いい天気、いい転機


■西城健太:誰が呼んだか劇場版のび太。あやとりが得意。
イラストは らぬきの立ち絵保管庫 から


■大月晃:こんな名前でも女の子。快活で世話焼き、人懐っこいとモテ要素がそろっている。
イラストは らぬきの立ち絵保管庫 から



その日は、雨が降っていました。
「晃ちゃん、だってよ!西城、大月のことが好きなのかよ!」
「西城と大月、ラブラブ~」
肩をどんっと突かれてよろめいた僕に、さらにからかいの声がかかります。
‥‥いや、僕のことはいいんですけどね。これじゃ晃ちゃんがかわいそうでしょう。
いつか僕の研究助手になると言っている晃ちゃんですが、好きだとかどうとか言うよりも僕がいじめられないように見張ってるという意味のほうが強そうに思えるんですよね。晃ちゃんから見ると僕は手のかかる弟みたいな感じなんでしょう。
しかし、晃ちゃんという言い方でからかわれるとは。僕の考えが足りなかったようですね。晃ちゃんには悪いことをしました。呼び方を変えるとしましょう。



その日は雨が降っていた。
「健太くん、帰ろうよ!」
ランドセルを背負った健太くんに、いつものように声をかける。
「はい、帰りましょう、晃ちゃん」
いつもならこう返ってくるはずなのに。
「そうですね、大月くん」
「えっ?」
私は目をぱちぱちさせた。
「どうしたの、健太くん。いつもなら晃ちゃんって‥‥」
「いや、僕たちももう5年生ですしね。いつまでも子供っぽい呼び方なのはどうかと思いまして」
「そんなの、私は気にしないのに」
「‥‥ですよ」
健太くんが何かぼそっと言ったけれど、私には聞こえなかった。
「え?何?」
「いえ、何でもないです。帰りましょうか」
傘をさして一緒に歩く。家はもうすぐ。
「じゃ、また明日ね、健太くん」
「はい、また明日。大月くん」
健太くんはもう「晃ちゃん」と呼んでくれなかった。
雨が降っている。私はいつの間にか泣いていた。



健太くんはわかってない。
あの日、椅子ごと蹴り倒されて入院することになった日。
私がどれだけ心配したか。どれだけ心の中が健太くんでいっぱいになったか。
なのに健太くんはわかってない。ただ幼馴染だから心配して気にかけてると思ってる。
そんなんじゃないのに。幼馴染なんかじゃなくたって、私は健太くんを気にかけるのに。
あの日からずっと、健太くんが好きなのに。健太くんが「晃ちゃん」って呼んでくれるのがとても好きだったのに。
なのにもう、健太くんは「晃ちゃん」って呼んでくれない。
私は雨と一緒に涙を流す。
‥‥健太くんの、ばか。



晃ちゃん、いえ、大月くんを泣かせてしまいました‥‥
なぜ泣かせてしまったかぐらいはわかりますよ。
僕たちはずっと、仲よしの幼馴染でしたから。それが突然「大月くん」呼びになったものだから、それまでの関係が否定されたかのように思ってしまったんでしょう。
僕がからかわれるだけならまだいいんです。でも、大月くんがからかわれていじめられるのは、僕にとっては我慢できないことですから。
なぜだかわからないけれど、大月くんがいじめられると思ったら頭がかーっとしてくるんです。それはとても耐えられないような熱さです。
だから‥‥
「ごめんなさい、晃ちゃん」
僕の中でも、こう呼ぶのはこれで最後。



大月くんは最初は呼んでも知らんぷりしたり、「晃ちゃんでしょ!」と言ったりしていましたが、僕が「大月くん」呼びを辞めないので次第に受け入れてくれるようになりました。
最初のころは何かと絡んでいたクラスメートたちも、僕が「大月くん」呼びに変えてからは何も言わなくなりました。
大月くんが何か言ったのかもとは思いましたが、確かめることはできませんでした。なぜなんでしょうね。僕は不思議に思うことがあったら確かめずにいられない性格のはずなんですが、なぜかこの件については触れてはいけないような気がしたのです。
そして僕たちは6年生になり、中学生になり、蓬莱学園に進学しました。
「えーとえーと、本当ですか?」
「本当よ。小さいころに言ったじゃない。私は健太くんの助手になるんだって」
「あのあの、それはそうですが、あやとり研はともかく機械工学研なんて‥‥」
「機械工学だって健太くんの研究対象なんでしょ?だったら私もやる。当然でしょ?」
「それは、それはその通りですけど‥‥」
機械工学研なんて男性比率が9割を超えてるんですが‥‥それでもいいんでしょうか?
そう言ったら大月くんは大笑いしながら僕の背中をぺしっと叩きました。男女比なんかどうでもいい、僕の助手がやりたいから入るんだと。
7歳か8歳くらいのころの約束なのに、こうして守ってくれるとは。大月くんは本当にいい子ですね。



健太くんは完全に私の呼び方を「大月くん」に変えてしまった。
あれで健太くんは結構頑固だから、もう「晃ちゃん」呼びに戻してくれることはないだろう。
寂しく思っていたら、とある話を小耳にはさんだ。
なんでも健太くんが私を「晃ちゃん」と呼んでいたのが原因でからかわれてたとか。
何よそれ。健太くんが私をどう呼ぼうと、健太くんの勝手じゃない。
「あ‥‥」
憤慨した私はふと気づいた。健太くんが私をどう呼ぼうと、健太くんの勝手。
そうなんだ。私は「晃ちゃん」と呼ばれるのが好きだったけれど、私をどう呼ぶか決めるのは健太くんなんだ。
健太くんが頑固なのは、それが考えに考え抜いて出した結論だからだと私は知っている。だから私が「晃ちゃん」呼びにこだわるのは、その健太くんの考えを否定することになる。
ごめんね、健太くん。健太くんには健太くんの考えがあったのにね。
そうして私は「大月くん」呼びを受け入れた。



そして私たちは蓬莱学園に入学した。
あの約束がやっと果たせる。健太くんの研究助手になるという約束が。
健太くんは中学に入る少し前に、超統一理論というものを知った。
「この理論を使えば、たとえば人間の感情でエンジンを動かすことができるかもしれないんですよ!」
最初は何を言ってるのかよくわからなかった。健太くんはものすごく興奮していたし、その理論がどういうものかも知らなかったから。
でも健太くんがそれを研究したいと言うのなら、私だってできるようにならなくちゃ。約束だもの。私は助手になるんだから。
助手になって‥‥いつも一緒にいるって決めたんだ。あの日に。



その日は、よく晴れていました。
「大月くん大月くん、ちょっと手伝ってくれませんか?」
「いいよ、新しいあやとり?」
「はいはい。ここのところを押さえるために、やっぱり2人必要になっちゃうんですよね」
大月くんは助手として素晴らしい働きをしてくれます。僕の言いたいことがすぐに、しかも過不足なしに伝わるのはとてもありがたいことです。
特にあやとりの説明は口頭ではひどく複雑になるのが当たり前なのに、図示することもなく理解してくれるんですから。
ただ、その日の大月くんは何か様子が変でした。ひどく緊張しているような、思いつめたような表情をしているのです。
「あのあの、大月くん‥‥違ってたら悪いんですが、何か心配事でもあるんですか?」
「え、なんで?」
そう言って大月くんは笑うのですが、その笑顔がまたいつもとは違って何か固いような気がするのです。
「なんとなくだけど、わかるんですよ」



「なんとなくだけど、わかるんですよ」
いつもの最初の一言を繰り返す口癖がなくなった。健太くんがすごく真剣になっている証拠だ。
「健太くん‥‥わかっちゃうんだ」
そうだよね。だって私たち、いつも一緒にいたもんね。私はずっと健太くんを見てたし、健太くんはずっと私を見てたもんね。
「あのね、健太くん‥‥私、転校しなきゃならないかもなんだ」
あまりに突然の話で、私も混乱していたのだけれど。
なんでも私の父が本土の大学に通っていたときお世話になった人の息子さんが、私と同い年なんだそうだ。そしてその息子さんが私の写真を見て、何を思ったのか私と付き合いたいと言い出したらしい。
「お父さんは私の好きにすればいいって言ってくれてるんだけどね、その人がいなかったらお父さんとお母さんは結婚できなかったんだって。だけどね、私は‥‥」
「大月くん」
健太くんは真剣な表情で私の顔をじっと見た。
「お父さんの言ってることは正しいですよ。そういうときに一番大切なのは、大月くんがどうしたいかです」
「私‥‥私はね‥‥」
確かに、私がどうしたいかなんて決まってる。だけど、お父さんとお母さんが‥‥
「大月くん!僕が聞いてるのは、大月くんがどうしたいかなんですよ!」
「健太くん‥‥」
健太くんは私の両肩を捕まえた。痛いくらいに力が入ってる。
「私‥‥私は、健太くんといたいの!私が好きなのは、健太くんなの!」
言ってしまった。一度口から出してしまうと、もう止まらない。
「私、健太くんと会えなくなるのは嫌。見たこともない人と付き合うのも嫌。健太くんでなきゃ嫌!」



「私、健太くんと会えなくなるのは嫌。見たこともない人と付き合うのも嫌。健太くんでなきゃ嫌!」
「大月くん‥‥」
すっと、僕の頭に大月くんとの今までのあれこれが流れ込んできました。今までわからなかった大月くんの言動が、すんなりと理解できていきます。
ああ、そういうことだったんだ。僕は今まで、彼女の何を見てきたんだろう。そして、僕自身の何を知っていたと言うんだろう。
「晃ちゃん」
5年ぶりに口に出したその呼び方。晃ちゃんがはっとしたように僕を見上げる。
「ごめんね、晃ちゃん。僕がもっと早く自分に気づいていれば」
「健太くん、その呼び方‥‥それに、喋り方」
「晃ちゃんにだけだよ。他の人にはこんな喋り方しない」
僕を見つめる晃ちゃんにゆっくりうなずいて。
「僕も、ずっと晃ちゃんが好きだった。やっと気がついた」
「健太くん‥‥」
「晃ちゃんのお父さんは僕が説得する。だから晃ちゃんは心配しないで。僕だって晃ちゃんと会えなくなるのは嫌だから」
「お父さんは私が健太くんを好きだって知ってるの。だから好きにすればいいって言ってくれてた。ただ私ね」
「わかるよ、晃ちゃんは優しいから」
そう、僕は知っていた。晃ちゃんが優しいことを。だから僕が自分だけの考えで「大月くん」呼びに切り替えたときも受け入れてくれたし、僕が自身の気持ちに気づいてさえいないときでも何も言わず僕のそばにいてくれた。
もしこんなきっかけがなかったら、晃ちゃんは今でも何も言わなかっただろう。自分の気持ちに蓋をして。今、お父さんがお世話になったという人のために自分の気持ちに蓋をしようとしたように。
晃ちゃんは、誰かのために自分に蓋ができる。それは誰にでもできることじゃない‥‥僕にはできない。できなかった。
「ごめんね、晃ちゃん。ずっと気持ちに蓋をさせてきてしまってごめんね」



「ごめんね、晃ちゃん。ずっと気持ちに蓋をさせてきてしまってごめんね」
「健太くん‥‥」
わかってくれた。健太くんがわかってくれた。また「晃ちゃん」って呼んでくれた。丁寧じゃない喋り方を、私だけにしてくれる。どうしよう、すごく嬉しい。
「ありがとう、健太くん」
「僕のほうこそありがとう、晃ちゃん。僕に転機をくれて」
健太くんに抱きしめられながら、私は空を見上げた。
その日はとてもよく晴れていた。

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最終更新:2022年10月19日 00:00