「低いよ。もう一回いこう!」
スタジオのドアを押し開けるとゴーちゃんの声がした。手を上げると軽く手を振り返しはするが、力がない。
「ハイ、どうしたの?」
お手上げのポーズをとったゴーちゃんは、クルリとミキサー卓に向き直った。スタジオがいつもの雰囲気とはどこか違う。隣にいるエンジニアの横山は忙しそうにパチパチとロケーターのスイッチを叩いている。スタジオ・ブースのチャゲに手を振ろうとしたが、マイクの前の椅子に座ったまま、まんじりともせずに腕組みをしている。
「ダメだ、全然ダメだ」
なんとなく状況が理解できてきた。
「低いの?」
「まったくダメだ。ピッチを合わせようとすると、気にしすぎて借りてきたような歌になるし、楽にいこうと言えばリズムが悪くなる……」
この言葉のトーンから想像すると、ゴーちゃんはかなりイライラしているようだった。先日チャゲから「シングルのカップリング・サイドの俺の曲のメインは、アスカがやってくれないかな。自分で書いたにもかかわらず、お前のイメージがあるんだワ」ともちかけられ、一昨日に僕のメイン・ヴォーカルは終わっていた。残りのチャゲ自身のメイン・ヴォーカルとハーモニーの部分を今日中に仕上げる予定である。昨日、そして今日の夕方まで雑誌の書きものにかかりっきりであったために、二日間の時間の流れが把握できてなかった。
僕はこの状態でこれ以上の言葉を失ったため、スタジオの空気に染まるように隅のソファーに腰を下ろした。
ゴーチャンが卓のトーク・バックのスイッチを押し、椅子に座り込んで動かないチャゲを誘うように呼ぶ。
「チャゲ、大丈夫か……」
やっと腕組みをほどき、両手の指で両目をこすりながらチャゲが立った。
「ああ、なんでかなあ。そんなにずれてる?」
「半音違うくらい、ずれてる。それが自分で解らないくらい調子が悪いんだよ」
「OK、もう一回流して」
チャゲの要求に、再び横山がテープを回し始めた。つま先でリズムをとりながら、自分が歌う前までの僕の歌を聴いている。そして歌い始めた。しかし、わずか一小節だけで、音程の悪さが解る。そしてゴーチャンがテープを止める合図をした。
「ストップ、ストップ!」
先ほどの強さはない。
「チャゲ、こっちにおいでよ」
「大丈夫だよ、やるよ。テープ同じところから出して」
スタジオ・ブースの暗さの中でも、言葉の強情なトーンから表情が解る。
「いいから、こっちへおいでよ」
ため息をつく声が、マイクを通してあきらめの音に変わる。そして、無造作にヘッドフォンを譜面台に掛け、コントロール・ルームへ歩いて来た。
「おう、調子わるそうやな」
いきなりに、少し驚きながら、
「おう、来とったや。いかん、いかん。全然ダメ」
言葉のほとんどは、自分に言い聞かせるようにつぶやく。そして、隣に来ると黒い革のソファーに身体をあずけ、また腕組みをした。ゴーちゃんはと横山がこちらを振り返り、心配そうなノエルとローリーがこちらを見つめ、ちょうど全員が顔を見合わす形になった。
「チャゲ、今日は止めようか」
ゴーちゃんが言う。
「だって、昨日もダメで、今日止めたらシングル出せないじゃない」
「でも、こんな調子のままで録音できないだろう」
さすがにチャゲの言葉は続かなかった。
「大丈夫です。明日もやって下さい」
いつのまにか、ミホちゃんが輪の中に加わってた。僕とチャゲは同時に顔を見合わせた。
「間に合うの?」
「本当は、ダメですけどね。いまからすぐ東京に電話してみます。一日、二日ぐらいなら何とかなると思います」
「じゃあフジ、ミックス・ダウンとマスタリングの変更、明日の朝一番に頼むね」
ゴーちゃんが続く。そして受話器を持ったミホちゃんが何か早口で喋っていたが、電話の前でお辞儀を何度か繰り返したあと、こちらにOKのサインを出した。
車のラジオから、タイトルは解らないが、よく耳にする曲が流れている。チャゲはさっきのスタジオでのミーティングが終わると同時に帰った。
帰り際にノエルがチャゲをつかまえて、クイーンの故フレディ・マーキュリーも五日以上コンディションが悪くて録音できなかったことや、ジョージ・マイケルのことや、自分が経験したいろんなアーティストのハプニングをチャゲに伝えていた。
しかし、「おそらく明日もできないだろう」という気持ちがわいてくる。ヴォーカリストは微妙である。チャゲは何かの拍子に自分をなくしている。マイクの前に立つことに不安と恐怖を覚え始めている。「たかが、歌ぐらいで」と思われがちだが、それは僕らが、プロであるからだと思っている。何度も音を外していくと、最初はたわいもない笑いが起こるが、そのうちに「自分の実力を見られるんじゃないか」と考えだす。
どんなに歌のうまいアーティストも、自分の歌の未完成の部分を知っている。だから、一生懸命それを隠そうとする。そのため他人が聴けば、とても丁寧ないい歌に聴こえる。
いまのチャゲは頭のなかでメロディラインのイメージができにくくなっている。例えれば、バイオリズムの三本のラインが悪いところにみんな集まっているような。
「ヴォーカリストは喉が勝負です。しかし、それよりも精神状態が命かもしれません。こういうときに力を発揮できるグループでありたいと思います」
その日の日記にはそう記してあった。
翌日は、東京から雑誌、「with」の撮影が入っており、ちょうどいい休憩を挟みながら進めた。しかし同じであった。いまいちばん辛いのはチャゲであることを皆が知っていた。
少しずつチャゲの回復を待ちながらみんなが一つになっていた。「with」ではスタジオの近くにあるフラットのガーデンに行き、芝生の上で撮影をした。久々に外で息を吸ったような気になる。ゆったりとした撮影を終えスタジオに戻るための門を抜けたところに、背の高い警察官がなにやら、うろうろと見回っていた。
夕方レコーディングの合間にリビングにいると、先ほどの警察官が入って来た。
なにか調書をとるための記録帳らしきものを首から下げている。
「こんにちは、突然すみません」
「こんにちは」
「実は先ほど、子供の窃盗がありまして、何かご存じではないかと思いまして、近くの民家の人から、こちらのほうへ来たらしいと話がありましたので、寄ってみました」
少し間をおいて、ほぼ全員が、
「あいつらだ……」
約一時間前、芝生のところに行く前に、スタジオ側の塀の横や、ビルの上で撮影をした。
その時、日本でいえば小学校の五、六年生ぐらいの三人の子供達が、僕らの情景に興味をもち、それを見ていた。塀の横で写真を撮っていると、その塀を向こう側からよじ登ってきた。最初はおとなしく見ていたが、ビルに上るための螺旋階段を上がっていると、下から声をかけてきた。
「何やってるの?」
「撮影だよ」
「あの人たち、ミュージシャンなの? 有名?」
「そう。日本でものすごく有名」
「ふーん、ねっ、このビルに上るための許可証とってあんの?」
「いいえ、でもここはスタジオの敷地内だから」
「ここは、別なんだよ」
「あら、そうなの」
「お金払っといてあげるから、僕たちに渡しといて」
「ええっ?」
この会話は僕ら二人には聞こえなかったが、下にいた、ミホちゃんや、「with」のスタッフに子供達が言い寄ったらしい。子供達がいなくなって、「とんでもないガキだな」と話題になっていた。それを警察官に伝えた。
「その子達かもしれませんね。特徴か何かありましたら教えて下さい」
僕が驚いたのはそれからだった。「覚えてないなあ」と首をかしげていると、
「ひとりが、帽子を、キャップをかぶってました。三色になって真ん中が赤のやつでした」
フジが言う。
僕は「へえ」と見ていた。すると今度はナベさんが、
「ひとりはバスケット・シューズを履いていました。あとのふたりはスニーカーでした」
また「へえ」と思った。そうすると「with」のスタッフが靴のメーカーを言う。
今度は、ゴーちゃんが、
「ひとりは、グレーのスエットで左側に大きく縦に文字がはいってました」
「そうそう、あとひとりはデザインの派手なダブダブのパンツで、、もうひとりは紺だったかな」
次々に、特徴を言う。僕はそのたびに「へえ、そうだっけ。あっ、そうそう」と繰り返しているだけで、何にも覚えてはいなかった。ちょっとすれ違ったような、わずかな時間である。
僕はみんなの記憶力に脱帽した。
そういえば僕は昔から、自分の好きな女の娘の、その日着ていた服さえ答えられなかった。
その服について話題が出てれば別だが、よっぽどのことがない限り、覚えちゃいない。
もしこれが殺人などの大事件であったなら、僕は何ひとつ協力できなかった。みんなの記憶力に尊敬の念を抱いた。
ひと通り話が終わると、スタジオにノエルが入って来た。
「どう? いろいろ覚えてたんだって?」
どうやらローリーが伝えに行ったらしい。
「そう、すごいんだよみんな。キャップだろう、派手なビッグ・パンツだろう、Tシャツだろう、スニーカーだろう、みんな覚えてるんだ」
そしてノエルは、目を輝かせるようにして、警察官や、僕らに伝えた。
「犯人を見つけたよ」
「どこで!?」
ノエルは意外にも、リビングのソファーに座ってる僕らの中のひとりを指さした。
みんな指の先を追う。キャップ、派手なパンツ、Tシャツ、スニーカー。まさにそのまんまのチャゲがそこに座っていた。
「バカ野郎、俺じゃないって。一緒にいたじゃねぇかよ。バカ野郎」
警察官が、手錠をかけるジェスチャーをした。チャゲは身振り手振りで説明している。
大笑いのあと、警察官はみんなの記憶に本当に驚いて帰って行った。
「今日は、もう止めようか」
マイクの前に立っているチャゲにゴーちゃんが言う。
先ほどの楽しい光景は、この空気の中では生きられなかった。とてもシビアで痛い。
「もう一度流して」
「ダメだよチャゲ、喉が終わりかけてる。これでもし今日つぶしてしまったら、完全にシングル終わるよ」
そろりとヘッドフォンを置き、コントロール・ルームへ歩いて来た。
「俺のメインのパートなくそうかな。アスカ、お前やんないか」
完全に弱気になってる。無理もない。三日間やりつづけて一行も本人の満足する歌が録れてないのである。しかしここで交替するのは精神的にもっと悪い。
「それはないぞ、チャゲのファンが納得しないだろ。せめてギャグぐらいは入れとかないと」
「それもそうやな。ネタ考えんとな」
「今日は時間も早いし、帰って寝よう。チャゲ、疲れがたまってるよ」
ゴーちゃんが諭すように言う。
「そうしようかな。最近、言い訳じゃないけど寝れないんだワ。すぐに目が覚めて、寝るとまた目が覚めて、疲れは感じる」
そのとき、ハッとした。
「お前それ、もしかして時差が直ってないんじゃないか?」
「時差?」
「おう。お前、東京にいるときはどんなに忙しくても六時間は寝るやろ」
「まあな」
「こっちで一時から始まるということは、サマー・タイムだから日本は夜の……九時からということだろう、昼飯食ってなんだかんだで四時ぐらいから本気で始めるということは、日本の夜中の十二時からだよ。お前それじゃ声も出んワな」
僕の前回の時差ボケはひどく、一カ月くらい引きずった。今回のチャゲと同じで、夜中に目が覚めてしかたがなかった。だから一日中身体がダルかった。チャゲは八月の一日に来たわけであるから、それでも十日ちょっとしかたっていない。時差に失敗すれば平気でこのくらいはひびく。
「そうか、時差か。なんだそうか、時差か。早く帰って寝なきゃ。みんな帰るぞ」
理由のできたチャゲは急に元気になった。自分の不安をとる材料ができた。それが一気に気持ちを盛り上げた。
「なんだ急に。おまえの場合、"ヴォーカリストは微妙である"の定理に入れたくないな」
「ポカリスエットは黄色? なんだそれ、帰るぞ。時差で調子悪いんだから、たまには相棒の身体を心配しろよ。ああダメだ。時差がどうもね、ああダメだ」
車のキーをチャラチャラ鳴らしながら、ドアの向こうに消えて行った。
「B型って本当にすごいですね」
フジが驚いている。
「あいつのは、特別だからね」
「移らないようにしよっと」
ゴーちゃんが服をつかむ。そしてみんなでめいめいに「俺もっ」「あたしもっ」と言い合ってスタジオを出た。
翌日ドアを開けると、もう声がしていた。
「おはよう、ゴーちゃん、どう? 今日は」
「まあまあだね。いま元気づけてるとこだけど」
僕は卓のトーク・バックのボタンを押し、声をかけた。
「よう、調子いいらしいな」
「おう、バッチリよ。やっぱ寝ると違うなあ」
精神状態の回復ができてきていた。睡眠の十分さはさほど関係ない。時差の問題は本人の気持ちの入れ替えを手伝ったにすぎない。それはちょうどボーリングのスコア表の中の、気持ちの入れ替えのために引くバーに似ている気がした。ゲーム中にうまくいかなかったフレームの最後に、鉛筆で強く縦に線を引く。それは「気にしないでいこう、これから新しくゲームがはじまりますよ」という気持ちの盛り上げのためのものである。
それはチャゲがよく知っている。何よりも本人がいちばん知っているし、実行しているからである。もうあいつとは随分長い。よく解る。
マイクの前の表情が全然違う。きっかけは何でもいい。気持ちよく歌えれば聴き手にも気持ちよく感じられる。
横山が振り向きながら言う。
「昨日までとレヴェルが全く違うんで、もう一度ヴォーカルのEQを作らしてください」
「そんなに違う?」
「ええ、全く違いますね。思い切っていつもの状態に戻してみます」
いままでは、調子の悪いチャゲに合わせて、何とか声の音色を作ってきたが、ここに来て必要でなくなったのだ。不思議なものである。それまでは、少しずついろんなものが重なって起こった現象ではあったが、気持ちの切り替えが声の音色までも変えてしまった。しだいにマイク前のチャゲの動作が大きくなる。手の動きが、足のリズムが、歌詞の表現を手伝うように忙しい。不可抗力で割れてしまったガラスが、何かの弾みでガラガラと崩れ落ち、その向こうから新しいガラスが顔を出したように思えた。
「これ、いけるんじゃない?」
肩でリズムをとるゴーちゃんの背中に独り言のように呟いてみた。
「ああ、長かったね」
やっぱり独り言おように返す。チャゲの喉は、歌うごとに本来の伸びを取り戻し、五時間足らずでベースを録り終えた。
「いやー、どうなることかと思った」
ブースから出て来たチャゲは、ミキサー卓にお尻を半分乗せ掛けながら言う。それはいい仕事をやり終え、くぐり抜けた過去の危険を、もう笑いに誘っているようなトーンに聞こえた。
「ホントだよ。できるんなら早くやれよ」
このくらい耳の痛いであろうジョークのほうが、かえって気持ちがいいと思った。
「スマン、スマン。ちょっと長すぎたな」
「チャゲ、少しは腹筋ぐらいしろよ」
ここはすかさず、ディレクターに戻るゴーちゃん。
僕らのようにロング・トーンを多用する場合、腹筋が非常にものをいう。腹筋ができてないと、我慢できずに声はフラットしていく。さすがにチクリと刺す。
終わらない嫌みと、かばい合いが、鳥の合唱のようにも聴こえた。鳥たちは、伸びきった羽根をゆっくりたたみ、めいめいに帰り支度をした。
翌日、イギリス唯一の海水浴リゾートとされているプライトンで写真撮影が行われた。もちろんイギリスにも泳げる場所はたくさんあるが、ここプライトンは街がリゾートを演じている。やけに白い街並みの一角を通り抜け、チャゲ得意の帽子屋に入ったり、ショッピング・ストリートで写真を撮ったり、仕事といえども心休まる時間になった。そしてその街から二十分ほど海沿いを走らせたところにそれはあった。
この崖は、きっと太古の時代にはどこかの島や国とつながっていたのではないだろうか。そして、それは地殻の変動でパックリと割られたんではないだろうかと想像させる。哀しくも悠々とそびえ立ち、石灰石からなる地層の顔をむきだしにしていた。青く澄みわたる空に、まるで挑戦しているような白さであった。
自然が創りだす見事なまでの景色のなかを、僕らは撮影した。のちに「no no darlin'」のジャケットの裏面や、『GUYS』のジャケットになった。
撮影がレコーディング中の息抜きとなり、それからはアルバムの中の歌入れに取りかかった。チャゲは二曲ぶんの詞を残しており、暇ができると、ボーッとする時間が多くなった。
順調に録音が進むなか、あと一曲の気がかりが重くなってきた。いずれにせよバラードである。シングル「if」のアルバム用のアレンジの録音を含め二曲録らなければならない。
心の中では早くから"HOME"というテーマが動きだしていた。"ホーム"という言葉のもつやさしさに魅力を感じていた。
ミックス・ダウンの合間を縫って、曲作りに入った。
僕の仕事部屋は三階にある。一人だけで仕事がしやすいように、周りをグルリとキーボードやシーケンサー(コンピュータ)、ミキサー、そしてデスクで囲み、回転椅子を中心にして、全てが手を伸ばせばよい範囲でセッティングしてある。作曲には一息ついていたので、鍵盤に指をのせると懐かしい感触があった。いまから作る曲は"M-7"としばらく呼ばれることになる。ピアノの音色にシンセ独特の温かい包むようなパッドを混ぜ、柔らかい大きな曲をイメージした。人の心に訴えかけることのできるメロディにしたい。
"HOME"
思いつくままを連想してみる。家族、暖かい、絆、テーブル、笑い、やさしさ、強さ……幸せの代名詞に限りなく近い言葉が並ぶ。現代の世相の中ではスタンダードすぎる匂いが漂うが、世間に潜む尖ったものの見方は必要ないと思った。
歌だからである。これについては、多くを述べる気持ちはない。
いつの間にか、歌は進んでいた。目の前のカセット・デッキがカタカタ回る。いくつかの心に残るメロディをこぼした記憶がある。テープを戻してそれを拾う。そしてその間を繋げるフレーズにこだわる。それを何度も繰り返す。さらに繰り返すうちに自分の歌い方や色が加わった。そして形ができると、アレンジに入った。
こうして順序を語ると、砂漠の中に石をのせながらピラミッドを完成してゆくようなふうに聞こえるが、ピラミッドで表現するならば、頂上から作ることもある。
ある程度のスタイルはあるが、すべてレコーディング中のハプニングであると、もう一度言わしてもらいたい。
出だしのメロディが、とても印象的なフレーズになった。思惑とほとんど外れることもなく、とても自然に広がった。
先日、自宅に衛星放送を入れた。MTVのミュージック・ヴィデオを観たいためであった。
朝から朝まで切れ間なく、ヴィデオ・クリップを紹介していた。相変わらず興味のないラップものが顔を出してはいるが、音楽より映像の面白さに魅かれた。
その日も徹夜明けで、ソファに凭れながらそれを観ていた。曲が変わり、マイケル・ジャクソンの曲が流れた。どういう曲だったか、テンポはどうだったか、覚えてはいない。
世界の惨状が画面いっぱいに広がった。病む地球、哀しい労働者の瞳、食事をとれずに死んでいく子供の姿、母親の悲痛な叫び……。画面に釘付けになった。
確かにいままでも、この手のフィルムを観たことはあった。知らないわけではない。しかし、その日は違った。涙を溜めて訴えかける子供の目に、申し訳なさで胸が痛かった。
肩を抱いてあげたいと思った。画面を観て涙を流すのではなく、その場所で一緒に涙を流さなくてはいけないと思った。複雑に絡み合った理論など必要あるはずもない。たまたま宿命の土地の上で苦しみを余儀なくされた人々。コーヒー片手にソファの上でそれを観ている僕ら。あまりにも差が大きすぎる。
昼過ぎにシングルのプロモーション、アルバムの方向性の打ち合わせのために、スタジオの一階にあるリビングに集まった。円形のテーブルに自分の場所を確保するかのように形よく並んだ。チャゲはアルバムの歌詞のために部屋に閉じこもっており、これには参加していなかった。
「チャゲできてるかな?」
ナベさんが心配そうに聞く。
「さっき電話したんですけど、少しばかり熱があるそうですよ」
フジが答える。
「あいつ、やっと曲録り終えてほっとしたんじゃないかな」
なにげなく僕は続けたが、確かにそれはあると思う。そうとう精神的に辛かったはずである。よく持ち直したものだと、いまさらながら思う。
「歌が終わったかと思えば、今度は詞か。風邪もひいて、あいつ踏んだり蹴ったりやね」
みんなが笑う。あいつの話になると話題がほぐれる。
この笑いの中で、ふと朝のテレビのシーンが浮かんだ。いままでもこのテーマで随分話をしたことがある。いつも気持ちの純粋さよりも、現実的なハードルの前に話が止まってしまう。僕は、朝の出来事をこと細かく、自分の気持ちを交えながら伝えた。
最初はみんなは驚いた様子で、否定も肯定もせずに黙って聞いていたが、次第に口を開きだした。簡単に話題は変えられてしまうと思っていたし、みんながこんなにも真剣に付き合ってくれるとは思わなかった。ナベさんは会社としてのあらゆる角度からの可能性を、そしてゴーちゃんはフォスター財団のことを熱っぽく語ってくれた。
フォスター財団とは、里親などを集める組織である。発展途上国の子供を里親として育てることのできる人を集める。子供を引き取って育てるということではなく、例えば、毎年日本から一人の子に、五万円を仕送りする。発展途上国とされる国での五万円の役割はとても大きい。それでその子は学校に行けるし、いろんなことを学んでいく。
ゴーちゃんは、ちょうどロンドンに来る少し前に、奥さんとフォスター財団の手続きについて話をしていたらしい。
こういう話が出ると必ずといっていいほど、お金で解決することへの不満が述べられるが、本当に心から待っている人達がいるのである。議論は表面でしかない。
僕が朝見た世界とは、その意味はまた違ったが、人の痛みを分け合うという点では何も変わりはない。
夜になり、みんなの話や顔を思い出した。人の悲しみのために、こんなに長く深い議論を交わしたことはなかった。同じテーマで似た会話は何度もあったが、今日のそれとは、違っていた。
何でだろう。僕があまり真剣だったからであろうか。精神論や思想論などを語りだすと、一応は長くなるが、今日のような迫力はなかった。きっとみんな日本人としての立場、そして同じ痛みを心の何処かにしまっていたのではないだろうか。
ふと"HOME"が地球のことに思えてきた。みんなの幸せを願うことは、自分の幸せを願うことでもある。そして鼻歌まじりに頭の中で響いた"HOME"のメロディがクリスマスソングに聴こえた。
翌日、ジェスとM-6とM-7の打ち合わせにはいった。M-6とは、すでにシングルとして発売された「if」のことである。当初この曲はシングルのアレンジのままでいこうと話していたのだが、アルバムの色の統一性を図るために、思い切ってリメイクしてみようということになった。いみじくも百万枚以上のセールスを記録している。アルバムを買った人の印象が正直、怖かった。特別、保守的な人達であるリスナーが、どういうふうに受け止めるだろう。しかし、あえてアルバムのためにやってみることにした。
次にM-7のデモ・テープを聴かせた。ジェスは尖った鼻の先でリズムを取るようにして頭を振っている。ゴーちゃんは黙って目を閉じている。
「アレンジはほとんどこのままでいいんじゃないかな。すごくテーマの広さを感じるな。ナイスソングだよ」
ゴーちゃんが腕組みをしたままの姿勢で言う。
「サンクス」
とりあえずの返事。
「アスカ、この曲のテーマは?」
ジェスがさっそく聞いてくる。いつもは抽象的になってしまうのだけれど、今日はほとんど聞かれたと同時に答えた。
「クリスマス!」
「あれっ? "HOME"とか何とかじゃなかったっけ?」
振り返りながらゴーちゃんが言う。
「テーマが進化しちゃってね」
心の変化の成り行きをみんなに伝えた。
「雪の降る国も、灼熱の太陽をうける砂漠の国も、みんなこの日はクリスマスって言うモチーフもできたよ」
「とにかくこの曲は、みんなで幸せになろうって曲なんだ」
「みんなで……か。テーマが大きすぎない?」
当然大きすぎる。太刀打ちできないほど大きいかもしれない。
「なんか、うまく言えないけど、今歌わなきゃいけない気がするんだ」
精一杯だった。これ以上の伝える言葉をもちあわせていない。ミキサー卓の向こう側でひじをついたままのノエルと目が合った。ウインクをするからウインクを返す。
「ようし、なんかそんな感じがしてきたぞ。クリスマスでいこう。思いっきりクリスマスしてやろう」
ゴーちゃんがその気になった。
「じゃあ、こうしよう。頭のメロディがちょうど偶然に音符四つだから、思いきりストレートにメリー・クリスマスって入れよう」
歌ってみせた。驚くくらいにはまっている。偶然じゃない。
このメロディは「メリー・クリスマス」と歌われるのを待っていた。偶然じゃない。
「どうだいジェス、キマってるだろう」
「……とてもキマってる」
「なんだい、どうした」
あまりにも一人だけ冷静なジェスが気になった。
「クリスマスはいいけど、僕はジューイッシュだから関係ないや」
「ああ、そうかジェスはユダヤか」
「でも、もうクリスマスは世界のお祭りだからね」
「まあね」
「つきあえよ、ガイ!」
ジェスの肩を叩いた。
「ジェスはクリスマス嫌いかい?」
「……実は、わりと好きだけどね」
ゴーちゃんが"ヘイ、ユー"のポーズでジェスを指さしてる。ノエルも続く。僕も続く。
「アスカさん、これってジェスのジョークですよ」
一部始終を見ていたフジが笑ってる。
「なんだ、クリスマスにはこだわってないんだ」
「ちょっと、シリアスすぎるよ。こいつジョーク下手だな」
スタジオのドアを開けると、雪が降ってそうな気がするくらいクリスマスで盛り上がった夏の終わりだった。
最終更新:2025年08月17日 21:00