施し刹那的であった生き方を改める切っ掛けと援助を与えてくれたお師匠こと香織、そして時にそりが合わないとはいえ共に旦さんを支えようとするフレイヤ。
自分と彼女たちとの間には、中尾の底の浅い策謀程度では損なわれない信用と関係性が存在すると信じていた。
エステルを巡る恋愛という要素をまったく認識しておらず、自分がそんな好意を向けられ得る存在とも思えていない。
周囲の人々への信頼とは矛盾するが、左門の中では彼女たちが有する善性に由来するものと判断している。
そのような自己評価の低さ、それによって培われた面倒くさい人間性を周囲から案じられていることに気付かない鈍さが今の左門の心象風景を形作っている。
一言で表現するなら相馬左門という男は朴念仁だった。二重の意味で。(
※注7)
とにかく左門は宮里家の人々を信じ、愛していた。
わかってもらえると信じているが故に(
※注8)中尾の脅迫など聞く気はなかった。
忍の危機を阻止しようと中尾を取り押さえる為に刀に手をかけた瞬間、左門の背にモーゼルが突き付けられた。
どうやらバスタオルの中に隠していたようだ。色々な意味で油断していた。
左門の見た目に反して初心な性格を見透かされていたらしい。
「すまない、先輩。でも私は支配の指輪を手に入れたいんだ」
「…そりゃそうか。美人局っていうなら美人もひっかける側だよなぁ。あーうん、この状況で百目ちゃんのモーゼルと飆の相手は厳しいなぁ」
「でも、諦めはしないんだ。そういう見た目に似合わず真っ直ぐな所は好意に値すると思うよ。でも…」
紅美の言葉を中尾が引き継ぐ。
「でも、だからこそエステルさんのスキャンダルを盾に脅されると弱いですよねぇ?」
中尾の言葉に左門は呆気にとられる。
スキャンダル? 旦さんが? あの公明正大で裏表のない陽キャのエステルがスキャンダル?
ありえないだろう。ないない。
強いて言うならノンタロイモタロイモ関連ぐらいだが、フレイヤさんの泣き落としで最近食べる回数も減ってるしなぁ。(
※注9)
全く危機感がない左門だが、それも中尾が次に口を開くまでだった。
「宮里さんのお母さん、貴方の師匠である香織さんは元SSです。それも結構な幹部格だったそうですよ」
左門の思考はマヒした。
そこに中尾はアレコレと証拠を列挙して畳みかけていく。
それらはいずれも具体的で時に物証を伴い、反駁を許さなかった。
最近でも悪徳大路の事件(
※注10)でSS残党のプロフェッサーを口封じに始末していた映像まで突き付けられては疑う余地もない。
亡父がSS残党であり自身もコネクションを有している紅美と、公安委員会非常連絡局員の中尾がその権限をフルに活用した『成果』だった。
「だ、だが30年も昔の話だろう?プロフェッサーを始末したのは最近とはいえ、相手はテロリストだ、法的に問題ないし、そもそも旦さん自体に罪はない」
左門はなんとか反論を口にするが、左門ごときが口で中尾に対抗できるはずもない。
「いやだなぁ、相馬さん。僕はスキャンダルだと申し上げているんですよ」
相手は脅迫と恫喝のスペシャリストなのだ。
「ええ、母親が元SSだった、その程度で罪に問うことなどできません。ですが、宮里さんの立場というかポジションを忘れていませんか? ラジオTV放送委員会の花形キャスターでクラス代表、共に法的な正しさもさることながら生徒たちの感情面からの支持が担保されていなければ務まらないお仕事です」
「そして、法的な正しさは感情面での反発に対して有効なカウンターたりえません。むしろ上級生徒だから忖度された、法は金持ちの味方などと叩く口実になるだけです。それくらいあなただってあの選挙戦で学んだでしょう?(
※注11)」
「それに法的な根拠が必要な逮捕や起訴よりも、根も葉もない噂を基にした制度の恣意的な運用による非公式の制裁というか嫌がらせの方がよっぽど精神に応える、それは貴方がよくご存じのはずだ。 ああ、遅くなりましたが御控え方(
※注12)への転属おめでとうございます」
中尾の指摘に左門は返す言葉もない。
『信じるべき無実の同僚を、公安委員会非常連絡局の策謀に乗ぜられて裏切り者扱いして追い回し、銃士隊員に論破された上にクラスメートたちが無罪と証明した』(
※注5)という不祥事を巡回班上層部は受け入れることができなかった。
なんとしても左門を『SS残党への内通者』として断罪したがったのだ。
左門は指名手配事件の事情聴取と称した事実上の査問会に引き出され、ねちねちと精神的拷問を加えられた。
鈍感力の高い左門は上層部が期待したほど疲弊しなかったが、さすがに『ゲートでの攻防(
※注13)で一人だけ無力化されなかったことがSS残党に内通していた状況証拠』と言われた時には悲しかった。
珍しく上層部が左門を誉め公安へのマウント取りに使っていただけに掌返しには腹も立った。
事情を知ったエステルがクラスメートたちの署名を集めて巡回班に抗議し、一條を通じて公安委員会から非公式の謝罪を受け取った巡回班は渋々左門を解放したものの、『上司への報告義務違反並びに素行不良』を理由に御控え方への左遷を命じたのだ。
御控え方とは、素行不良者(札付きかつ手練れ揃い)を表に出さないために作られ、業務は特になく詰め所でおとなしくしていることを最も望まれている部局である。(一応副長直属)
この人事は巡回班内部でも話題になり、「え、まだ配属されていなかったの?」「適材適所」「働かずに食う飯は美味しいか」「だってヒモだし」「よかったですね、田中様」と意外に好評であった。
同情してくれたのは呑み仲間の『馬面の中村さん』と『イケメンの渡辺君』ぐらいのものである。
仕事させてもらえない立場となった左門は怒りと失意を力に変え、一念発起し言語学研に入部して語学勉強に励み、フランス語会話を習得した。
香織に言われて巡回班のお仕事に取り組んだりもしている(
※注14)が、それは正規の仕事ではなく私的パトロールであって、決して評価されることのないものであった。香織は左門に不遇であっても、腐ることなく職務に誠実であれと伝えたかったのだろう。
「著名人のスキャンダルには皆さん、大喜びですからねぇ。クラスはもとより本町にも群がるでしょうねぇ、色々と。 …それとも相馬さん、その刀で僕との情報戦に勝てますか?」
左門はもはや嘲笑を隠そうともしない中尾との距離を目測する。彼の脚ならば一気に距離を詰め、その首を取ることも可能だろう。
だが、こうも挑発してくる以上何らかの対抗手段があるはずだ。
そして、その対抗手段の一つに中尾が死んでも宮里家のスキャンダルが公表される手配があるかもしれない。
その結果、宮里家にもたらされるであろう悪意の波を左門としては案ぜざるを得ない。
左門は決断を迫られていた。
この一刀で中尾の陰謀を阻止し、忍もエステルも香織も全てを救うことができるかもしれない。
だが、できないかもしれない。
左門は決断を強いられていた
脳裏に宮里家の人々の笑顔が浮かぶ。
香織、エステル、フレイヤ、使用人の皆さん、あとついでに博文。
彼らの命運が今この瞬間は左門の刀にかかっているのかもしれない。
左門は悩み…そして、刀から手を離した。
友人を裏切りたくないという自分の矜持、あるいは良心の為に、宮里家の人々が悪意にさらされることを左門は許容できなかった。
それは自分を信じることができなかったということでもある。
自分は全てを救うのだと傲慢に嘯くことはできなかった。
それが左門の限界であり、香織やスターシャから坊や扱いされる所以であるだろう。
相馬左門はこの時から中尾影人と百目紅美の手駒に堕した。
左門はスマホを取り上げられ、竜を呼ぶこともエステルたちへ連絡することも封じられて忍の元へと送り出された。
二人は左門のスマホを使って、エステルたちに左門を罠にはめて手駒にしたと伝える準備をしている。
香織の件を使って宮里家を脅迫しても彼らを動かすことはできないかもしれないが、左門を人質にとれば動かざるを得まい。
既に身繕いを済ませた紅美が中尾に問いかける。
「それで?左門先輩はどのくらい使えると思う?」
中尾は嘲笑を隠すこともなく謳うように答える。
「全く使えないでしょうねぇ。相馬さんはなんだかんだとこちらの足を引っ張ろうとするでしょうし、そもそも色々と隠し事せざるを得ない上に演技が下手な相馬さんのことを百地さんが信用するはずもないですし」
「でも、いいんですよ。彼の役割は今回も餌です。宮里さんたちを巻き込んで事を大きくするためのね」
紅美は中尾の言葉に顔をしかめながら釘を刺す。
「お祭り好きもほどほどにね。あちらもこちらもと手広く巻き込んで大やけどをしても知らないわよ」
「何をおっしゃいますことやら。私たちは指輪を巡るプレイヤー達の中では最も弱小です。となれば可能な限り事を大きくして誰にも制御できない混沌状態を作り出したうえでそれに乗じるぐらいしか目的を果たすことはできませんよ」
「目的…ね。信用してもいいものかしら」
「ご安心を。少なくとも今回はあなたに支配の指輪を手にしてもらうことが私の目的にとっても好都合なのです。あなたが指輪を手にするその時までは私とあなたの利害は一致している」
「エステル先輩や左門先輩を裏切った人を信用するというのもリスキーなのだけど?」
「私は相馬君とは違います。裏切っているくせに見捨てる決断もできずにうだうだ言っているような人とはね。宮里さんたちと百地さんを天秤にかけて、宮里さんたちを取って百地さんを裏切ることにしたというのに諦めが悪すぎる。どんなに言葉を飾ろうと百地さんから見れば裏切り者でしょうに、勝手に身内認定して味方面ですよ、甘えにもほどがある。 そんなことだからフレイヤさんからも嫌われるんです」
「えらく饒舌だね。左門先輩の事、実は嫌い?」
「ええ、大嫌いですね、自分の体験からすら学べないような盆暗は。身内に甘えて依存して、それで身内と信じた相手に裏切られて、この学園に放逐されたんでしょうにここでもやっぱり繰り返す。学習能力がないにもほどがある。他人に甘えるのもいい加減にしてほしいものです」
「そうなんだろうね。でも、そんな甘ちゃんの左門先輩の方があんたみたいな悪党よりは好ましく思えるよ…裏切った身で言うのもなんだけど」
話しながら紅美は中尾の左門への罵倒が、左門への裏切りに罪悪感を覚えた自分への忠告でもあったことに気が付いた。
中尾は紅美の様子に素知らぬ顔で、いかにも心外とばかりにオーバーに肩をすくめた。
「私は悪党じゃありませんよ。世界最大の悪、ほうらい会と戦うために手段を選ばないだけです。 SSと手を組んだり、クラスメートを罠にはめるぐらいコラテラルダメージというやつです。正義の味方の決断ってそういうものでしょう?」
fin
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最終更新:2022年10月19日 00:25