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悟り

概説

悟りとは、迷いの世界を超え、真理を体得することとされ、前近代から近代にかけて悟りに相当する様々な覚醒体験が記録されてきたと言える。悟りは、解脱とも同義とされ、解脱は「解放されること」「解き放たれること」を意味するvimokṣaあるいは、vimuktiから転化したものである。仏教学者の玉城康四郎は、「全人格的思惟」の実習を通して形なきいのちであるダンマが生の根源態(生きとし生けるものの輪廻転生の姿)である「業熟体」に顕現することであるとしている。

インドの仏教では悟りに相当する覚醒体験を意味する言葉が多くあり、日本においても、大乗仏教の覚醒体験を意味する言葉の総称として用いられてきたと言われる*1。今日では悟り体験記に記されているような覚醒体験が公表されることも少なくなりつつある一方、『広辞苑 第六版』に悟りの意味として、「理解すること、知ること、また、気づくこと、感づくこと、察知」あるように、日常において、その意味するところは曖昧になりつつあると言える。なお、悟り(梵語:bodhi)「awakening」(覚醒)「enlightenment」(enlightening(啓発・啓蒙)された状態、光明)と英訳されるが、「to be awakened」の方が正確であるとも言われ、日本の禅宗における見性(心の本性を見ること)という悟りは、禅が世界中に広まる中で、英語で「Satori」として受け入れられている。
脳画像の専門家であるアンドリュー・ニューバーグは、悟りに繋がる様々な体験、自分や世界について新たな洞察を与えてくれる一瞥体験を小さな悟り、人生を一変させる偉大な自己変革、人の苦悩を取り除き幸福と平和をもたらす究極の体験を悟りとしている。

悟り体験の枠組み、要素

悟り体験記において記されている修行は様々であるが、それぞれの修行によって得られる悟り体験のうちには、実は意外なほど共通的な枠組みが認められると言い、大竹晋氏は典型的な悟り体験は、自他亡失体験真如顕現体験自我解消体験基層転換体験叡智獲得体験の5段階から構成されていることを指摘している。*2

自他亡失体験

通常の心である“自我の殻”を残しているにせよ、自己と他者の隔てを忘失して、ただ心のみとなる体験である。臨済宗においてはまだ悟り体験とは見なされない。

真如顕現体験

通常の心である“自我の殻”を破って真如が顕現する体験である。

自我解消体験

真如―法無我―が顕現したことによって、通常の心である“自我の殻”が解消される体験である。自我の殻が解消されるに伴い、“自我の殻”に閉じ込められていたものが全世界へと放散される。

基層転換体験

通常の心である“自我の殻”が解消されたことによって、存在の基層が従来の基層から転換する体験である。存在の基層とは、仏教的に言えば、色(肉体)、受(感受)、想(対象化)、行(諸形成体)、識(認識)という五蘊であるが、現代的に言えば、心(精神)と身(肉体)である。心の変容という点では、それまで心の外側にあった全世界が心の内側にあるかのようにしばしば感じられる。

叡智獲得体験

存在の基層が転換したことによって、かつてない叡智を獲得する体験である。臨済宗においては、公案の解決によって、叡智の獲得が確認される。

また、アンドリュー・ニューバーグは様々な宗教や信条、人種の人々が体験したという悟りを分析した結果、悟りには5つの基本的な要素があり、それは概して全ての人に共通しているという画期的な結論が得られたのだという。*3

1 一体感やつながりの感覚
2 信じがたいほど強烈な体験であること
3 明瞭な感覚と根本的に新たな認識
4 明け渡しの感覚、自発的コントロールの喪失
5 自分の信条や人生観、目的意識などが突然、恒久的に変わってしまった感覚

悟り体験の事例

白隠慧鶴の体験

臨済宗中興の祖として仰がれる江戸時代中期の禅僧白隠慧鶴(1686-1769)は、宝永5年(1708年)、越後高田の英巌寺において神秘体験を得たが、同年、信州飯山の正受庵において道鏡慧端に批判され、慢心をすてて参禅し、見性した。このような体験では、神秘体験によって獲得されなかった叡智を悟り体験によって獲得していることが窺える。

 それからというもの、あらゆる角度から公案に取り組んで、寝食を忘れた。先以来の歓喜は、かえって汲み尽くせぬ愁いとなった。かの英巌寺のみたまやにいた日に較べ、その苦労は十倍であった。ある日、托鉢して飯山の城下に到って、ある家の門の前に立ったところ、じっとしたまま前後不覚となった。その時、〔その家に〕気のふれた人がいて、目を剝き、急に走り来たって、箒の柄を伸ばして、わしの頭を烈しく打った。菅笠が破れて、心は驚きのもと崩落した。全身ばったりと倒れ臥して、息も絶えること半刻。そばにいた人たちは誰もがそれを見て、打ち殺されたと考えた。
 やがて息を吹き返し、起き上がってみると、以前まで手をこまねいていた数個の設問が、根底から解消されていた。歓喜に堪えず、ゆっくりゆっくり庵室に帰り来たったところ、正受老人は軒下に立って、離れたところから一見し、微笑んでおっしゃった。「おまえ、何か得たか。」
 わしは進み寄って詳しく所見を説明申し上げた。正受老人は大いに歓喜し愉悦なさって、さらに幾重もの奥深い門(公案)を設け、幾つも続く茨の草むら(公案)を布いてくださったのである。*4

今北洪川の体験

江戸時代末期から明治時代の著名な禅僧今北洪川(洪川宗温、1816-1892)は、鎌倉の臨済宗円覚寺派の初代管長をつとめた人物であり、本人の著書『禅海一瀾』には、体験について次の通り、記されている。以下に見られる「只だ覺ゆ、吾が腔内の一氣、十方世界に瀰滿して光曜無量なることを。」という表現からは“自我の殻”に閉じ込められていたものが全世界へと放散されるという自我解消体験の特徴が見出される。

愚、昔日、此に慨く有り。一旦發憤して、徧く明眼の師を尋ぬ。何の幸ぞや、一大老漢に輦下に遇著し、師資の禮を取り、遂に昧死自誓す。我今より大道を辨究して五年十年、若し了悟せずんば、則ち朽木糞牆、世に益無し。須らく跡を丘壑に晦まし、再び面皮を人間に呈せざるべしと。是くの如く決心し、身を擲ち以て道に當る。一衣一鉢、口に投ずる者は蔬菜糲食、身に觸るる者は熱喝嗔拳。胸中、時に或は怏惱し、或は悶絶すれども、愈々激して衰へず。苦屈の久しき、一夜定中、忽然前後際斷し、絶妙の佳境に入る。恰も大死底の如く、一切物我有ることを覺えず。只だ覺ゆ、吾が腔内の一氣、十方世界に瀰滿して光曜無量なることを。須臾にして蘇息する者の如く、視聽言動、豁然として平日に異る。是に於てか試みに天下の至理妙義を求むるに、頭頭上に明かに、物物上に顯はる。歡喜の餘、自ら手の之を舞ひ、足の之を蹈むを忘る。即ち忙に連叫して曰く、「百萬の典經日下の燈、也た太だ奇なり太だ奇なり」と。*5

51歳の無宗教の医師の体験

アンドリュー・ニューバーグらのオンライン調査に寄せられた51歳の無宗教の医師は、友人を助けに行くためにトラックを運転していたところ、どこからともなく突然に現れる悟り体験のようなものを体験している。

 トラックで永井橋を渡っていて、私は突然、自分の認識に何らかのシフトが起きたのを感じた。橋と自分が運転しているトラックと自分自身の境界が曖昧になり、こんな想いが浮かんだ。「すべては同じで、君と何の違いもない」
 そのまま運転を続けていたが、目に映るすべての物が「同じ」に感じた。すべてが「同じ」だった。(この体験には深遠で聖なるクオリティがあったので、カッコつきにした)
 私は歓びのオーラに満たされ、その歓びはどんどん高まった。私は自分の意識も観察していたのだが、一列に並んだドミノのコマが順番に倒れるように自分の思考が崩れていくように感じた。自分のすべての「問題」が解決されたというわけではなく、疑問自体がなくなったことにより問題が消えたのを観察した。私はこう考えた。「私はただ道を失っていただけで、いまそれを見つけた。私はこの聖なる『同一』のすべてなのだ」
 数分後にその「理解」は消えはじめた。しかし、この体験は私の人生を恒久的に変えた。いつも現実を感じるリアルさ以上にリアルに感じた体験だった。真実は明かされ、私はかつて自分が生きていた古い現実で幸福を求めることの不毛さに気づいた。*6

神秘体験との関わり

日本においても、悟りは、大乗仏教の覚醒体験を意味する言葉として、その枠内で論じられてきたと言えるが、悟り体験が大乗仏教によらなくても得られるとも言われる。例えば、キリスト教徒として来日し、禅によって悟り体験を得たという人も少なからずいる*7。このような視点から、悟り体験周辺の諸相を見ていくと、先にあげた5段階の体験のうちのいくつかの段階や、悟り体験の事例を見る限り、神秘体験の特徴ともよく重なるものであると言える。実際、宇宙意識や神と一体となることを目指す思想運動では悟りは人気を呼び、ニューエイジの潮流では悟りは神秘体験として捉えられることもあるが、このような神秘体験によって、どれほど大きな悟りを体験したのかについては、個人的で主観的な評価になり得ると言えるだろうし、諸宗教の伝統によって定められた形の宗教体験であると言えるかは難しいところであると言える。
一方、宗教心理学者の大村哲夫は、1300年ごろに成立した『伝光録』という高僧伝から悟りの概念を歴史的に検証した結果、悟りは師が弟子に教示し問答を交わす中で弟子は新たなパラダイムを獲得するという経験が主で、これまで語られているほど悟りと神秘体験は一体とみなされてこなかったことが分かり、よって悟りに神秘体験は不可欠ではないと結論付けている*8。先に挙げた白隠慧鶴の体験を見ても、神秘体験を得て慢心していたが、それによって獲得されなかった叡智を悟り体験によって獲得している(以前まで手をこまねいていた数個の設問が、根底から解消された)と言える。
また、石井登は臨死体験者の意識変化の最も深い部分と、宗教的な悟りや「自己」超越等と呼ばれる体験に見られる意識変化に大きな共通点があることを指摘している*9。そして、石井は先に挙げた今北洪川の体験のような自己と世界が溶け合う体験のような森羅万象との合一感を臨死体験者の多くが体験していることを指摘している。

悟りと脳

アンドリュー・ニューバーグは、悟りや小さな悟りを体験できる能力は人の意識と脳神経回路に組み込まれていると言い、小さな悟り体験は人の脳の中で最も近い過去に進化した構造に関連しているようだという*10。ニューバーグらは、人が神や超常的な存在と実際に繋がったかは分からないが、悟りの内容は、脳の構造と機能を恒久的に変えられる特定の神経上の出来事について述べているという点では、リアルだと考えているようである。
ニューバーグらは、人が熱心に祈ったり、瞑想や精神修行に没頭していたりすると、前頭葉と頭頂葉の神経活動が突然急低下することがあるということを脳のスキャンの研究で観察できたという*11。そして、その瞬間に、驚異的な認識のシフトや意識の一体化を体験しやすいと言い、これが悟りの重要な要素になるという。

  • 参考文献
アンドリュー・ニューバーグ/マーク・ロバート・ウォルドマン『「悟り」はあなたの脳をどのように変えるのか 脳科学で「悟り」を解明する!』エリコ・ロウ訳 ナチュラルスピリット 2019年
玉城康四郎『悟りと解脱 宗教と科学の真理について』法蔵館文庫 2021年
大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』新潮社 2019年
大村哲夫「継承される宗教経験 伝光録』にみる「悟」」『宗教研究』第81巻 日本宗教学会 2008年
石井登『臨死体験研究読本 脳内現象説を徹底検証』アルファポリス 2002年
秋山さと子『悟りの分析 仏教とユング心理学との接点』PHP研究所 1991年
今北洪川著、太田悌蔵訳注『禅海一瀾』岩波文庫 1935年
  • 参考サイト
最終更新:2026年06月27日 23:04

*1 大竹 2019 p.6

*2 大竹 2019 p.217-218

*3 ニューバーグ・ウォルドマン 2016(邦訳 2019)p.62-63

*4 大竹 2019 p.89-90

*5 北川 1935 p.26

*6 ニューバーグ・ウォルドマン 2016(邦訳 2019)p.57-58

*7 大竹 2019 p.276

*8 大村 2008

*9 石井 2002 p.262

*10 ニューバーグ・ウォルドマン 2016(邦訳 2019)p.28

*11 ニューバーグ・ウォルドマン 2016(邦訳 2019)p.102