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人生の縮図を見せる「人生ゲーム」

たまに会話の中で「人生ゲーム」という言葉を耳にすることがある。話の相手が気弱になってるときや、自分の元気を誘い出したい時。たとえ空元気だと見抜かれても周りを安心させたい時。「人生はゲームみたいなもの」と慰める。まあ、使う相手、場所、タイミングさえ間違わなければ、意外と癒やし系の言葉なのかもしれない。
さて僕の場合も、この「人生ゲーム」という言葉に強く反応するときがある。それはズバリ!「人生ゲーム」デス。そっ、囲んでするゲームね。友達が突然石油を掘り当てちゃうやつ。
あのゲームは人生を見せるよね。一番で上がった時には「ま、これはゲームだから」と不思議に自分をたしなめることができる。逆に散々な負け方をしたときは「実はコレが自分の人生だったりして」なんて一瞬でも考えてしまったことに嘘(うそ)はないワケで。次の問題に切り替わるまではどこか寂しくなったままなんてことも。
このゲームはある意味、本当に人生の縮図を見せているのではないか?と思えてしまうのだ。例えばその日、その時集まった面子(めんつ)で始まる。この始まったタイミングが出会い。この時にはもうお互いの全(すべ)てが影響を与え合ってる。
サイコロやカードの数字の大きさにはそれほど重要性はなく、起こる出来事に遭遇させる為(ため)のただのきっかけでしかない。突然、自分の番がやってきたり抜かされたり。自分ではどうしようもない流れを仲間でつくり合う。これが"運命"なのか…と。
こうなってしまうと自分の意志が働く余地がなく、自分という意味が無くなってしまいそうだが、そうじゃない。こうありたいと願う気持ちは自分の潜在意識になり、そうなるための準備になる―。
そんなことを、先日小田和正さんと一緒に富士急ハイランド(山梨県)で行ったコンサートで考えた。詳しくは次回で。
最終更新:2025年08月16日 12:57